かぶれの世界(新)

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謝罪大国

2011-05-23 23:41:46 | 社会・経済

民党や公明党は、菅内閣の原発事故対応の致命的なミスを見つけて追求し、マスコミがそれを増幅して支持を得れば内閣不信任に持ち込みたいと考えているようだ。今日の衆院東日本大震災復興特別委員会で、自民党や公明党は福島第1原発1号機の海水注水が一旦停止したのは官邸指示ではないかと迫った。

それが何故「復興特別委員会」の議題になるのか、どうやって復興に貢献することになるのか全く理解できない。前日のNHKニュースでさも重要そうに報じていたので、国会で議論されそうな気がしたが、実際その場面を見ると困ったものだと落胆した。原発事故対応の検証は過去の原発行政から大震災後の危機対応まで検証せねばならないが、現時点での最優先事項は日本の全力を挙げて超党派で復興に取り組むことだ。それが国民の求める復興委員会の役割だ。

大事件が起こった時、問題を構造的に検証しないで安易に犯人探し(責任追及)を始める。自民党総裁が安易に週刊誌的ネタを持って国会で首相に詰め寄るような、恥ずかしいマネは止めるべきだ。国民はこれでは菅政権を交代させても何も良くならないとあきれて失望するし、海外のメディアは馬鹿にして取り上げもしないだろうと私は予測する。

は今日の記事は、多少は関係するがこれがテーマではない。犯人(責任)が明確になったところで、犯人に謝罪を求める習慣についてだ。97年暮れ米国に駐在中に山一證券が自己廃業決定の記者会見で、経営陣が一斉に頭を下げて謝罪する「涙の会見」が異様に見えた。米国では絶対お目にかからない風景だった。日本に戻ると何かと謝罪という言葉が気になった。

私は日本には謝罪を強要する文化があると感じている。犯罪事件や大事故後に犯人や責任者が謝罪することを極めて重要視する、謝罪の念があることが裁判の結果にも反映されるのは法的にも裏付けられた習慣である。最大限の謝罪の表現として土下座がある。謝罪は儀式化し、コンサルタントまで登場し、謝罪をどうやるか(切り抜けるか)とても重要になった。

不祥事などが起こると会社や組織のトップと幹部が謝罪会見を行い、深々と頭を垂れる姿にフラッシュがたかれ全国に報じられる。日本でお馴染みの儀式となったテレビ仕様の謝罪表現である。テレビ仕様は元を辿ればスポーツ紙の表現、このレベルの知的基準をベースに置いた表現形式、即ちニュースバラエティ的表現である。

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月に入りついに東京電力の社長が原発事故の被災者巡りを始めた。本命登場である。防災服に身を固めた東電の社長と付き添いの幹部がおずおずと避難場所の体育館に入ってゆき、当然のように土下座をして謝罪をした。テレビ画面は大声で罵倒する被災者とひたすら土下座を続ける社長の姿を流す。

多分、何度かリハーサルして好感度が悪くならないよう準備したはずだ。社長は全避難地域を巡って謝罪行脚を続けたはずだが、3度目くらいからニュース価値が無くなったと思われる。少なくとも全国ニュースではなくなった。東電はここまで計算していたと思われる。社長に謝罪の気持ちはあったろうが、謝罪行脚は明確な計画の下で(粛々と)実施されたと思う。

一方、被災者も地震や津波なら文句を言えないが、原因が原発事故なら怒りをぶつけずにはいられなかったはずだ。生活面の現実的な補償は必須だが、それとは別に明確な謝罪がセットになってなければならなかった。これが昨今の日本の謝罪文化だ。昔からこうだったわけではない。上記のようにニュースバラエティ的な謝罪儀式と私は感じる。じっと悲しみをこらえて涙が頬を伝わる様子を何時からか「号泣」と表現するようになったように。

東電社長の土下座と被災者の罵倒の交換とそれを取り巻く報道陣のフラッシュを含めて一つの謝罪パッケージという風に私には感じる。しかもこの謝罪パッケージは醜悪というか、私には食欲をなくさせる風景だ。何か自分の中の醜いものが曝け出された様に感じてしまう。謝罪がある種様式化がされたのだが、茶道や華道に比べ美しさに欠けるのだ。■

コメント
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