格差社会を非難する声が高まる中、逆説的だが敢えて格差社会を勧めたい。構造改革による規制緩和や地方分権は言い換えると自己責任を取れということだ。個人の問題として捉えると誤解が生じやすいので、分かりやすい例で議論する。
申し訳ないが大阪市の例をあげる。報道されている通りとすれば、大阪市の巨額のゴミ処理施設投資や職員の給与・フリンジベネフィットは滅茶苦茶だ。よくもこんな無駄遣いを許したものだ。しかし、これは誰の責任でもない、大阪市民が選んだ市議と市長が市役所にやらせたことだ。大阪市民は被害者ではない、自分で選んだ結果だ。
尻拭いは大阪市民がしなければならない、国税を大阪市に投入して救済することは他の都府県民は許さないだろう。他の自治体にもまだこういう例が沢山ある、ここで止めるわけにはいかない。しかし、全てが大阪市の例ほど分かりやすいわけではない。官僚の利権・談合なども負けてはいない、何度摘発されても執拗でもっと巧妙である。
問題なのは、格差社会解消といいながらこのような無駄遣いの見直しに蓋をしようとする動きが見え隠れすることである。構造改革を骨抜きにしてはならない。従来のような公共事業に税金を投入するのはその場限りの麻酔を打ち、手術しないと同じだ。確かに金融危機には国費を投入したが、それとこれは話が違う。
金融は我国の財政そのもの、少なくとも財政を補完するもので国家の根幹に関わるものであり、止む無く国が救済に向かった。しかし、米国を代表する自動車メーカーが倒産の危機に陥っても大統領はおろか議会すら救済の声を上げないのを見ればその差が何か分かるはずだ。一時的な救済はその後米国の重荷になるだけと分かっているからだ。
落ちこぼれた人達を救うのは必要だが、それはイコール弱い企業や自治体を救うことではない。弱者の名を借りた主張に私はある種のいかがわしさを感じる。こいう時は紙面を節約して著名な思想家の言葉を借りることにする。「権力は少数者を腐敗させるが、弱さは多数者を腐敗させる」(エリック・ホッファー)のである。
彼は弱者が更に弱い弱者を徹底的に利用し、腐敗はもっと厳しい形で現れると説く。この古典的なテーマにメディアは勘違いする。メディアは明らかに分けて考えなければならない弱者と社会正義を時に混同してしまう。利権は時に弱者の仮面を被り、メディアはそれに乗る。郵政民営化反対者は弱者ではなく地方の名士の既得権益層であり、国民の支持を得られなかったことを思い出して欲しい。
弱者の救済は絶対必要である。しかし、国費を投入するとしたら経済的困窮者の子供に教育の機会を与えるとか、ダメ会社から強い会社に移る支援とか、もっと極端な場合、財政が健全で住みやすい自治体へ引越しを支援するとかであるべきだ。ダメ会社やダメ自治体を闇雲に支援してはならない。私の格差の勧めとはこういうことだ。
官僚に任せて従来既得権益層が主張するところのダメなものを生き残らせ、結果国全体が負債を抱え競争力をなくし二流国になるほど我国にとって不幸せはない。企業だけでなく自治体も我国の競争力を支える要素であり中国や韓国の都市と競争しているのである。なら結論は明らかだ。これが私の考える格差社会の勧めである。■