ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

萩へ・・・その6

2007年12月26日 23時51分28秒 | Weblog
時間に少し余裕があった。
市内に戻り、「菊ヶ浜」に出た。
波の音さえ聞こえない静かな海だった。
およそ140年前の壮烈な出来事など、まるで何もなかったの様な穏やかさだった。
一通り見るべきものは見た(つもり)。
感じるべきことの、それ以上のものを感じることができた。

「なんでさぁ、江戸からこんなに遠く離れた小さな田舎町なのに、歴史を変えるだけの人が出たり、実際に変わちゃったわけでしょ。どうして?」

息子からの突然の質問だった。
正直驚いた。
と言うより、それに気付いただけで、この旅は来て正解だったと言える。

「それが人の不思議であり、歴史のおもしろさなんだよね。」
かなりアバウトな答えである(笑)。
「もう少し大きくなったら、司馬遼太郎や池波正太郎の本を読んでごらん。時間はかかっても、お父さんが答えるよりはるかに良い答えが出てるから。でも、解釈は人それぞれだから絶対的な答えは出ないかも知れない。自分なりの答えでいいんじゃないかな。」

海を眺めながら、確かそんな会話をした。

萩市内から石見空港までバスを利用した。
日本海に沿って走っている。美しい日本の原風景を見ているようだ。
夕焼けが旅の終わりを告げていた。

萩へ・・・その5

2007年12月26日 01時10分31秒 | Weblog
朝から快晴。
市内循環バス東回り「松蔭先生号」に乗り、松陰神社前で下車。
数分歩くと、目の前に「松下村塾」があった。
時代の流れと共に傷みはあるが、よくぞこんにちまで保存していてくれたという気持ちであった。
およそ「建物」と呼ぶにはほど遠いものである。
だが、日本の片隅にあるこの無名の私塾には、歴史に大きなうねりを起こすエネルギーの源が確かにあったのだ。
暫したたずみ、畳を見つめた。
「当時のままか・・・いや、おそらくは張り替えられたものだろう」
それでも十分であった。この畳の上で講義がなされ、自由に論じあい、食もしたであろう。そう思うだけで、彼等の残像が見えてきそうな気にさえなった(笑)。

「松蔭遺墨展示館」が隣接されている。
そこには彼の遺書とも言うべき「留魂録」が保存されているという。
処刑二日前に書き残した物だ。
だが、どうしてもそれが信じられなかった。
当時の彼は国家的罪人である。
たとえ遺書的な物であっても、国家的罪人の書を幕府が許すはずがないと思っている。

館内は狭く、ガラスケース内に保存されてるものがほとんどであった。
そして私の足は、あるポイントでピタリと止まった。
食い入るようにガラスに顔を近づけた。

「身ハたとい 武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし 大和魂」

「留魂録」であった。
本物の留魂録があったのだ。
当たり前の事実が、何故こんなにまで鮮やかに胸に迫り来るものがあるのだろう。
感無量だった。言葉がなかった。
その後、昼食を食べようとしても、胸が一杯でのどを通らなかった。
息子が不思議そうな顔をして私を見ていたっけ(笑)。

午後、小高い丘を登り、松蔭の墓前に花と線香を手向けた。
振り返れば、萩の街並みと日本海が一望できる。
「こんな小さな町からどうして・・・」
歴史とはつくづく不可解なものだとあらためて感じた。

萩へ・・・その4

2007年12月21日 00時19分17秒 | Weblog
朝からかなりの距離を歩いた。
レンタサイクルを利用すればとも考えたが、やはりちょっと無理をしてでも歩く方がはるかに発見がある。
夕方、ホテル近くまで戻った。
珈琲が飲みたくなり、私には不似合いな洒落た感じの店に入った。
案の定、観光客とおぼしき若い女性のグループがいた。
嫌な予感がした。そして予感は的中した。

「ねぇねぇ。新選組もカッコイイけど、奇兵隊もいいと思わない?」
「そーかなぁ。やっぱダサイじゃん。」
「だってさぁ、高杉晋作って若くして死んだじゃない。それだけでカッコイイじゃない」

嫌でも聞こえて来る大きな声だった。
珈琲が不味くなってきた。
内心「バカものどもが」と思いながら早々に店を出て、自販機で缶コーヒーを買って飲んだ。美味かった(笑)。

ホテルに戻り二人で土産を買いあさった。ここぞとばかりに買いあさった(笑)。
地下にラーメン屋があったので、食べに行った。
ラーメンを食べながら息子が言ってきた。
「ねぇお父さん。夕方入ったお店で、女の人たちが言ってたこと覚えてる?」
「うん。大きな声で騒いでいたからね」
「あれって、よくわかんないけど、なんか間違ってるような気がするんだよね」
「間違ってるって?」
「カッコイイとか悪いとか。そんなんじゃないような気がするんだよね」
「まぁ考えは人それぞれだからね。その話はこの旅行が終わったら話そうか」

と言いつつも、「よくぞ気づいた!」と言いたかった(笑)。

明日は最終日。吉田松陰を訪ねる。


萩へ・・・その3

2007年12月17日 23時51分55秒 | Weblog
萩市内の細い道を歩いた。
いかにも古くからの城下町を感じる。
途中「鍵曲(かいまがり)」と呼ばれる、今で言う「クランク」を通った。
「これが『かいまがり』かぁ・・・。将に武家屋敷群の真ん中にふさわしい道だ」
などと妙~に感心しながら歩くと、「土塀」があった。
粘土質の土と瓦を交互に積み重ねてある塀だった。
これもまた、少なくとも江戸時代以前からのものと推測した。

たまらん! 気分はもう江戸幕末だった。
「高杉晋作もこの道を歩き、この土塀に間違いなく触れたんだろうなぁ」と言うと。
何を思ったのか、息子は突然鍵曲を数往復し、土塀にやたら触れ始めた(笑)。
そして「お父さん。ここに瓦の破片が落ちてるよ」と。
そう、土塀の一部である瓦の破片が落ちていたのだった。
その破片がその後どうなったのかはご想像にお任せします(笑)。
確か息子の部屋の本棚で以前見かけたような・・・あっ、勘違いかなぁ(汗)。

いよいよ「高杉晋作生家」に着いた。
心が躍る。
庭には、産湯に使った井戸や鎮守堂があった。
少年時代の手紙や愛用の茶入れなどもあった。
そして私のお目当てであった、ここでしか購入できない書籍類をどっさりと買いあさったのだ!(満足)

木戸孝允邸、明倫館跡、長井雅楽旧宅、山県有朋誕生地など、魅力たっぷりのものが、この狭い城下にはあった。

昼食を済ませ、「藍場川」沿いに歩いた。
江戸中期に造られた風情ある生活用水路である。錦鯉も数多く泳いでいた。
道ばたに腰を下ろし、思い切って藍場川の水に足を入れてみた。
まだかなり冷たかったが、朝から歩き通しの足には気持ちの良い冷たさだった。
そして市の南部を流れる「橋本川」沿いを歩いた。
桜並木が延々と続いていた。遠くには指月山も見える。
穏やかな春の日差しの中、桜吹雪が舞い、花にうもれた道を歩く。
これはちょっとやそっとじゃ味わえない贅沢な気分だ。

萩へ・・・その2

2007年12月11日 22時35分56秒 | Weblog
東萩駅に到着したのは、夜の7時は過ぎていた。
外は暗闇だったが、いい歳して心はときめいていた(笑)。
ホテルに着き、早速夕食を。
酒はあまりいける方ではないが、せっかくなので地酒を少々頂いた。
息子が酌をしてくれた。ちょっと照れたが初めてのことで嬉しかった。
食後、息子はホテルにある土産売り場へ直行。
さすがは萩。幕末を彷彿させるグッズが目白押しだ。私の方が欲しくてたまらない物ばかりだったが、まぁ2泊の予定なので、今夜は見るだけでお互いがまんした。

部屋に戻り、今日訪れた場所や明日の予定を話し合った。そして何よりも、幕末当時の日本の情勢。揺れ動く萩の内政と動向。教科書には出てこない歴史のアウトサイダー達について話をしてあげた。
おそらく息子にこんな話をしたのは初めてのことだろう。

2日目。晴天に恵まれた。
街中のいたる所に桜が咲いている。
初めに、ホテルからあるいて数分にある「野山獄跡」へ行った。
そう、吉田松陰が囚われの身としてここに居たのである。

せっかくなので市内を循環しているバスに乗った。
西回りバスの「晋作くん号」である。ちなみに東回りは「松蔭先生号」だ(笑)。
萩城跡入り口で下車し、「指月公園」へ向かった。桜がきれいである。
城跡を散策しながら「ここにあった城の中で、高杉晋作や木戸孝允も殿様と一緒になって四境戦争の対策を練っていたんだぞ」などと偉そうに講釈をした。

お堀をバックに写真を撮った。
自動シャッターにセット。シャッターが切れる直前、ふいに後ろから息子を抱きしめた。
というより、おふざけで羽交い締めに。
本当は抱きしめたかった。
1700グラムにも満たない未熟児で生を受け、よくここまで育ってくれたと。
サッカーが大好きで、市の選抜選手にも選ばれた。
親バカとわかっていながらも嬉しかった。
だが、もう中学生になる。たとえ戯れの抱きしめでも「やめろよぉ」と言ってくる年齢だ。
羽交い締めは、父親としてできる最後の、そして精一杯の照れ隠しのスキンシップだった。

萩へ・・・その1

2007年12月10日 00時59分42秒 | Weblog
長男が生まれた翌日、私はある計画を思いついた。
(「この子が大きくなって、私の言うことがわかってくれる年齢になったら、萩へ連れて行こう。萩へ行き、多くの史蹟を見せて話を聞かせてやりたい。」)と。

それから12年の歳月が流れ、小学校を卒業した平成15年の春。
息子を連れ、二人で下関と萩を訪れた。
あいにくの雨だったが、暖かな春の雨だった。
宇部空港へ着き、バスで一路下関へ。息子以上に胸が高鳴っていた(笑)。

途中下車し、先ずは「功山寺」を目指した。
そう、あの高杉晋作が維新回転のクーデターを起こすために挙兵した場所。
かつて「8・18の政変」で「七卿落ち」と言われ、軟禁状態だった公家の前で「今から長州男児の肝っ玉をお見せいたします」と言った寺である。

桜咲く庭の片隅に、目指すそれはあった。
高杉晋作の騎馬像。
真一文字の口。死を覚悟しての出陣の姿だ。
そしてバスを乗り継ぎ「東行庵」へ向かった。

正直、へんぴな所である。みやげもの屋が2軒あるだけ。
店に入り昼食を食べた。
せっかくなので「晋作うどん」を注文した。
高杉晋作が梅の花が好きだったことから、梅の花の形をした蒲鉾がのせてあるだけのものだが、味は西国風で関東とは違った美味さがあった。

事情を話すと、店の人は快く荷物を預かってくれた。
その事情とは・・・・・。

店から歩いて数分。小高い丘の上に登った。
奇兵隊士、もののふの墓標が数多くある中、何故か迷うことなく「東行庵」、即ち「高杉晋作」の墓に着くことができた。
遂に来たんだ。
12年前この子が生まれた翌日、一緒にここへ来ようと決め、いろんな話をしてあげようと。
息子と二人、線香と花をたむけた。
合掌し、心の中でつぶやいた。12年間心の中にためておいた想いを彼に話した。
そして息子にも。
どれだけわかってもらえたのかはわからないまでも、神妙な顔をして話を聞いてくれた。
今はわからなくてもいい。もう少し大きくなって、今日話したことを思い出してほしい。そして「これからどう生きるべきか」を考えてくれたらそれでいい。

周囲には、司馬良太郎氏が残した記念碑や、高杉晋作の辞世の句「おもしろき こともなき世を・・・」など、多くの石碑があった。
特に目を惹いたのは、伊藤博文が後に言ったあの名言「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し・・・」を記した碑文だった。
実はこの碑文がここにあるとは知らなかったのである。感動であった。
だが、更なる感動の出会い(発見)が萩で待っていようとは、この時は知るよしもなかった。

店に戻り、息子はいろいろと土産を買った。
高杉はもちろんのこと、「奇兵隊士」の古写真のポスターまでも買っていた。
あの時の嬉しそうな表情は今も忘れていない。
もちろん現在も、そのポスターは息子の部屋に飾ってあるようだ(笑)。

店の方にタクシーを呼んでもらい、近くの駅まで向かった。
そこから一気に山口県、いや、敢えて「長州」と書こう。
長州を縦断し、今夜の宿である「萩」へ向かった。


*写真は、高杉晋作の墓の前で合掌している息子です。今見ると実に幼いなぁ(笑)。

幕末への旅

2007年12月09日 15時03分16秒 | Weblog
仕事柄「幕末明治維新」に興味や関心がある。
学生時代から20年以上かけて、全国のその時期の史蹟関係をまわってきた。
列車に乗り。バイクでツーリングを兼ね。あるいは車で出かけた。

約2000年間に渡る日本の歴史の中で、わずか数十年の間にこれだけ時代のうねりが凝縮された時期はないのではなかろうか・・・。
歴史の書籍にはまったく出てこない一般の人々。つまり、時代のうねりに流されてしまった無辜の民までもが、勤王か左幕かに大きく二分された。否、されてしまった訳である。
歴史とはなんとも無惨なものであろう。

さて、我が家の息子が中学に入る頃から、二人で幕末明治維新巡りの旅に出かけた。
現在は高2で、理系に進んでいるが、私の影響で歴史にも興味をもってくれた。
このブログで、これからその時の話をおもしろおかしく(時に真面目に)綴ってみたいと思う。

海とせんたく物とおにぎり

2007年12月04日 00時16分00秒 | Weblog
残された時間が少ないことはわかっていた。
列車の本数が少ないことも知っていた。
なのに列車を一本見送ってまで写真を撮った。

数人の地元の人たちが、ホームのベンチで思い思いの格好で列車を待っている。
お婆さんは端に座り、少しうなだれている。
ある人は海を見つめている。
そしてある人は横を向いて本を読んでいる。
ちょっと離れた位置でファインダーを覗いてみた。
ゾクッとした・・・「これだっ!!!」
誰一人としてポーズなどとっていない。カメラなど意識していない(気付いていない)。
撮りまくった。こんな偶然はそうあるもんじゃない。
瀬戸内と空の青。ホームとベンチ。そして列車を待つ人たち。
素人にしては傑作が撮れたと嬉しかった。

のどの渇きがひどいことを思い出した。
誰もいない駅舎を通り抜け、数件しかない民家の前にある自販機でジュースを買った。
腹も空いてきた。
「お兄さん、どこから来たの?」
振り向くと、おばさんが洗濯物を干していた。しかも、駅の敷地と道路とを隔てるための金網のフェンスにである。
なんて絵になる風景なんだと思ったが、洗濯物を写真に納めるのは失礼だ。
「はい、栃木から来ました。」
「栃木って遠いんだろうねぇ。」
「そうですね。東京からまだ先ですから。」
「あのぉ、この辺で食事ができる店ってありますか?」
「ないない。車があれば別だけどねぇ。」
そんな会話をしながら、ほんの10秒程度歩いてホームのベンチに戻った。

しばらくして。
「お兄さん。よかったらこれ食べて。」
さっきのおばさんだった。
皿の上におにぎりが3つ。そして麦茶を持ってきてくれた。
ありがたかった。どうしようもなく嬉しかった。
二人でベンチに座り、海を眺めながらおにぎりを食べた。
冷えた麦茶が日本の夏を感じさせてくれた。
自己紹介をし、何故ここに来たのかなど、帰りの列車が来るまで話をした。
せっかくだからと思い、無理を言っておばさんと記念写真を撮った。

もう列車が来る。否、来てしまう。
おばさんにお礼を言いホームに立った。
今度は自分が列車に乗り、旅人に戻る番だ。

おばさんが見送ってくれた。
列車に乗り込む。ドアが閉まる。
「あっ、これって?!」
そう。昨夜東京駅で自分が見たあの光景と同じじゃないか。

でも今度は手が届くんだ。
思わず窓を開け手を伸ばし叫んだ。
「おばさんおにぎりありがとう! 美味かったよ!おばさん元気でねぇ!」
おばさんは照れながらも握手をしてくれた。
「よかったらまたおいでね。何にもないけど、海だけはきれいだから。」

少しずつ、手を振るおばさんが小さくなっていく。
あの屋根のあるベンチと一緒に小さくなっていく。
だめだ・・・不覚にも涙が出てしまった。

旅とは、ひとり旅とは不思議な生き物である。
誰もが知っている有名な観光地なんかじゃなくて。
誰もが美味しいと言う豪華な食事なんかじゃなくて。
自分で作る予測不可能なストーリーがある。

「おばさんが作ってくれたおにぎり、本当に美味かったよ!」

*ちなみに上の写真は、後ろ姿の私です♪

ホームにて

2007年12月01日 13時46分11秒 | Weblog
「ホームにて」
この写真は、下灘駅のホームにぽつんとあるベンチに座り撮影したもの。
さえぎるものが何もない、青一色の世界なのである。

ここにいる時間は、3時間程度しか許されない。
なのに1時間近くはベンチに座り、あるいは寝そべり、あるいはあぐらをかいてこの風景を見ていた。
無人の小さな駅舎。ホームが1本。そしてそのホームには屋根の付いたベンチ。
あとはこの世界がひろがっている。

暑かった。のどがどうしようもなく乾いた。
でも体から流れ出る汗を潮風にさらしたかった。
列車を一本乗り過ごすだけの意味はあると思えた。

こんな贅沢な時の流れ、今まで感じたことがあっただろうか・・・。

「ここって、観光地じゃないんだよな」
何度も思った。
できることなら、今夜はここで野宿をしたかった。


続々 拝啓。僕はいま、日本のどこかにいます。

2007年12月01日 01時56分25秒 | Weblog
昨夜はあまり眠れなかったためか、松山までの約3時間はウトウトしてしまった。
幸い松山は終点、乗り過ごすこともない。
だが、ここが貧乏性のかなしさ。
せっかくのひとり旅。初めて乗る予讃線。何か感動する風景があるかも知れない。
車窓からの風景を目に焼き付けておきたかった。
ウトウト・・・「おっと見ておかなけりゃダメだ」(笑)。
3時間もの間、ずっとこの繰り返しだった。(おばかだねぇ)

10:30頃に松山駅に到着。
ここまで約12時間。飛行機だったらあっという間だが、まぁ時間をかけてのひとり旅ってのもいいものだ。時間をかけてこそ、今まで見えなかったものが見えてくる。いろんな想いがかけめぐる。そして心に残るものだ。

昼食には中途半端な時間だったが、やはりうどんが食べたくなった。
性懲りもなく、駅での立ち食いうどんを食べた。
今度は、夏ならではの「冷やしぶっかけ」というやつ。
これがまた美味いんだな♪

カメラ機材の入った重いバックを肩に掛け、駅周辺を歩いた。
何故なら目的の「下灘駅」へ向かう列車は日に数本しかない。
乗り換え時間はたっぷりとあった。

余談だが、見知らぬ街を歩くことが好きだ。
誰一人として知っている人はいない。
ありきたりの商店街や自然の風景が、この上もなく新鮮でならない。
学生時代、大分からフェリーに乗り、初めて四国の地を踏んだ時。
その第一歩、つまりは自分の足を写真に撮ったことがあった。
そこからヒッチハイクで高知まで行ったっけ。

いよいよローカル線に乗車。
意図的に進行方向に向かって右側の席に座った。
そう、瀬戸内の海岸線を走るからだ。
「美しい」というシンプルな形容詞が、これほどまでに当てはまる車窓は、そうはないだろう。
海岸線沿いに住んでいる人たちには、毎日見る何でもない風景であってもだ。

おだやかな海、夏の太陽、遠くには大小いくつもの船舶が見える。
そして向かいの席には、土地のお婆さんが二人。
伊予弁とでも言えば良いのか、土地の言葉で日常会話を交わしていた。
こんな雰囲気がたまらなく好きだ。

列車は海岸線をゆっくりと走る。
「次は下灘。下灘でございます。」
空席ばかりの車内にアナウンスが響いた。
胸がときめいた。
4年前に見たあのポスターの駅が近づいている。
本当にあの駅なのか・・・。
今でもあの時のままなのだろうか・・・。

列車が停車し、ホームに降りた。
小さな無人の駅舎があった。
そしてゆっくりと、そう、本当にゆっくりと振り返った。
何分くらい立ったままでいただろう。
青一色の世界を見つめていた。

「拝啓。僕はいま、日本のどこかにいます。」
その言葉の意味がやっとわかったような気がした。