ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

鳳凰三山「ひたすら樹林帯」

2014年01月23日 00時08分27秒 | Weblog
途中に腰を下ろしてくつろげそうなポイントがあり、そこで昼食を摂った。
コンビニで買ったいつものおにぎりではあるが、たまには変化球で行ってもいいかなと最近思うようになっている。
ついつい便利で楽だからと、マンネリ化してしまっている昼食だ。


昼食は夕食時と違ってそれほど長時間ゆっくりとはできない。
だからこそいつもと違った何かをと考えてはいる。
いい加減なんとかしないといけないなぁ・・・。

ザックの重さが嫌になるほどの急登攀が始まった。
ほとんど日の差し込むことのない鬱蒼とした樹林帯だった。
トレッキングポール無しではちょっときつかったし、膝への影響も不安でならなかった。
そして、記録としての写真を撮っておく気持ちのゆとりがなくなっていた。
こんな時ほど「小屋泊にすればよかったなぁ」と、ついつい逃げ腰の思いに駆られてしまう。

高度計で標高を確認しながらひたすら登る。
「もう少し頑張ればトラバースっぽいところが待っている・・・はず」
やせ我慢をし、Hさんには言えなかった言葉だ(笑)。


やっと急登攀が終わり、緩やかな登りとなってくれた。
だが、樹林帯の中であることには違いはなかった。
「あぁもう飽きたなぁ・・・」
とは言えない。
こんなおじさんでもプライドはあった。
事前にネットなどで調べた限りでは、小屋まではほぼ樹林帯のようである。
分かっていたことだが、いざ現実となると辟易してくる。

少し開けてくれないものかと半ば嫌気がさしてきた。
自分で決めてこのルートを歩いているにも関わらず少々情け無い。
この時思った。
「やはり俺は岩山の縦走が好きだ!」

そう勝手に思い込んでいると、左手に山肌が見えてきた。

やっと紅葉らしき光景にお目にかかれた。
何となくではあるが、クリスマスカラーっぽい山肌だった。
と同時に、ここはまだ針葉樹林帯であることを再認識させられた。
「明日に期待しよう」

するとだった。
進行方面の山頂あたり、やけに目立った突起物が目に入ってきた。
「ねぇHさん、あれってひょっとしてオベリスクかなぁ」
確信はなかったので、地図で方角を確認。
間違いない、地蔵岳だ。


こうなるとついさっきまで樹林帯に辟易していた自分など何処へやら・・・。
オベリスクのおかげで一気にテンションが上がってくれた。
「ということは、あの山の麓に小屋があるってことだ。」
自分にそう言い聞かせた途端、急に足取りも軽くなったような気がした。
お恥ずかしい事ではあるが、現実はこんな感じだった。

そして15時40分。
やっと樹林帯を抜け・・・いや、まだ抜けてはいなかった。
樹林帯の中にある「鳳凰小屋」に到着した。
休憩時間を抜かせば、なんと5時間近くも要してしまったことになる。
やはりザックの重量とルートタイムはほぼ比例しているなぁと思った


はいHさん、お疲れ様でした!
何はともあれこれからテント設営だ。
いや、その前にゆっくりと一服しよう♪

鳳凰三山 「久しぶりのテント泊」

2014年01月22日 00時18分18秒 | Weblog
重太郎新道を経てジャンダルム縦走をした後の身体は、自分が思っていた以上に芳しくないものだった。
特に右膝は後十字靱帯の腫れがひどく、ジーンズをはくことすらできなかった。

そんなわけで9月一杯は体を休め、10月の山行に備えることに専念した。
その分頭の中は「山・山・山!」が駆けめぐり、いろんな意味でイメージトレーニングができた。
装備についても同様で、「今度はテン泊だな」と決めていたし、何よりも単独で臨む事への意義のようなものを考え始めていた時期だった。
・・・のはずだったが、職場の女性に「一緒に行ってもいいですか?」と聞かれ、二人での山行となった。
女性と言ってもあまりにも若く、どこから見ても誰が見ても「親子」としか映らないだろうなぁ(笑)。

約一か月ぶりの山行は南アルプスにある「鳳凰三山」だ。
南アルプスの山へは数回しか行ったことがなく、大いに興味があった。
膝の痛みはまだ残っていたし、テント泊ともなればザックの重量はそれなりに重くなる。
不安は完全に払拭できてはいなかったものの、「鳳凰三山なら・・・」とちょっと軽く見ていた。
(結果として下山後はひどい痛みに襲われた)

10月上旬、天気予報はまずまずで、新宿から朝一番の「あずさ」に乗り、一路「韮崎」まで。
韮崎といえば、サッカー好きの自分にとって先ず思い浮かぶのが「中田ヒデ」だ。
そう、サッカーの名門校である「韮崎高校」だ。


駅を降りてすぐ、このようなモニュメントが目に入った。
う~ん、さすがは韮崎。
この時ばかりは、山よりもサッカーのことで嬉しさはひとしおだった。

さぁ、気持ちを切り替えていざ青木鉱泉へと出発。
タクシーで徐々に標高を上げて行くが、まだ紅葉には時期尚早のようだった。
それでも運転手さんの話では、「紅葉を見るならここから先ですよ」ということ。
秋ならではの登山の楽しみの一つはやはり紅葉を愛でることだろう。


青木鉱泉で登山届けを済ませ、10時15分にスタート。
やや遅れてのスタート時刻となった。
初日はここからほぼ樹林帯の中をひたすら登るだけ。
あまり好きではない樹林帯だが、今日は仕方あるまい。
明日に期待しよう。

通称「ドンドコ沢」と呼ばれるルートであり、登るに連れ幾つかの滝がある。
ややルートから外れてしまうポイントもあるようだが、時間に余裕があったら一目見てみたい。

スタートから1時間ほどは、だらだらとした緩やかな登りとトラバースの連続。
川に沿って登って行くが、水の流れる音が聞こえているうちはまだまだ序の口ってことになる。
やがて音が聞こえなくなり、山の深部へとさしかかった。
かと思うと、今度は別の水の音が聞こえるようになった。
流れる音ではない。
むしろ落ちて打ち当たっているような音だった。


10月とはいえ、これだけの重さのザックを背負っての登山ともなればかなり汗をかいていた。
滝から流れ落ちてきた水で手と顔を洗った。
気持ちいい・・・ではなく、冷たすぎる山の水だった。

スタートから約1時間30分。
小休止をとった。

今のところ膝は大丈夫だったが、地図によればこの後には連続した急登攀が待っている(たぶん・・・)。
ストックをフル活用しての登攀となるだろう。

嗚呼! ジャンダルム・・・「山に感謝」

2014年01月18日 22時54分05秒 | Weblog
今回の山行で山にいたのは実質僅かに二日間ほどだったが、これほど濃厚な二日間はあまり記憶にない。

単独登攀、単独縦走についての個人的見解は10月のブログに綴ったのでここでは省かせていただく。
一言だけ付け加えるのなら、「経験を積むなら単独に限る」ってところだろうか。
良いことも嫌なこともひっくるめて、そのすべてが己自身にふりかかってくる。
嫌でも対峙せざるを得ない状況に自分自身を置くことになるのだ。
それ故に得たものは大きいと言える。
また、今回に限っては、下山後の超サプライズがあった。
毎回そのようなサプライズはあろうはずもないが、やはり日本海から見たあの劔岳はインパクトがあった。
自分にとっては最も思い入れの強い山なのだと改めて感じた。
心からROOKIEさんに感謝したい。

27年振りに縦走したあのコースは、年齢を重ねるに連れ恐怖心を平常心へと変え、体力と持久力を奪っていた。
それでも記録と記憶に残した山行であることは間違いない。
う~ん・・・、次にジャンダルムコースを縦走するのはいつになるのだろうか。
ひょっとしたらもう二度と無いかも知れない。

山はいつでも楽しく、そして寂しい。
多少のアクシデントはあっても、下山してしまえば一抹の淋しさが芽生える。
また、どれほど自然界の厳しい洗礼を受け、ギリギリの状態で疲弊しきった山行だったとしても、2週間もすればそんなことは綺麗サッパリと忘れてしまっている。
そして「次はどの山にしようか・・・」と(笑)。
ただ、今回の下山後は右膝の痛みが激しく、9月一杯は休暇月間とした。

北アルプス、そしてジャンダルム。
尊厳と畏怖とを、貴重な経験という形に変え与えてくれた山であった。

嗚呼! ジャンダルム・・・「海から・・・」

2014年01月17日 01時03分07秒 | Weblog
日が落ちるその前に海へと向かった。
富山湾を見るのはこれで三度目になるが、実際に海辺まで足を運んだのは初めてのことだった。

道路から海岸までは距離にして10mほどだろうか。
その僅かな距離の間を氷見線が通っていた。
海岸線に沿って線路が通っているだなんて、なんと贅沢な風景なんだろう。

自分は鉄道マニアではないが、この風景はたまらく好きで、嘗て愛媛県の「下灘駅」まで写真を撮りに行ったことがある。
地元の方々にしてみれば何でもないような風景でも、海無し県育ちの性分か、こんな穏やかな風景は見ていて飽きが来ない。

ここは「雨晴駅」近くの「義経岩」と呼ばれている場所だ。
ここから海岸へと降りると、今まで見たことのない光景に息を呑んだ。
いや、映像や写真では知ってはいた。
だが、実際にこの目で見たのは初めてだった。


初めは雲の色の違いかと思ったのだが、ROOKIEさんの説明を聞きよ~く見てみると・・・。
まるで海の上に浮かんでいるかのような立山連峰、そしてあれは間違いなく「劔岳」だ。
ガスがかかりシルエットの様にはなっているが、劔岳だけは見間違うはずはない。
言葉の出ない感動的風景だった。
新穂高温泉からわざわざここまで連れてきてくれたROOKIEさんに心から感謝したい。
今、こうして思い出として綴っているだけでも、あの時の感動は新鮮そのものだ。
かぁ~っ! また今年も劔岳に登りたくなってしまった!!!
どうしよう、この衝動を・・・(笑)

興奮冷めやらぬままROOKIEさんの自宅まで行き、奥様にご挨拶。
これから富山市内で飲むため、近くの駅まで送っていただいた。
いろいろとありがとうございました。 m(_ _)m

一端駅前のビジネスホテルにチェックインし、近くの居酒屋へと向かった。
店の名前は「きときと屋」。
この店も、ROOKIEさんが美味い酒肴の店として予め探しておいてくれた店だった。
何から何まで本当にありがとうございます。


さて、酒肴として食べたかったのがこの時季限定、もちろん富山湾限定の一品である「しろえび」だ。

生で良し、揚げて良し。
このしろえびのかき揚げは特に美味かった!
なにせ初めて食べた訳であり、熱々が冷えたビールに合うね♪


刺身の盛り合わせもたまらなかった。
ちなみに店の名前の「きときと」とは、富山県の方言で「新鮮」という意味。
(だったような記憶が・・・)
あ~あのしろえびのかき揚げは、もう一度食べたいなぁ(しみじみ・・・)。

嗚呼! ジャンダルム・・・「思い出の飛騨高山」

2014年01月14日 20時11分26秒 | Weblog
温泉で超サッパリした後、一路飛騨高山方面へと車で移動した。
高山は自分が社会人になった最初の年の夏に訪れて以来だ。
記憶はあまり当てにできないが、町並みは何となくは覚えている。


京都の祇園、倉敷などを思わせる古い町並みを歩いた。
観光化はされているだろうが、栃木ではまずお目にかかれない風景は疲れた体に癒しを与えてくれた。


お土産屋さんにて。

ここで友人、自宅、職場へのお土産を買った。
地酒が美味そう~♪


昼食に食べた飛騨牛料理(ROOKIEさんが予め見つけておいてくれた店)

これがまた口の中に入れた途端、噛む必要が無いほどの柔らかさ!
あれだけ体を酷使した後であれば、尚のこと絶品料理だった。
朴葉味噌の味付けが本当にたまらん!


市内の丘にある公園にて。

この公園は30年ほど前に訪れた時、高山に着いたのが夜の10時過ぎであったため宿に泊まることができず、車中泊をしたところ。
懐かしい思い出の公園だ。


続いて訪れたのが合掌造りで有名な白川郷だ。
さすがに一軒一軒見て回ることは無理だが、こうして丘の上から見下ろせばこの土地が一望できる。
実に素晴らしい世界遺産だ。


合掌造りの家に入るのは初めてだった。
(おそらくは)養蚕業を主とした家屋だが、豪雪地帯で生活するには最も適した古人の知恵が生かされている。

次に向かったのは「万葉ライン」。
山を縦走するように車を走らせれば、彼方には日本海を見ることができた。
ROOKIEさんは何度も訪れているという場所だが、自分にとっては滅多に見ることのない日本海にウキウキだった。


誰でも自由に突くことができる「平和の鐘」

とにかくでっかい!
この場所から突くのだから相当広範囲で響き渡るのだろう。

朝からずっと観光巡りをしてきた訳だが、すでに夕暮れ時。
しかし、日が沈む前にどうしても見せたいポイントがあるという。
贅沢なほどここまで観光巡りをしてきただけに申し訳ない思いだったが、やはりそのポイントが気になる。

嗚呼! ジャンダルム・・・「再会」

2014年01月12日 23時26分33秒 | Weblog
夕食が済めばあとはのんびりとザック内の整理が残っているだけだ。
いくら丁寧にゆっくりとやったとしても19時前には終わってしまった。
「さて、外に出て一服するか」
と思い、サンダルを履き小屋の庭へと出ると多くの中学生が自由時間を思い思いに過ごしていた。
すると男子グループが近寄ってきて話しかけてきた。
「何処の山から来たのですか? 今日途中で会いましたよね?」
「今朝は奥穂高岳をスタートして来ました。」
奥穂高岳と言ってもピント来なかったようで、部屋へ戻り地図を持ってきて説明した。
「凄いんですか?」
「そうだねぇ、凄いと言えば凄いコースだったかなぁ・・・。」
しみじみと思い出すように話をした。

10分ほどだったが中学生達と会話をし、部屋へと戻った。
正直今日は疲れた。
肉体的な疲労もあるが、それ以上に緊張の連続だった為か気持ちが疲弊している気がしてならなかった。
眠気はまだ無かったが、布団に横になり目だけを閉じた。
いつしか眠ってしまったようだった。
それでも朝は4時前に目が覚めてしまった。
「さぁて、今日は1時間の下山か・・・」


午前7時過ぎにスロースタートの下山となった。
陽の差さない樹林帯の中をのんびりと下る。
やはり膝が痛む。
段差がきつい。
トレッキングポールを用いて膝へのショックを和らげながらの下山となった。
真正面には「笠ヶ岳」の勇姿がバッチリと視界に入ってくる。


ほどなくして新穂高温泉行きのロープウェイ駅に着いた。
これを二つ乗り継いで降りれば、今回の山行はすべて終わることになる。
毎度の事ながら山行の終わりは寂しいものだ。
ましてやロープウェイの窓からは・・・・・

みごとなピーカン、そして槍ヶ岳。
「ちっくしょうー! たった一日違いでこのピーカンかぁ」
何を、誰を恨むわけではないが、口惜しいほどのピーカンだった。

しかし、その口惜しさはROOKIE殿との再会で綺麗サッパリ吹っ飛んだ(笑)。
一年振りの再会だ。
富山からここまで車で3時間もあれば来れると言うが、「・・・もあれば」ではなく、「・・・もかかる」と言った方が正解のような気がする。
相変わらずの行動力とフットワークの軽さには頭の下がる思いだ。

さっそく汗を流すために近くの日帰り温泉へと向かった。
見上げれば青空、大きな露天風呂の中で思い切り足を伸ばした。
膝の痛みが気になり、右膝の裏側に触れてみるとかなり腫れ上がってしまっていた。
(「しばらく山は無理かな・・・」)
そう思いながらも二人で山談議に花が咲いた。

今日はこの後飛騨高山方面へと観光し、その後ROOKIE殿の家まで行くことになった。
夜の酒宴が楽しみだ。
だが、まさか山を下りたその日に、もう一度あの山を見ることができようとは思ってもいなかった。

「春夏秋冬」に思う

2014年01月08日 00時28分14秒 | Weblog
久々に思うことを綴る。
が、その前に謹賀新年。
明けましておめでとうございます。m(_ _)m

思うこととは、大晦日に見た「紅白歌合戦」のことだ。
これほどまでに紅白を楽しみにしていたことは無いと言うほど心待ちだった。
そう、あの「泉谷しげる」の出場だ。
出場が決まった当初「まさかあの泉谷が・・・」と信じられぬ思いだった。
何かと問題視されてきた彼が、果たして自己流を殺し大人しくNHKで歌うか否か。
いずれにせよ彼だけを見るために、紅白を見た様なものだった。

彼の代表作とも言える「春夏秋冬」は、自分が中学1年の頃の曲だったと記憶している。
幾たびとアレンジはされてきたが、多くのシンガーソングライターがカバーし、コンサートで歌われてきた。
あの頃歌詞の意味などよく分からなくとも、ギター片手に40年近く自分も歌ってきた。
歳をかさねるに連れ少しずつ歌詞の意味が分かるようになり、今やっとしみじみと聴き、歌うことができる。
あの曲ほど哲学的な深さを持った歌詞は無いと考える。
もっと大袈裟に言えば吟遊詩人的存在にさえ思えてならない。

あの時代、シンガーソングライターという存在(職種)が少しずつ社会に認められつつあり、過去の朝鮮戦争を含む戦争への反戦歌なども歌われた。
どれほど曲がヒットしようともテレビに出ることを頑なに拒み、自分の思想や経験を基に歌詞を作り、それにメロディーをあてはめて行く。
はっきり言ってしまえば歌は下手な奴が多く、服装なんぞはボロボロだ。
あくまでも自分で作った曲だけで勝負していた。
「見てくれ」なんてまったく関係なかった。
そして自分も含め、若者はそこに憧れた。
かっこ悪さがどうしようもなくかっこよく見えたものだった。

話を紅白に戻そう。
泉谷しげるのとった振る舞いや言動について、何かと問題視されている。
彼を知らない人達からすれば驚きの連続だっただろう。
しかし、自分にしてみればすべて当たり前のことにしか映らなかった。
今までわずか4回ではあるが彼のコンサートに行ったことがある。
毎回自分流を貫く彼がたまらなく好きだった。
ちなみに前から3列目の席で見た時は、彼は客席まで降りてギターをかき鳴らし歌い、自分のすぐ目の前に来た時などは、彼の汗とつばがかなりかかった程だった。
だから今回の出場でも自分流を通してくれた彼にむしろ感謝したい。
NHKだから・・・。紅白だから・・・。
そんなこととは関係のない彼のスタイルが嬉しかった。
それを問題視するのであれば、出場を依頼したNHK側にこそ問題がある。
まさか何も知らないで依頼したとは考えられないし・・・。

現代、もしあの曲が全くの新曲で、新人の歌手が歌ったとしてもヒットするかどうかは疑問だ。
あの時代だからこそ、そして泉谷しげるという強烈で、憎みきれない反逆児だからこそ受け入れられた曲なのだろうと思う。
ビジュアルも含めてでしか勝負できないどこかのグループが歌っても、いや、それ以前に「愛だ、恋だ」の歌詞ばかりだし、あれほどの歌詞を作れるミュージシャンはまずいないだろう。