好きな作家の一人塩野七生さんがよく引用され、私も気に入っているシーザーの言葉「人は見たいと思う現実しか見えない、人は聞きたいと思う声しか聞こえない。」の罠に私自身嵌っていることに最近気が付いた。
2週続いた同窓会で四十数年ぶりの邂逅を果たした。久しぶりに会った時の旧友達の最初の印象は、例外はあるが概して痛ましいほどに老けた顔だった。記憶しているのが10‐20代の顔だから当然といえば当然なのだが。
ところがその後送られてくる写真を見ると、私は彼らと良い勝負の老人の顔だった。写真は冷酷に現実を映していた。額から禿げ上がった頭に締まり無く垂れ下がった頬が私の姿だった。
正直写真の老け顔に失望した。情けない老人顔は普段鏡で見る自分の顔と別人みたいだった。毎日少なくとも朝顔を洗う時と風呂に入る時の2回は鏡を覗き、自分の顔は分かっていたはずなのに。老眼は進んだが、まだものを見るには十分な視力が残っている。何故?
そこで、冒頭の言葉を思い出した。私は毎日鏡を見ているのに自分の身に起こっている現実を直視できなかった。自分はこうありたいという姿を鏡に映った実像に重ねあわせ幻を見ていたのか。視覚神経の情報からシワやタレなど都合の悪い絵を自動的にCG処理して見ていたのかも。
かといって、毎日鏡を見て老化の証拠をあら捜しするほど惨めにはなりたくない。いっそ開き直って、見たい現実のみが見える勘違いの平穏な生活が悪くないかもしれない。■
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