トドクロちゃんと山登り

自然が好きで日本アルプスと近郊の山登り。
高山植物や四季折々の花を愛で。
史跡・歴史・ドライブがすきな自由人です。

ミツマタの森から野登山へ

2013年03月31日 | データ
■2013.03.30 今回は三重県亀山市の棚田百選「坂本」集落からみつまた群生地を経由し野登寺・野登山へ登り坂本へ戻るルート。

高速の渋滞するポイント前に高速を降り下道で亀山JCT近くの棚田百選「坂本」に11時頃到着。

桜は5分咲き。

坂本集落から「みつまたの森」へ向かいます。

林道を50分程度行くと「みつまた群生地」到着
和紙の原料として植樹されたがそれに使われることなく野性化したとの事。

「みつまた」は、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があり分岐の数で年数がわかる。

かわいい花です。

花期は2-3週間と意外と長い。

和紙の原料には「みつまた」や「こうぞ」が使われる。

国土地理院の2万5千図にはこのみつまた群生地から仙鶏尾根へのルートが記載されている。
旺文社の地図には記載が無く現在は踏み跡も薄く廃道に近いらしいが突入する。
念の為、GPSをセット。
途中3人パーティーが食事中で挨拶を交わす、どうやらルートミスをしたようなので本来のコースを伝え先を急ぐ。
山ヤ同志あいさつをすればルートミスなども早目に分かりますね。

そしてやせ尾根の急登を1時間上り仙鶏尾根へ突き当たった。

後は仙鶏尾根を野登方面へ
13:40 野登寺
ここでおやつタイムとするが賑やかなパーティーが食事中である。

野登寺の参道を外れ野登山(852m)へ
ここの標識は木に喰われている。

山頂近くのお地蔵さん

14:15 野登山山頂(二等三角点)
明治21年に陸軍省参謀本部陸地測量部により設置。ちょうど司馬遼太郎の「坂の上の雲」第2巻を読んでいる途中で、同じ時代背景である。日本国を守るために国内の詳細地図が必要で陸地測量部によってこの時代多くの三角点が置かれた。
以前読んだ『点の記』も三角点設置に関する話である。

トドクロちゃんも今日は元気だ。前回の山行後はひどい筋肉痛だったがが今回は良さそうだ。
分からないようにトドクロちゃんを連れ出し筋トレさせている?

下山は野登寺の表参道経由。

途中の夢想庵の展望台から、春霞で知多半島は良く見えない。
単眼鏡でかろうじてセントレア監視棟が見える。

椿。

途中、坂本の棚田へ引く山からの水路を整備してるおじいさんと立ち話。このおじいちゃん地元の棚田を守っている、時期的に田植え前で田起こしを数枚の田んぼで行っていた。

そして鹿避けの柵を抜ける。

15:22 しばらく行くと本来の登山口に到着。

帰路は「椿大神社」で参拝し名物草もちを探すが全て売り切れ。
我が家の車は全てここでお祓いをしてもらいました。

お腹をコンビにで満たし、泉質の好きな温泉アクアイグニス

この時間高速の渋滞は無くゆっくり岐路に着く。


本宮山登山と砥鹿神社・長篠城で古へ思いを馳せる

2013年03月18日 | データ
■2013.03.17 地元神社の本宮が『三河国一之宮:砥鹿神社』であると正月のランニング時に知る。
そこで興味本位で砥鹿神社を調べると豊川市の本宮山(789.2m)山頂に奥宮が鎮座しており、そこへは1.5-2.0H程度の山歩きで行く事ができると。
奥三河への山登りの多くは豊川ICを利用する、そして砥鹿神社横を通り山奥へ向かうので以前から気になっていた。
そこでトドクロちゃんを誘って簡単な山登りと歴史探訪を目的に一路豊川へ。

本宮山ウォーキングセンター横の河津桜

至る所に駐車場があるが下山後に立ち寄る『本宮の湯』駐車場を借りることにし登り口へ向かう。すでに多くのハイカー(登山者)も向かっている。

登山口の『砥鹿神社奥宮の鳥居』、元々山頂の奥宮しかなく街中に里宮ができたとの事。
御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)→健脚の神様でもある。

みつばつつじ?

登山道と言うより参道の雰囲気の所が多い。気候も良く程よい汗を掻く程度で行ける(私の場合は)

一丁目からあ始まり五十丁目まである。途中も東屋や神社、馬の背などありそれなりに楽しめる。
約1.5時間で奥宮到着。

奥宮で神頼みをし、本宮山山頂へ向かう。

山頂の立派な『三角点』

立派な『天測点』
※天測点とは天文測量を行うための基準点で三角点の補正をする役目。

立派な『アンテナ』

ん・・ちょっと残念な『山頂標識』
山頂でお湯を沸しおやつタイムとする、隣のお姉様と山野草や花の話でトドクロちゃんと盛りあがり山話で私と盛り上がる。
このお姉様、トレーニングで訪れていた。

下山後は『本宮の湯』で炭酸泉の温泉と食事。
ここで地元直産の大根とカリモリの漬物を調達。

本宮の湯から30分程度車を走らせ『長篠城址史跡保存館』へ (日本百名城)

※「長篠の攻防」と「設楽原の決戦」
天正3年(1575)5月、武田信玄のあとをついだ武田勝頼は西へ勢力を伸ばすために重要な拠点となる長篠城を1万5千の軍を率いて包囲し攻撃しました。城主奥平貞昌以下500の兵は、よく攻撃に耐えましたが、大軍に抵抗するにも限界となったため、織田信長、徳川家康へ救援を請うため鳥居強右衛門を岡崎へ遣わせました。5月18日、信長3万、家康8千の援軍は城の西方約4キロメートルにある設楽原に到着して陣を築きました。武田軍は20日、長篠城の包囲を解いて設楽原へ進出し、21日の夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入して壮絶に戦いましたが、大量の火縄銃の攻撃にさらされ歴戦の武将を多く失った勝頼は、数騎の味方に守られて敗走しました。



※鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とは
武田軍に囲まれた長篠城を脱出し徳川家康、織田信長に救援を求め快諾された帰途に捕えられ、武田勝頼に援軍は来ないから降参するよう強要されたが、最初から死を覚悟していた強右衛門は、城内に向かって「あと二、三日のうちに織田・徳川の援軍が来る。それまでの辛抱である」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で強右衛門を磔にして殺した。
しかし、強右衛門の命を賭した忠義と壮烈な死に様を見届けた長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にはしないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、武田軍の攻撃から城を守り通す事に成功した。

陣羽織でコスプレ写真

Bring it on!
かかってこいやー

で豊川IC近くの砥鹿神社里宮へ
時はすでに夕暮れ時となっていた。

三河国一之宮は砥鹿神社。
尾張国一之宮は真清田神社です。

積雪期テント設営用の激安ショベル

2013年03月14日 | データ
■2013.03.13
積雪期テント設営に必要なスノーショベル(スコップ)をやっとやっと調達。
雪山山行では何処に設営するかは行程で大きく異なり臨機応変に対応することが必要となる、その場合にテントスペース掘下げや雪壁など造作する場合に必要となる。

数年前から購入しようとターゲットを絞込んだが5,000-8,000円程度はする。
数日前に○天で検索したら開店記念セールで\1,700の商品を見つけた。

それが「アメリカLIFLINE社 アルミ製 超軽量スノーショベル」

※スペック
SIZE:22cm×28cm(ブレード部)
全長:68cmと83cmの2段階
重量:550g
収納:3分割

ブラックダイヤモンドのディプロイ3とほぼ同じスペック。
違いは分割方式か伸縮方式かである。

所詮、2mmのアルミ板を曲げ加工されているだけなので機能的にはメジャー品と大差は無く即注文。

本日届き早速使用感を想像し触ってみる。
結構しっかりしており問題なさそうである。
長さが2段階に変わりメジャー品より長身の私としては逆に使いやすいかも。

2分割にしてみる、3分割できるがメリットはなさそうだ。
ブレードにピッケルを柄としても使えそうだが手持ちのピッケルでは取り付かない、現状のまま一度使ってみてそれでも軽量化が必要な場合加工する事に。

今までは樹脂製の「SNOW CLAW:スノークロウ」右側を利用していたが新雪以外では使い難い。
それで今は冬山日帰り時にバケツや緊急時用(雪洞)として持参している。


送料500を入れても2,200円は魅力的ですね。(上代は4,200円)
今ならまだ在庫はあると思います。

清洲城天守閣

2013年03月03日 | データ
■2013.03.03 郷土の英雄、織田信長公の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ天下平定を目指す武将が重要拠点としていた清洲城。近くを通るがなかなか立ち寄る機会が無く漸く妻の実家への途中で寄る事にした歴女ではなく『歴おやじ』です。

平成元年に地域のシンボルとして建設された清洲城天守閣。

城には必ず顔出しがある、当然は避けては行けない。

城内では桶狭間から本能寺の変など映像等で分かり易く説明している。

各階で説明書きなど詳しく学び、天守最上階へ

日曜日でも込み合うことなくマイペースで見学。

北には御嶽山とその左奥に乗鞍岳が遠望できる。御嶽山や乗鞍岳は何度となく登っているが町並みが見えた記憶がない、それもそのはずこれらの山頂からは北アルプスや南アルプス方面にしか目が向いていないから。
実は自宅付近の高台からも御嶽山は見ることができる馴染みの山である。

桶狭間出陣の姿をした銅像『織田信長』。私の好きな戦国武将である。

信長は敦盛の舞で
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
             ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」


意味は
『所詮、人の一生はたかが50年、天上世界の時間の流れに比べたらはかない夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものだ』

桶狭間へ出陣する際にも舞った『敦盛の舞』で信長の覚悟を表している。

このサイトが分かり易い。→織田信長Ⅳ~桶狭間の戦い~


妻の実家で長居をし帰路に付く。

玄関のスイートピーのアレンジフラワー。