朝日新聞で読んだ「亡き息子とずっと対話 僧侶・有国智光さん」
小児がんで15歳のご子息を亡くした僧侶の方の記事が朝日新聞に載っていた。
泣けてしました。
宗教家として親の苦しみを見つめたら、かわいそう、というのは子供を慈しんでいるようで、実は自分を大切にいていることだと見つけたそうです。わが子であろうと変わってあげられない。自分も同じように誰にも代わってもらえない存在、という宇宙的な孤独。これを受け入れることだそうです。
ご子息はがんが全身に転移し、なくなる瞬間に「ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね」といい、「ぼくはもう往きます」と言ったそうです。
2005年に僕も弟を亡くしました。もう3年を過ぎました。
いまでも、弟は僕を導いてくれているように思います。
暮らしの中の小さなことでも「それはほんとうに大切なことだろうか」「そのチョイスは自分でのちに後悔しないか」と考えるとき、弟の顔が浮かびます。
ぼくが読んだ記事はアサヒコムでも掲載されています、以下です。ぜひご覧ください。
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/kataruhito/OSK200810030054.html
小児がんで15歳のご子息を亡くした僧侶の方の記事が朝日新聞に載っていた。
泣けてしました。
宗教家として親の苦しみを見つめたら、かわいそう、というのは子供を慈しんでいるようで、実は自分を大切にいていることだと見つけたそうです。わが子であろうと変わってあげられない。自分も同じように誰にも代わってもらえない存在、という宇宙的な孤独。これを受け入れることだそうです。
ご子息はがんが全身に転移し、なくなる瞬間に「ありがとう。みんなにもありがとうって言ってね」といい、「ぼくはもう往きます」と言ったそうです。
2005年に僕も弟を亡くしました。もう3年を過ぎました。
いまでも、弟は僕を導いてくれているように思います。
暮らしの中の小さなことでも「それはほんとうに大切なことだろうか」「そのチョイスは自分でのちに後悔しないか」と考えるとき、弟の顔が浮かびます。
ぼくが読んだ記事はアサヒコムでも掲載されています、以下です。ぜひご覧ください。
http://www.asahi.com/kansai/kokoro/kataruhito/OSK200810030054.html
遊雲さん父さん―小児がんを生きたわが子との対話有国 智光本願寺出版社このアイテムの詳細を見る |