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テレビドラマ「サマヨイザクラ」を見て~裁判員裁判のよさとは?

2009年06月09日 | 瑞祥
テレビドラマ「サマヨイザクラ」をみて考えた。
      ー裁判員裁判のよさとはなんだろうか。

○ このドラマでは,引きこもり青年である被告人が中年女性3人を殺害したという殺人事件をめぐる裁判員裁判のドラマである。被告人の一家は被害者らから集団いじめに遭っていたという背景設定がある(ただし,被告人の家族が,いじめられた事情や,いじめの程度は余りはっきり描かれなかった。)。被告人は,いじめ集団の一部である中年女性3名が,被告人の家の前の空き地にあるさくらの木をを切ろうとしたことに反発して,女性3名を刃物で殺してしまったと自白した。そして,付近の土管に住むホームレスの父子のうち幼い少女が犯行を目撃していたという。そこで集団いじめが殺人の動機となる殺人事件であると評議は固まった。しかし,死刑か死刑回避かを決める量刑評議において,裁判長は,このような動機事情は死刑を回避すべき事情として評価できないと断言し,他の誰も反論できなかった。

 しかし,そのような断定は誤りではないかと思う。集団いじめで,社会的,心理的に追い詰められていることはよくあり,そのためにいじめ被害者が自殺することだって珍しくない。もし,被告人が,そのようないじめが原因で引きこもり,心身のバランスを欠いた状態にあって,さらに犯行直前に加害者らからいじめ被害を受けると感じたときに感情が爆発して殺人行為に至ったと認定できるとすれば,犯行動機を形成する重大な事情として酌量すべきかどうか大いに議論すべきものと考えるのである(ただし,ドラマでは,後にこのような事実はなかったし,犯人も被告人ではなかったということになるがそれは別論である。)。

このドラマでは,このような重大な問題点の議論かがきちんとなされずに,裁判長の軽薄な断定で済んでしまうのは,残念というほかない。視聴者にはこれから裁判員になる人も多いであろうだけに,悪影響を与えないか心配である。

○ ドラマ「サマヨイザクラ」では,最後にどんでん返しが起こる。被告人は犯人ではないことがわかるのである。「お宅系」の若い裁判員が,たまたま犯行当日にある催しに参加し,記念に写したケータイ写真の中に,被告人が写っているのを発見し,被告人が第1回公判で自分をじっと見詰めていたのはこのせいかと思い至り,被告人の犯人性に疑いを持ち,現場に出かけていくのである。そして,やはり被害者らからいじめにあっていたホームレスの親子が被告人の家の近くの土管に住んでおり,その父が実は犯人だということが明らかになっていく(その父は犯行後行方をくらまし,人知れず自殺していた。)。被告人は,犯人の幼い娘から話を聞いて事情を知ったが,仲良くしていたその娘のために自分が身代わり犯人になり,娘を犯行の目撃者に仕立ててしまっていた。

 この真相に迫る過程に脚本家の時代感覚の乏しさと,裁判員制度に対する認識の浅さが出ている気がしてならない。実際に無罪判決に至る場合は,ふとしたことがきっかけで検察官の立証に疑いを抱く,そうして記録を見直すと,別の角度から光が当たったように,今まで気付かなかったことが見えてくる。そして,事件の真相に疑いが深まるということがある。私の経験した控訴審で一部無罪とした事例を挙げるてみよう。内縁関係の男女の共謀による3件の窃盗事件の控訴審で,内縁の夫の事件を担当したが,3件のうち1件だけは特異なものがあった。2件は被告人らがそれぞれの犯行現場へ行っていて,女性が盗みをし,2人で売りに行ったことが明らかであった(それでも内縁の夫は,窃盗には関与していないと一応争った。)。しかし,残りの1件について,女性被告人は,ある薬屋の店頭に飾っていたマスコット人形を別の男性から預かっていて,後日内縁の夫と一緒に売りに行ったに過ぎない,その男性の名前は言えないと言い張り,男性被告人は,自分はその件には全く関係ないと一貫して弁解していた。この1件だけは他と違うなと感じたのがきっかけになって,女性を証人として調べ直し,なぜ預かった人の名前を言えないのか,そのために内縁の夫が有罪になってもいいのかと追及し,結局この1件だけは内縁の夫は関与していない可能性があるとして無罪にしたことがあった。

 このドラマでいえば,被告人がなぜ3人の中年女性に殺意を抱いたのか,3人の女性を殺すまでの理由があったのか,凶器の刃物は予め準備をしていたのかどうか,などということから,疑問を持って事実関係を見直す。そして,果たして被告人が犯人だろうかと疑問を持つのが自然であり,もしやったのが本当だとしたら責任能力も疑ってみることもあるのではないか。このドラマのような真相発見のあり方は,あまりにも偶然に過ぎて現実性がなく,いかにも作り物然としている。

 考えてみると,裁判員が多様な社会経験からふと抱いた疑問を,裁判官を含め構成員みんなが大切にして考え意見を交換する,そのことこそが「裁判員と裁判官の協働」の最も重要な場面なのであり,市民参加制度の真骨頂なのではないのか。裁判長が物事を断定したり,スーパーマン裁判員が場外で活躍するのは裁判員制度がめざすものではないと思う。

裁判員制度発足という大事な時期である。せっかく裁判員裁判ドラマを作るなら,制度を単なる背景や刺身のつまとするのではなく,もちろん批判的視点でもいいから,しっかりと裁判員裁判の本質に焦点を当てて取り組んで欲しいものである。

それにしても,裁判員裁判ドラマでは,なぜ裁判長は,裁判員の意見を真摯に聞かず,無茶な押しつけをするというワンパターンな態度をとるのだろうか。それが国民一般に普及した認識であるなら,その認識を改める努力をする必要がある。

☆尊敬する刑事裁判官に投稿してもらいました。「専門家の目で批判しすぎるのはどうか。ドラマなのだから」といった批判があるかもしれません。コメント宜しくお願いします。(瑞祥)