kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

命の危機か・・・

2017-10-26 | 陸上競技
水曜日。授業をしていました。いつものことなのですが。

板書をしていいました。現在、株式会社の利益処分の内容を授業でやっているのですが「繰越利益剰余金」という勘定科目(名前みたいなもの)が出てきます。特別難しい字はありません。

が、板書をすると「越」という漢字が書けません。最初は「ん?」という感じで書き直そうと思ったのですが。それが次に書いても書けません。何度かチャレンジしたのですが右側の部分が書けない。終わっています。笑い話で済めばいいのですが本当に漢字の一部分が思い出せませんでした。

字を忘れたというのは良くあると思います。最近はPCやスマホで書くことが多いので字を書く機会が減っています。普段から字を書く機会が減ったから書けないというのはあり得ると思います。しかし、「越」という字は「次期繰越」や「繰越商品」などを書くときに必ず使うのです。いつも書く漢字が書けない・・・。

生徒は「また~」みたいな感じで笑っていましたがこちらとしてはかなり焦ります。「薔薇」とか「醤油」とかではなく「繰越」が書けないのですから・・・。

よく分かりません。脳梗塞?って漢字が書けなくなるって聞いたことがあるような。別に手のしびれがあるとかはないですし。突然「できていた」ことが「できなくなる」というのはやはり精神的にきつい。老化なのか・・・。単なる老化なら良いのですがそれ以外の問題があるようなら困りものです。

倒れたら助けてくれと話をしておきましたが。うーん。なかなかです。大丈夫なのか・・・。命の危機かもしれません・・・。
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支えられる

2017-10-26 | 陸上競技
思うことを。

ここ数年、いろいろと思うことがあるとずっと書いてきました。まーこれもなかなか難しい話なのですが。今の自分が何をしようとしていて何を目指しているのか。ここに関して自分でも見失いかけることがあります。競技をやりたい。臨機応変に対応できる生徒を育てたい。物事の本質的な部分を理解してもらいたい。その他もろもろ。多くのことを思いながら進んできました。

その中で色々と「支えられているな」と感じることがあります。私自身、結構打たれ弱い(笑)。何かあったら愚痴を聞いてくれる人が周囲に何人かいます。ほぼ陸上関係なのですが。すでに40歳を超え「不惑」の域に達していなければいけないのですが。常に惑っています(笑)。

親しい指導者が数人います。年齢も近く同じ感覚で進んでいくことができる。もちろん、細かい部分は全く違います。それぞれが考え方を持っていてそれを中心に進んでいる。大切な関係だと思っています。それだけではなく色々な話をしたりする方も。多くの人に支えられているなと痛感しています。

そんな中でいつの間にか「見失っているもの」も多くありました。もともと視野が狭くなりやすいタイプ。指導したいと思っていた原点の部分を見失いつつある。何のために指導しているのか。いつの間にか「勝つこと」だけに執着していなかったか。「勝つ」という部分にだけ注目し続けるとそれ以外の部分が疎かになる。「やるべきことをやる」という部分。

競技指導をしていたらいつの間にか成長している。そういう考え方もあると思います。技術的な指導をしていたら強くなっていくので自然と「もっと学びたい」と思うようになる。それにより日常生活の指導をしなくても自然とできるようになる。派生する。

また、「取り組みの姿勢」について指導を徹底する。その部分ができればいつの間にか競技力が伸びていく。長距離なんかはこの手のパターンが多い気がします。カリスマ指導者がいて「この指導が絶対」という感覚の中でやる。そのパターンにはまればいつの間にか強くなっている。技術指導なんかは必要ないという感じもあります。

どちらが正しくてどちらが間違っているというものでもない。多くの指導者はその中間でやっていたりする。もちろん、「とりあえず練習をする」という指導者もいると思います。これは難しい部分。全員が指導に対して情熱を持っているわけではありませんし、「陸上が好き」という人もいると思います。陸上競技の指導を突き詰めようと思えばやらなければいけないことはたくさんあります。それを全員がやるというのは無理。

自分がどの位置に立っていてどこを目指していくのか。負け犬の遠吠えですが強い選手を育てたからと言って別に偉くなるわけでもなんでもないのです。選手自身も日本一になったからと言って将来の生活が保障されるわけではない。そこに至るまでに「何をするのか」だと思います。私が育てた県で勝ったとしてもそれが何かを生み出すわけではない。そこの部分は大きいと思いますね。

不惑。それどころか自分自身の立ち位置を見極めたいなと強く思う。今回、ある方とやり取りをしていてその「根本的な部分」に気づかされました。こういう部分でも「支えられている」と思います。

常に迷う。それはいいことではないのかもしれない。しかし、生きているというのはきっとそういうことなのではないか。絶対的に正しいもの、絶対的に間違っているもの。それぞれは存在しないのかもしれない。特に人を相手に何かをしようと思えばその部分は当然ながら生まれてくることだと思います。何かの型にはめるのではなくその時その時の感覚は大切にしたい。

何の話?まとまりません。いいんです。好きなことを勝手に書いているだけなので。
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