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私的お笑いの系譜

2012-11-05 11:57:25 | 日記・エッセイ・コラム

ーベル賞受賞に続き文化勲章を受けた山中教授は、生真面目な顔から受ける写真の印象とは異なり講演上手で知られているそうだ。時間をかけて笑えるネタを仕込み十分に準備して講演に臨み、聴衆を沸かしリラックスさせて本題に入る演説の達人と昨日の朝日新聞のコラムは報じていた。

記事は続けて、自ら関西弁に特有のお笑い文化であるような扱いをし、一方で「下品でお笑い用」の言葉であり「英語に追詰められたフランス語」のようだと筆者のコンプレックス丸出しの見方を紹介していた。だがそれは関西弁とか笑いのせいではなく、使う人の人柄の現われだと私は思う。どこに言っても関西弁を変えない人達であり、寧ろ誇りを持っているのではないだろうか。

実は私も笑いを武器に相手の警戒心を解き、老若男女構わず誰とでも楽しく会話を弾ませ知り合いになる。少なくともそう努めている。先日義弟と石鎚山をハイキングした時も、すれ違う人殆どと楽しく会話させてもらった。彼は関西弁、私は標準語だ。相手の状況に合わせ最初の一言二言で会話が続くかどうかが決まる。ある種の達人(?)かもしれない。だが、もちろん生まれた時からそうだったわけではない。

私は子供の時から笑いは不真面目であると思い、何時も生真面目な顔で一生懸命やってますといった姿勢(時にはやってるふり)を保っていた。学生時代の延長で「何をへらへら笑っているんだ」と先輩に叱られないよう気をつけていた。変わったのは会社勤めで多くの人と一緒に仕事をしてからで、そのうち部下を持つようになって笑いの重要性が徐々に分って来たと思う。

司の影響を強く受けてこうなったと思う。彼は瞬間湯沸し器みたいで近づくだけでいつ爆発するか恐れたものだが、意外な時に滑稽な事を言って周りを笑わせ子供みたいな仕草で憎めないところがあった。今でも懐かしい思い出だ。彼は困難な交渉とかギリギリの緊張した場面の合間で、如何に笑いが重要か教えてくれた。寧ろそういう時にこそ笑いが必要だと。

以来、私は普段から意識して人を笑わせるネタを集め、いろんな場面で使うようになった。笑いをとる為にもう一つ重要なのが、場面や相手に気後れしないことだ。それが緊張せず出来るようになったのは、上司のかばん持ちで業界の有名人と同席し、米国暮らしの間に相手が社長でも掃除夫でも同じ言葉で予断無く対応できる習慣が身に付いたことだ。

つまり、私は関西人の生まれつきの笑いの遺伝子は持っていない、後天的に努力して身に付けたものだ。だが、退職後10年も経ちその傾向が更に磨かれ(実際今でも努力している)、極端にやりすぎて時に周りの人の顰蹙(ひんしゅく)を買っているかも知れない。米国時代も従業員相手にスピーチした時、下ネタは全く受けなかった。多分、言語能力ではなくTPOの問題だったと思う。

数年前、姪の結婚式に出かけ招待された女友達を披露宴の間ずっと笑わせ続けたのを、大阪育ちの姪はまだ怒っていると義弟は先日言った。石鎚山に行った時も呆れていた。田舎で散歩中の女性と親しく話せば友人はナンパだといい、原宿のカフェバーで「君かわいいね」といえば家族に目をしかめられる。総ては相手を楽しくさせる為の善意の行為なのだが。■

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