トドクロちゃんと山登り

自然が好きで日本アルプスと近郊の山登り。
高山植物や四季折々の花を愛で。
史跡・歴史・ドライブがすきな自由人です。

熊野古道/伊勢路170km 新宮まで踏破 7日目

2020年06月29日 | データ

■2020.06.24 熊野古道/伊勢路を歩きだして、2泊3日+1泊2日×2回で今日が7日目の最終日。

朝早く「道の駅ウミガメ公園」から新宮駅前パーキングに移動し車を止め6:03新宮駅からの始発列車に乗り神志山駅まで更に移動する。

早い時間でも通学の高校生が結構乗っている。(朝クラブの野球部か?)

列車が動き始めるとスマホをいじりだすのは最近の通勤通学風景。おじさんにはこの風景は好きでないが。

途中の駅で同じバッグを持った高校生が乗ってきた。

スマホをいじっていた高校生が乗ってきた高校生に体育会系の挨拶。

オハヨース これを聞きチョットほっとする。今年は甲子園が目指せないのは可愛そうだ。

15分程で神志山駅に到着、今日はここからスタート。

昨日予定より2時間分多く歩いたので今日の行程は余裕ができた。

駅から国道を越え海辺の堤防へ入り込む。

今は曇り空でありがたいが昼近くには晴れてくるようだ。

今日はこの七里御浜の後半部を歩きます。(これは昨日の写真)

砂浜では釣り好きが糸を垂れている、何が釣れるのだろうか?

七里御浜は数ヶ所河川があるので、そこは大きく内陸部を通る。

阿田和地区では海辺との境にある防風林を歩く。

砂浜に2本の筋が・・・・

海から続くこの2本の筋は砂を掘った様な所まで続いています。

これはウミガメのお母さんが産卵に来たものと分かりました。

見回しただけで3本はある、ここはウミガメの産卵場所。

年中みかんのとれる町、御浜町と看板が。私の住む知多半島にも美浜町があり、ここも「みかん」が名産。なんか親しみを感じる。

ずーと導いてきた標識も新宮まで残り10Km。

紀宝町の後半部分は浜を離れて山手側が古道ルート。

少し高台になるので海の展望が良い。

横手延命地蔵で「オン カカカ ビサンマエイ ソワカ」と真言を唱えお参り。そしてここで休憩させて頂きます。

横手延命地蔵:熊野古道(浜街道)の熊野灘を見下ろす見晴らしの良い山道にあります。病気平癒のご利益があるとして信仰され、地蔵前に湧き出る水は、霊水と伝えられています。

この辺りには軒先に無人売店が多くあります。その中から食べ切れそうなトマトを100円で買い求めそのまま食べると、ほんのり甘くて酸っぱいトマトが口のなかで弾ける。

 

的場踏切近くで炎天下のなかランニングしている女性が声をかけてくれた。

何処まで?

熊野速玉大社。

何処から伊勢神宮から・・・でしばし立ち話が始まる。

この女性、新宮市の語り部の会のメンバーだそうで色々情報を教えて頂きました。

熊野川、向こう側は和歌山県新宮市。

熊野川の真ん中で泊まる。

右手が三重県、左手が和歌山県です。

和歌山県と言えば、坂本冬美となってしまう私です。

熊野川を渡り右側に少し行けばそこは熊野速玉大社

熊野本宮大社は渋いのにここは朱色ですね。

平日なので数名の参拝者のみ。

熊野は古くは自然信仰の神々を祀る社でしたが、その原始信仰に外来仏教が加わり独自の展開を見せて神仏習合が広まりました。そして上皇における熊野御幸で一気に熊野詣が始まります。

熊野御幸

熊野が広くその名を知られるようになるのは、上皇による熊野御幸が行われるようになってからです。熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇で、907年のこと。

そして白河上皇の度重なる熊野御幸が、熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなりました。

なぜ、上皇が訪れたか?→平安時代に浄土教が盛んになると、熊野の地は浄土とみなされたから。

熊野速玉大社の売店のおばあさんと目が合う・・・みかんジュース・・・会話。

熊野速玉大社がゴールの予定でしたが途中出会った語り部(ランニングの女性)との話で「神倉神社」と「阿須賀神社」は外せない事が分かった。

観光図で神倉神社を探し街中を歩き出す。

歩道表示には神倉神社がない。

道端には神倉神社への案内はあるので安心。

10分程度で神倉神社に到着。

538段の険しい石段を登ると速玉大社の売店のおばあさんに聞いていたので靴紐を締め直し準備万端で登り始める。最初が特に急で上から降りてきたおばさんは後ろ向きで降りてきた。

で1・2・3・・・100・・・・200・・250と数えているうちの赤い鳥居が見えてきた、近くの女性にまだ上ですよねと聴くとここが一番上ですと回答。

???

どうも数が合わない???

でもゴトビキ岩が見えます。まあいいか。

新宮の町並みが一望できます。

熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社。天ノ磐盾(あまのいわたて)という険しい崖の上にあり、熊野古道の一部である五百数十段の急峻な石段を登ったところにご神体のゴトビキ岩があります。

もともとゴトビキ岩に象徴されるように山岳信仰とか巨岩信仰と言った原始的な信仰があり、そこに後代日本神話体系が導入され、さらに仏教体系が加わり「熊野信仰」として全国に広がって行った。

※日本書紀に熊野神邑の天ノ磐盾と記載されている。

新宮駅近くの阿須賀神社へ

熊野大神は初め神倉山に降臨し、次に阿須賀の森に遷り、熊野大神のうち家津美御子はさらに貴袮谷に遷ったが、結速玉の二神はそのまま阿須賀の森に留まった。第十代崇神天皇の御代に家津美御子はさらに熊野川上流の音無の里(本宮)に遷り、結速玉は第十二代景行天皇の御代に今の新宮に遷座した。

神倉神社>阿須賀神社>熊野速玉大社(新宮)の順に遷座。

新宮に来る場合はこの神倉神社と阿須賀神社は外せないですね。

新宮駅近くの徐福公園に(ここは2度目)

御朱印。

12:57新宮駅の到着。

これで今回のミッションは全て終了。

熊野古道/伊勢路170kmを古を感じ歩くことができました。

コロナの影響もあり踏破まで4ヶ月を要した。その分さらなる調べ事もでき有意義な7日間となりました。連続して歩くと歩き通す事が目く的になりがちですが3回に小分けしたことで寄り道できゆったり行けました。

伊勢神宮から熊野速玉大社まで7日間と先に歩いた吉野から熊野本宮大社までの6日間は同じ熊野古道でも「修験の道」と「熊野詣の道」では大きく違っていました。

伊勢路の中ではツヅラト峠道・馬越峠道・八鬼山越え・波田須の道・松本峠道・浜街道(七里御浜)が印象に残っています。

熊野古道は他にも上皇が通った道「中辺路」高野山と本宮を結ぶ「小辺路」があり秋口にでも小辺路へチャレンジしてみたいと思っています。


 

 


熊野古道/伊勢路170km 二木島から浜街道へ 6日目

2020年06月26日 | データ

前回の熊野古道/伊勢路から2週間が過ぎた、最終は秋口にしようと考えたが、この梅雨時の晴れ間を利用して急遽出かける事にした。

今回の遠征で熊野速玉大社までを1泊2日で歩く。

■2020.06.23(火) 土曜から月曜日までの毎日テニスで疲れが残るなか自宅を深夜3時に出発。

熊野市駅前駐車場に6:15到着、熊野市駅を6:46の列車に乗り二木島駅(前回はここまで来ている)へ。

7:02二木島駅に到着。

集落の中から熊野古道が繋がっている。最初の階段の右奥に鯨の供養碑がある。

熊野市二木島町に所在する江戸時代前期の駒形の供養塔である。中央に「鯨三十三本供養塔」とある。この「三十三本」という数字について、熊野の民俗として、ブリ、マグロ等33本を得るごとに「万の祝」と称して餅投げなどする風習があり、これもそうした関連と考えられるほか、二木島に古くから浸透していた三十三観音に通じる数字かとも思われる。熊野灘沿岸は古式捕鯨が盛んな土地であり、数ある鯨碑の中でも最古のものである。

高台からは二木島湾が見える。

国道脇から二木島峠道・逢神坂道へ入る。木々の間から流れる風が心地よい。

標高は300m程度でも標高0からなのでこのような峠を幾度となく越して行きます。累積標高ではチョットした山登りより多いかもしれない。

逢神坂峠の「逢神」とは、伊勢と熊野の神が出逢う場所という意味で、かつては狼が出没したという説もあります。

峠を越すと新鹿湾が見えだします。新鹿(あたしか)は海の見える海岸沿いを歩きます。ここでチョットルートミスで海岸沿いを行き過ぎる。

ここでスマホのサポートを受け波田須の道の入口まで導いてもらう。

波田須は、不老不死の仙薬を求めて中国からやって来た徐福の上陸地と伝えられています。コースの大部分が民家の間を歩く。コースを少し外れ徐福の宮(右上、中左)へ。

徐福の伝承は各地にあるが特に波田須駅付近の徐福ノ宮がよく知られている。ここは彼が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。 また、同地からは秦代の貨幣である秦半両が出土しており、伝説と関連するのではとも言われている。

西丹後守屋敷跡の前の巨石に、仇討ちに来た夫婦を返り討ちにしてしまったことを自ら戒め、「勤愼忍」と刻んだ文字岩がある。(右下)

波田須を抜け大吹峠道へ。

入る口にある東屋で軽くクリームパンでカロリー補給。最近はコンビニのクリームパンにハマっている。一つが小さく食べやすいし美味しいですね。

今日は日差しが強く、大汗をかいている。水場では頻繁に身体を拭きスッキリするが切りがない。

この大吹峠道は熊野古道では珍しく竹林の中を歩く。

ここも同じで峠を超えると海が見える、このまま海に飛び込みたい衝動に駆られる。

大泊を抜けると松本峠。熊野古道/伊勢路の最後の峠です。(新宮ルート)

波田須の石畳は鎌倉時代の物ですが、ここの石畳は江戸や明治の物です。

峠には建ったその日に妖怪と間違えられて鉄砲傷を付けられた大きなお地蔵様があります。

そして峠から展望台(東屋)に向かいます。

東屋からの眺望です。

七里御浜(しちりみはま)熊野速玉大社のある新宮まで約25Kmも続く砂浜です。

熊野市から紀宝町に至る約22km続く日本で一番長い砂礫海岸「七里御浜」は、「世界遺産(浜街道)」「日本の渚百選」に選ばれた美しい海岸地域です。その昔、熊野詣でをする人々にとっては「浜街道」として、西国三十三所を目指す巡礼者が多く歩いたことから「巡礼道」とも呼ばれ、信仰の道としての役割を果たしていました。海岸には、熊野川を経てたどり着いた様々な種類の石を見ることができます。また、春から夏にかけてアカウミガメが上陸する地として知られています。

熊野古道でこの松本峠だけは晴天で歩きたかった。

絶景です。

熊野市内を行く。

今日はここまでの予定ですが、まだ13時まえですので先に進みます。

明日の天気がグレーですので。

熊野市から熊野古道は暫く、浜街道(海岸)を歩きます。

獅子岩。(浜からは獅子らしく見えない)

鬼ヶ城(上左)は後で行きます。

海の中を行きたい気分です。

海辺近くの方が歩きやすい。

花窟神社(花の窟神社)へ

日本書紀にある→

大きな岩(磐座ですね)・・もともと神社はなかった。

有馬町を抜け御浜町の神志山駅まで歩く。

列車はこの時間ないので15:04の三重交通バスで熊野市駅まで戻る。

熊野市駅前にあるみはま湯に入り生き返る。

そして車で鬼ヶ城へ(松本峠を通るとここは通らない)

鬼ヶ城は凝灰岩の大岸壁でできている。



この時期、平日は不在の花の窟神社で御朱印紙の代金を箱に入れると(チャリン)

偶然に宮司さんが見えて日付を書き加えて頂いた。

1月から準備し3月から歩き出しました。

それでも残すところ後一日です。

ここまでこられたのも熊野古道伊勢路図絵(令和の熊野詣)のおかげです、このガイド大変明快でよくできています。

また駐車場の車の助手席には「熊野古道を歩いてます」と書いた物を。


熊野古道伊勢路図絵(令和の熊野詣)

三重県内のドコモショップ無料配布してます。またダウンロードもできます。私はメールで問い合わせたら送ってくれました。

今日のP泊地は紀北町の「道の駅 ウミガメ公園

コンビニでP泊酒場の酒や肴を買い求め熱い夜を過ごす。

明日も早いぞ!!


大きな写真はこちらで。


2020.06 熊野古道 二木島から熊野市

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あじさいの本光寺へ 日常が戻りつつある

2020年06月20日 | データ

■2020.06.19 三河地方のあじさい寺「本光寺」へ軽くドライブ。

ほぼ毎年来ているが、今年はあじさい祭りは中止。

この地域でのあじさい祭りは色々な行事が行われるがここ本光寺ではこれと言っった行事は毎年無い。

したがって中止の影響はなく、三密を注意し見学ができる。

参道で人が写り込まないようにアングルを調整。

雨も降っており傘を片手に・・

祭りの中止でメイン会場の形原温泉はあじさい園地内への入園もできません。

紫陽花自体は咲き誇っているだろうに。

本光寺は1523年(大永3年)に深溝松平家の初代当主松平忠定によって開基された深溝松平家の菩提寺。

転封により深溝松平家が島原藩に移ったのちも、歴代藩主の遺体は本光寺に運ばれて埋葬された。

この島原藩主深溝松平家墓所が国史跡に指定されている。

境内には約5000本のツバキをはじめとしてウメやサクラも植えられており春先もいいかも。

紫陽花の種類自体は多くはない。

本堂修理修復の大工事中でした。

雨が似合う紫陽花。

見学者はまばら。

境内の中から山門を見る。

我が家でも紫陽花はガクアジサイ、アナベル、〇〇、〇〇と4株は植えられている。

紫陽花と桜は日本人に馴染み深い花木です。

少しづつ日常が戻りつつある、テニスは週3回〜4回の以前のペースに戻った。

これは一番大きいい。

 


少し前から音楽プレーヤーを検討。(ランニングやウォーキング時に聴くため)

ウォークマンから中国製の安物までピンキリ。

そう言えば初代ウォークマンの一番重要な部品を作ることに携わっていた、40年近く前だ。

そしてソニーの盛田氏はこの地方の出身者。

でウォークマンをポチるところで・・・・中止。

 

ウォーキングでもスマホは連絡用で持参するそれならいっそ、スマホで聞いてみようと試してみる事に。

1時間のウォーキングでバッテリー残量は5%減ったのみで充分使える事が分かり環境を整備。


整備した環境

CDやネット音楽をPCで加工(①MP3化)・経由(②USB接続)でスマホへ入れる。

・Bluetoothで妻の車や自分の車でスマホ内の音楽を聴く③。

・スマホの音楽をamazon Ecoh(景品でもらった物)をスマホのBluetoothスピーカーとして使う。


①フリーソフトインストール(Audacious)

②スマホをデバックモードに切替設定変更

③車のナビとBluetooth接続(wifiを切断し行う)

などチョット苦労したが思い描いた様にできるようになった。

 

また、山行時などの記録用に音声レコーダーとしても使いたいですね。

 


熊野古道/伊勢路170km 三木里から二木島まで 5日目後半

2020年06月13日 | データ
■2020.06.09 熊野古道/伊勢路で最大の難所「八鬼山越え」も涼しい時間帯にクリア。
ここからは、三木峠、羽後峠、曽根次郎坂太郎坂など登り下りし今回の目的地の二木島を目指す。
 
猪垣の脇を街中へ向かう。
マルバタケブキの花に似ているが葉っぱが丸くない。
JR紀勢本線を渡る
三木里ビーチ
雁木のある家並み
軒先から垂れ下がる木の履は激しい雨風と日差しを防ぎ、農作物の干し物を乾燥にも役立つ。
舗装路からヨコネ道に入ります。
賀田湾からの風が涼しい、自然林に囲まれた道は特に涼しい。
樹林の合間からたまに海が見える。
伊勢湾と違いここは外洋だから海水が綺麗だ。
国道をしばし歩き古道へ
三木峠の少し手前でガサガサ・・
20m程奥の斜面を大きな動物が左から右に走る。
下草で足は見えないし走る時、頭が見えないということは熊。
ここまでホンシュウジカは何度か遭遇しているが熊に遭遇するとは。
馬越峠などではほとんどのハイカーは熊鈴を下げていたのを思い出した。
自分史上熊遭遇は2回目です。
杖で木などを叩いて歩くことに。
三木峠を越え、羽後峠へ
猪垣が多く残っている。
※猪垣:農作物をイノシシや鹿などの獣から守るための物。
平地の少ないこの地方は山の斜面に畑を作らなければならなかった。
アサギマダラの里は今は管理する人が居ないようだ。
賀田羽根の五輪塔
※五輪:仏教思想における宇宙生成の五大要素「空、風、火、水、地」を指し、故人供養の為に建てられる。
左下:曽根弾正屋敷跡
曽根次郎坂・太郎坂、甫母峠(ほぼとうげ)へ
曽根次郎坂・太郎坂というのは、峠を境に自領と他領に分かれているのが訛ったものと言われている
くじら岩
巡礼供養碑
甫母峠(ほうじ茶屋跡)ここが中世の頃、志摩国と紀伊国の境だったと言われている。
二木島湾
熊遭遇で今度の杖は重く頑丈な物を借りてきた。
 
そう言えば今の格好は、麦わら帽子に刀(杖)これは、子供の頃の野山を走り回ったスタイルではないか?
 
しばし一人チャンバラをしながら歩く。
市川雷蔵の眠狂四郎になったり、片岡千恵蔵の旗本退屈男になったり・・・・
賀田で立ち話をしたお爺さんは2004年頃、この道を整備するために沢から石を担いで登ったとはなしていた。
昔ながらの石畳が残っている所も部分的に補修する必要があるのですね。
ご苦労様です。
※猪垣記念碑
二木島の港が見えた。
今回はここまで、次回はここがスタート地点。
昼からは2時間に一本しか列車がない。
14時台に乗るために途中少し飛ばした。
自撮り
今回は麦わら帽子も持ってきた。
大正解で首筋を日焼けから守ってくれた。
紀勢本線で二木島駅から尾鷲駅まで戻り、尾鷲市内を抜け八鬼山の登山口まで移動
※在蔵
これは郷蔵ともいい、江戸時代、紀州藩へ税として納める米や囲米を収納していたという。囲米制は宝暦3年(1753)から開始され、飢饉や困窮の度に繰り返し放出されて人々を餓死から救ったという。
「ままになるならあの八鬼山を鍬でならして通わせる」という八鬼山を隔てた三木里浦の庄屋の娘お柳(17歳)と矢浜村の宮大工の弟子喜久八(18歳)の悲恋を歌った尾鷲節の歌詞が刻まれている
16:11 無事帰還。
行動時間は11時間30分、列車の時間待ちや乗車時間も含む。
昨日と同じく近くの夢古道の湯で汗を流すし帰路につく。
 
自宅に帰ってから至る所に痒み、右脇と左腰あたりだ。
結構ひどく蕁麻疹のような物が。
 
ネットで調べると「蕁麻疹」や「あせも」ではなく「汗かぶれ」と言うことが分かった。
 
特に酷い場所はカメラバックの当たる「右脇」
ウエストバックの当たる「左腰」
 
いきなり大汗をかいた事と速乾Tシャツでなかったのが原因かな。

これで残す所、二木島から熊野速玉大社までの38kmの13時間20分。(1泊2日)
鬼ヶ城、花の窟、獅子岩、浜街道(七里御浜)など見どころも多いので楽しみだ。
 
予定は涼しくなってから。
 
 
 
 

 


熊野古道/伊勢路170km 八鬼山越え 5日目前半

2020年06月12日 | データ
■2020.06.09 今回の遠征2日目。
熊野古道/伊勢路で最大の難所「八鬼山越え」をする。
 
※八鬼山とは
西国第一の難所といわれ、かつては山賊や狼が出没して巡礼者を苦しめました。八鬼山越えでは、いたるところで石仏に出会います。史跡も多く、絶景も望めますが、登り・下りともに厳しい道です。
 
今では、山賊や狼はいませんので八鬼山647mの標高くらいかな。
ただ登山を趣味とする者としてはこの標高は全く問題ない。
ここ数日の暑さが問題。
 
それなら涼しい時間帯に登りを終えたいので予定より早目に。
朝の始動は4:20頃、食事をとり準備をし4:45から歩き始める。

駐車場の反対側が登り口。

この八鬼山には行き倒れ供養碑が4基あるらしい。
碑があるのは手厚く供養されたからですね。

年間総雨量4,000mmもあるこの地方の道を守るのは石畳道。

※八鬼山町石
八鬼山越えは道幅狭く坂が急なため、西国三十三ヶ所の巡礼や熊野詣の人々にとっては最大の難所であった。 
町石は、天正年間(1573~91)年に作られた地蔵尊で、地蔵菩薩立像が半肉彫され、左右に銘を印刻する。建立は伊勢山田の御師や僧侶で、伊勢信仰を広めた人達。八鬼山三木峠まで約50町あるので、町石は当初50基あったと思われるが、現存するものは33基である。

全て写真に撮ってみよう。

紀州藩主の休憩所。

七曲り。

良く見かける笑っているような町石。

八鬼山桜茶屋一里塚。
道の両側が盛り上げっていますので従来の姿を留めています。

こんな感じの登りが続く。

蓮華石・烏帽子石
九木峠。

7:18 ※荒神堂(2019年に再興された)・荒神茶屋跡。
1300年の歴史を誇る八鬼山日輪寺があり、お堂(荒神堂)の中には「三宝荒神立像」があります

見つけた町石は
1・2・3・・・30しか無い、33現存しているはずだが。

桜の森広場へ
江戸道で向かいます。

八鬼山山頂647m。

桜の森広場。
熊野灘が一望できる絶景の地です。
ここで朝日を見るのもありですね。

下りは石畳のに注意しコケないように歩く。
雨が降り水を含んだ苔は注意が必要だがここ数日雨は降っていない。

古道の茶屋は今で言う道の駅かな。
この辺りの植林された木々に世界遺産登録反対など至る所に書かれています。
少し調べると

世界遺産の熊野古道を歩いているのではなく、熊野古道を歩いているだけの私にはペンキの文字が残念だけです。

熊野古道での63/63は一番多いのでは。

登り口に杖を返す。

名柄の一里塚跡

9:02 八鬼山を越えた、所要時間:4時間15分。
 
熊野古道/伊勢路170km 八鬼山越え 5日目後半へ