米国での生活で印象に残っているのは人生初めてキャンプした時のことだ。ワシントン州シアトル郊外から南下しオリンピア市でオリンピック半島東海岸線を延々と北上し、一回りして太平洋側のホー雨林ビジターセンター(VC)で車を停めて歩き始め、レンジャーステーション(RS)からホー(Hoh)川に沿って更に西に歩き、ガードステーション(GS)とエルクレイク(Elk Lake)でキャンプした。
97年に初挑戦して土日では時間不足と分かり、翌98年に金曜の午後仕事を早めに切り上げ薄暮にVCに到着して歩き始めた。真夜中にはGSに到着したが、キャンプ場は誰もいなかった。テントに適した場所を探している間にスーッと動く光点(鹿の目の光だった)を見て驚いた印象がある。だが、危険な印象はなかった。翌日は更に西に向かったがElk Lakeで薄暗くなり又もや時間切れになった。
オリンピック国立公園内のElk Lakeキャンプ場には幾つかの先客がいた。多分、次の日に本格登山する計画だったかも知れない。私は彼等はが挨拶もせずテントを張って携行食を食ベ、翌朝直ぐにテントを畳み帰路に就いた。時間がなかった。登山口のVCまで約16マイル歩き、シアトル郊外まで約500キロ車を走らせ真夜中に自宅に戻った。ガイドブックには夜12時過ぎ着とメモ書きがあった。
まともに料理する時間すらなく、又もや本格的な山登りの前にギブアップした。これが私の生涯で一番タフな「ぼっちキャンプ」だったと思う。楽しさはほぼゼロ。テレビで人気の「ぼっちキャンプ」と目的が違い、調子に乗って昔の思い出を投稿するんじゃないよと言われそうだ。
正直言うとこの記事を書く前に当時使った地図やガイドブックを引っ張り出して調べないと地名や場所すら思い出せなかった。だが、真っ暗な山道を何とか間違わず歩き、鹿の光る目に驚き、真夜中にテントを張ったシーンは今でも鮮明に思い出す。人との出会いはなかった、少なくとも記憶にない。
米国で買った山登りの靴やテント等は帰国時に持ち帰って、日本でも奥多摩や南アルプスなど山歩きの機会に「ぼっちキャンプ」をやった。だが、余り楽しめなかった。南アの甲武信岳の小屋の横にテントを張りラジオを聞いていると、隣のキャンパーにラジオがうるさいと注意を受けた。帰国後は人口密度が高くて自然の中を歩く印象が薄かった。それ以来ぼっちキャンプはやっていない。■
97年に初挑戦して土日では時間不足と分かり、翌98年に金曜の午後仕事を早めに切り上げ薄暮にVCに到着して歩き始めた。真夜中にはGSに到着したが、キャンプ場は誰もいなかった。テントに適した場所を探している間にスーッと動く光点(鹿の目の光だった)を見て驚いた印象がある。だが、危険な印象はなかった。翌日は更に西に向かったがElk Lakeで薄暗くなり又もや時間切れになった。
オリンピック国立公園内のElk Lakeキャンプ場には幾つかの先客がいた。多分、次の日に本格登山する計画だったかも知れない。私は彼等はが挨拶もせずテントを張って携行食を食ベ、翌朝直ぐにテントを畳み帰路に就いた。時間がなかった。登山口のVCまで約16マイル歩き、シアトル郊外まで約500キロ車を走らせ真夜中に自宅に戻った。ガイドブックには夜12時過ぎ着とメモ書きがあった。
まともに料理する時間すらなく、又もや本格的な山登りの前にギブアップした。これが私の生涯で一番タフな「ぼっちキャンプ」だったと思う。楽しさはほぼゼロ。テレビで人気の「ぼっちキャンプ」と目的が違い、調子に乗って昔の思い出を投稿するんじゃないよと言われそうだ。
正直言うとこの記事を書く前に当時使った地図やガイドブックを引っ張り出して調べないと地名や場所すら思い出せなかった。だが、真っ暗な山道を何とか間違わず歩き、鹿の光る目に驚き、真夜中にテントを張ったシーンは今でも鮮明に思い出す。人との出会いはなかった、少なくとも記憶にない。
米国で買った山登りの靴やテント等は帰国時に持ち帰って、日本でも奥多摩や南アルプスなど山歩きの機会に「ぼっちキャンプ」をやった。だが、余り楽しめなかった。南アの甲武信岳の小屋の横にテントを張りラジオを聞いていると、隣のキャンパーにラジオがうるさいと注意を受けた。帰国後は人口密度が高くて自然の中を歩く印象が薄かった。それ以来ぼっちキャンプはやっていない。■
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