トドクロちゃんと山登り

自然が好きで日本アルプスと近郊の山登り。
高山植物や四季折々の花を愛で。
史跡・歴史・ドライブがすきな自由人です。

聖職の碑を読み「濃ヶ池~将棊頭山~木曽駒ヶ岳」

2015年09月30日 | データ
■2015.09.29 平日の紅葉登山へ
少し前に新田次郎の「聖職の碑」初版本を入手し一気に読んだ。
内容は1913年(大正2年)に起きた山岳遭難事故(学校登山での)の話で場所は木曽駒ヶ岳。
この学校登山のルートで既に桂木場から将棊頭山や馬の背から濃ヶ池までは歩いているので空白の宝剣山荘から濃ヶ池までを歩く事に。

組んだルートは千畳敷→乗越浄土→駒飼ノ池→濃ヶ池→記念碑→将棊頭山→木曽駒ヶ岳→中岳→千畳敷
9.5kmのコースタイムは6時間30分。

自宅を2時に出発し4時50分の菅の台バスターミナルに到着。(9割方下道です)
平日にも関わらず相変わらず人が並んでいる。
7:30 千畳敷着
読み通りガスも掛っていない。

稼いだ標高を下げ「濃ヶ池」方面へ。

伊勢滝

黄葉が綺麗だ。

紅葉のピークは数日過ぎたようだ。

馬の背方面。

9:05 濃ヶ池。数名の登山者。

濃ヶ池から馬の背の南面

たぶんこの岩陰で先生と生徒が風雨を凌いだ(聖職の碑)

少し標高を上げて。

遭難記念碑(何故記念碑かは本を読めば分かります)

『遭難記念碑(聖職の碑)
 大正2年(1913)8月26日中箕輪尋常高等小学校の教師,児童,同窓生37名は急変した台風の中を伊那小屋(現宝剣山荘)の破小屋を修理して仮夜を送らんとしたが果たせず,翌27日未明から暴風雨をついて下山をはじめ,駒飼ノ池,濃ヶ池,将棊頭にわたり三三伍々に分散したが力尽きて赤羽校長以下11名が遭難死した。』

この碑は元々ここにある岩(自然石)を石工が文字を刻んだものです。

この遭難で西駒山荘が作られた。

天水岩・・・雨水(天水)が溜まって日照りでも枯れないと言われています。

10:20 将棊頭山。
奥に御嶽山

さあ木曽駒ヶ岳まで戻りますか。

夏でもこの稜線が牙を向くこともある。
先に読んだ「黒部の山賊」の中で伊藤さんがゴアテックスなどの雨具の誕生で夏の遭難死は劇的に少なくなったと語っている。

12:06 木曽駒ヶ岳。誰だこれを付けたのは?

宝剣と空木方面。

茶臼岳までの稜線と紅葉。

千畳敷鳥瞰。

最高の景色ですね。




13:10 千畳敷着。

今回はこれで楽をしました。


何とかギリギリ紅葉に間に合った。
当初は桂木場からの周回を検討したがコースタイム13時間となる為、楽ちんロープウェイとした。でも8時間くらいで行けたかもしれない。
コースタイムが甘いようだ。

今回の山行で「聖職の碑」コースはすべて歩いたことになる。
もう一度読み直してみよう。

帰路は松川まで戻り清風苑で温泉に。

夕方の足助街道は朝程快適には走れず豊田松平まで1時間40分掛る(行きは1時間20分)



■コースタイム合計:5時間34分(行動:4時間34分、休憩:1時間0分)
千畳敷07:30→08:03乗越浄土→08:18駒飼ノ池→08:53濃ヶ池09:24→09:38濃ヶ池分岐→09:53遭難記念碑(聖職の碑)→10:05将棊頭山→10:21遭難記念碑(聖職の碑)→11:52木曽駒ヶ岳→中岳12:23→13:04千畳敷

■聖職の碑
良く訪問する三重県の日帰り温泉施設で古本の販売をしており温泉上がりに見るのは楽しみの一つである。
過去にも山に関する本を何冊が購入しているが今回は古本の中から新田二郎の「聖職の碑」初版本を見つけ買い求めた。

将棊頭山から10分程度西(木曽駒側)に行った所に遭難記念碑があり過去に2度程通過している。どうしてここに碑があるかわ知っていたが詳細まで知るよしはなかった。今回初版本を買い求め早速読み始める。
赤羽校長先生を含め児童と合わせて11名が遭難死してる。作者もこれを書くにあたり同じルートを何度も巡っているし地元での資料や関係者への聞き込み詳細に行っている。
読んでいる中で当時の情景が描写されており山登りを趣味とする自分も脳裏に浮かんでくる。
そして今回空白のルートを歩きルートが繋がったし11名が亡くなった大体の場所もほぼ確認できた。

駒飼ノ池付近も稜線からは標高を下げているが木々の背が低いことから風が抜ける場所だと分かる。
他の場所(記念碑のある付近、将棊頭から茶臼側方面の稜線、行者岩鞍部)も悪天候時は強風域となる場所だ。
この遭難の生存者は先にあげた写真にある濃ヶ池の岩陰でビバークした先生と児童の2名でそれ以外は稜線から下がった樹林帯まで辿り付いた児童達である。

現在でも
実践主義教育を掲げた赤羽校長の修学旅行登山の思想は脈々と受け継がれ、遭難記念碑は風雪に耐えて、いささかも動ずることなく、夏になると必ず登って来る中学生たちが捧げる花束に飾られている。(聖職の碑本文一部引用)

松平郷と白鷺館、矢勝川の曼珠沙華

2015年09月30日 | データ
■2015.09.25 豊田市の松平郷へドライブ
ここは江戸時代を治めた徳川家のルーツである松平家発祥の地。
歴史的建造物や自然の里「松平郷園地」として整備されており、季節の花々が咲き誇っています。

・松平東照宮

・高月院


・サワギキョウ
キキョウ科ミゾカクシ属の多年草。美しい山野草であるが、有毒植物でもある。

・ムラサキシキブ

・シロシキブ

・ギボウシ

・ソバナ

・サワギキョウ

・河骨



郷内の「天下茶屋」で「とろろごはん」セットを注文。

・ツリフネソウ

・ミズヒキ

・ホトトギス



ドライブの仕上げは温泉です。
今回は足助の「白鷺温泉 白鷺館」へ
昭和初期に建てられた建物はレトロ感たっぷりです。
入口には白蓮の直筆俳句が・・・・



■矢勝川の曼珠沙華






しらびそ高原 尾高山(2212m)

2015年09月22日 | データ
■2015.09.21 このシルバーウィーク前半2日はテニスで汗を流し3日目の今日はトドクロちゃんを誘って遠山郷のしらびそ高原へミニ登山とドライブへ出かけた。
この連休は何処も(山)も混みあうため好きな南アルプスを眺めながらの軽い山登りとした。
4:45に自宅出発し一部高速を使いながらも約80%は下道で登山口へ向かう。
8:30 しらびそ高原へ到着し早速登り出す。

笹に覆われた登山道は整備され歩きやすい。

地衣類のサルオガセが木々に下がっている。
苔むした南アルプスにはよく見られ、鳳凰三山では特に多く独特の景色を演出している。

眺望の利く場所でも雲が多く遠くまで見ることはできない。

ピークらしいピークではないがここが前尾高山。それでも標高は2000mを超えている。

朝露に濡れたスギコケ。眺望は無いが足元に小宇宙が広がっている。

水平な道が多い。

木々に名称札が掛けてあるがトウヒ・シラビソなどマツ科モミ属の区別がどうも苦手だ。

キノコも多く知識があれば・・・でも採ることはしません写真で撮るのみです。

10:30 尾高山。

ここを更に行くと奥茶臼岳です。残雪期に行きたいコースです。

山頂の奥にビューポイントがありそこで軽くお茶をする。
ビューポイントのヤマハハコ。

何の実でしょうか?

しばし休憩し下山へ。
山頂標識前で登山者に写真撮影を頼まれたがここまで登山者2名と虫採集者2名と会っただけの静かな空間。

まだ紅葉は始まったばかり。

天頂は晴れているが山並みには雲が湧いている。

今日の興味は「小宇宙」

スギゴケ。

ナナカマドの実のみ紅葉している。奥にしらびそ高原ハイランドホテル。

スポットライトを浴びた緑輝く笹。
下草が笹の場所とシダの場所が明確に分かれている、何が違うのか?

登山道に咲くアキノキリンソウ。

12:20 登山口の「しらびそ峠」

じつはこのしらびそ峠から大沢岳へのルートがあった(今は通行止め)
年に何人か入っている様だが・・・・


昼食は遠山郷「かぐらの湯」と決めてるので上村(日本のチロル)方面から向かう。

道路脇の大きなフジアザミ。

信州サンセットポイント100。

上村の「コスモス」と「そばの花」

温泉前に昼食
「そばセット」を注文。残念ながらまだ新そばではない。

食後は温泉でゆっくりし龍淵寺の観音名水を汲み帰路に着く。


先日の雨で北又渡~易老渡間の路肩が崩壊している様で聖岳・光岳の登山口までは入れない。
ただし下山者の車にみ時間制限で流しているようだ。

ひょっとするとこの中に自分も入っている可能性があった。・・・・・ほっ。

たぬき寺(中之院)境内の軍人像。

2015年09月15日 | データ
■2015.09.06 昨日に続き午前中はテニスへ自転車で行った。
マウンテンタイプの折畳み自転車で強く踏むとギシギシとしなるがウォームアップには充分だ。
少し古いラケットを持ち出し4試合ほど行う、意外といい感じで打てたので結果は◯。
コート上は暑いが日陰は涼しく秋が近づいているのが分かる、そろそろ秋山登山が始まる。

昼からは何時もの温泉へ向かうが途中で寄り道。
南知多町の通称たぬき寺(中之院)へ
岩屋の観音さんの前にある鄙びたお寺です。

至る所に「たぬき」が・・・

そして境内の奥に軍人像が

支那事変へ出陣された軍人達

写真を元に製作されたそうです。

見ると一人一人違っています。

中ノ院 軍人像について
ここの軍人像のほとんどは昭和十二年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第三師団歩兵第六連隊の兵士達です。緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、艀で野間沖に待機していた巡洋艦、
駆逐艦の乗りこみ、わずか廿六(26)時間で揚子江河口付近に到着後の昭和十二年八月廿三(23)日の敵前上陸でしたが、
上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
軍人像そのものはめいめいのご遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。
昭和十二年から十八年のことと言います。また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が『国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない。あれを日本人の手で壊すことはできない。どうしても壊すというのなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろう』と頑張った。
おかげで像は壊されずに済んだということです。


昭和12年7月7日に盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が北京で起こっておりその年に上海へ戦火は拡大していった。
その上陸軍として派遣された軍人達です。
その年の暮れに南京を占領した日本軍は大東亜戦争へと・・・・・・

たぬき寺を後にしてお気に入りの温泉「うめ乃湯」へ
熱めの塩辛い温泉で体を癒しいつものように休憩室で長居。
帰り道は伊勢湾越しに鈴鹿山脈を見ながら帰路に付く。

2015テニス合宿

2015年09月07日 | テニス
■お気に入りの場所で恒例のテニス合宿を開催。

チーム戦で熱戦を繰り広げ勝敗は得失点ゲーム差まで縺れ決まった。



夜の寝る時間が早くなり朝早く目が覚める。

それもそのはず平均年齢は・・・・・・

でもとても強いテニスおじさんです。