かぶれの世界(新)

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二つの家訓

2015-08-07 11:55:53 | 日記・エッセイ・コラム
子供達に至急の所要で確認を頼んだが長男からの返信メールを見て不安になった。メール発信時刻が深夜だったり朝の3時過ぎだったりしたからだ。先月半ばに一時帰京した時パーティの最中に長男が熱中症で救急車で搬送される騒ぎがあったばかりだ。直前の働き方が常軌を逸する物だったらしい。その時、どんなに仕事が忙しくても自分の健康を最優先にしろ、それが自己責任だと説教し納得してくれたはずだった。だが、彼の働きぶりは私にそっくりで、内心ではそう簡単に働き方を変えないかもしれないと恐れていた。

しかし、私の見たては違っていた。今回彼の仕事ぶりは寧ろ私の父親に似ていると感じた。私は「仕事大好き人間」だったと主任課長時代に部下で、昨年久しぶりに会った女性に言われた。そう見えたということだろう。だが、技術開発に打ち込んだ20代を除けば朝の3時まで仕事なんて記憶がない。しかも彼はもうすぐ40代になる。一方、私が子供の頃平日に父の姿を見たことはないし、たまの休みは居間で寝ていることが多かった。その挙句定年前に心臓病で死んだ。

祖父と父の2代続けて早死にした我家は祖母は50年余り、母も40年余後家さんを続け我家を守った。しかし、男手がいないと男社会で我家は徐々に衰えざるをえなかった。その歴史を真近に見て来た私は、母より早く死ぬ訳にはいかないと早期退職した。熱中症が落ち着いた後「親より先に死なない」を家訓だと言って息子に引き継ぐと宣言したが、今回メールを見てどうもその通りになってない気がした。

我家が最も元気が良かったのは曾祖父が生きていた時代だった。彼は江戸末期から昭和10年代まで長生きしたが、長男は20代初め、次男は20代半ばで早逝した。次男と結婚した祖母は父を生み直ぐにシングルマザーとして子供を育てることになった。大正から昭和初期にかけ祖母は毎年四国の田舎町から高野山や仁和寺にお参りに行ったそうだ。曾祖父とお寺にどんな関係があったのか知らないが、我家にはこれ等お寺の管長の書が残っている。いずれにしても祖母は現代でも贅沢と思われる旅行を毎年させて貰ったらしい。

その曾祖父が亡くなり、赤紙を貰った父が兵隊で出て行った後、一人田舎に残された祖母の心細さは想像に余りある。父が無事帰還し結婚して生まれたのが私だ。私が小学校に入学した頃、大人達は10年以上前に死んだ曾祖父の名前を出して「りんさんの惣領息子」と紹介されるのを何度も聞いた。その当時は農地改革で我家は地主ではなくなったが、私は惣領で祖母は曾祖父の威光で敬意を持って扱われていた。だが、私が東京で働き始め父が早死にした後、母と祖母の二人暮らししている頃はかつての威光は消失していたように感じる。

私は上京したので実家は実質3代続けて男がいないとこうなる、というのが私の総括だ。ということで私は息子に家訓「親より先に死ぬな」を引き継ぎ、それでも我が家の男が早死にする血筋を考え万が一にも親より先に死ぬ家訓破りが起こった時は、曾祖父の家訓「親が嫁さんと孫を徹底してサポートする」を私が引き継ぐことにした。2つの家訓で我が家が無くならない仕掛けが完成する。全部当たり前のことだが、この家訓を生かす事態が絶対に起こらないことを祈る。■
コメント
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