ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

長岡へのひとり旅:慈眼寺

2018年03月22日 23時45分05秒 | Weblog
バス停に行くと、駅前であったこともあってか多くの人がいた。
「慈眼寺」に最も近いバス停を確認するため降車するバス停を尋ねたが、事前に調べておいた通りでありホッとした。

10分足らずで到着。
何となく見覚えのある街並みだったが、あの時は真夏の小千谷である。
今は冬の真っ只中、道路や歩道、そして家々の端には雪かきの跡があった。
慈眼寺の前まできたが、はて・・・。


どこから入ればよいのやら入り口が分からない。
足跡もない、はて自分はどうすればいいのか・・・。

よく見ると門の上になにやら書いてあった。

答えになっていない。
だから一体どこから入ればいいのか分からない。


史跡を示す石柱があったが、「だからどこなんだ入り口は・・・」
しばらくあっちっこちとうろうろしていると、通りがかった人がお寺の入り口を教えてくれた。
何のことはない、すぐ横がそうだった(笑)。

階段を上がり、社務所と思える玄関についた。
チャイムを鳴らすとすぐにお寺の方が来てくれた。
見学は無料で、好きなだけご自由にどうぞということだった。


ここが「会見の間」。
詳細は省くが、長岡藩家老「河井継之助」と新政府軍軍監「岩村精一郎」がこの部屋で会ったが交渉は断裂した。
これにより、武装中立を唱えていた長岡藩だったが一気に戊辰戦争の渦中へと進むことになってしまった。


部屋の片隅に「芳名帳」とでも言えばよいのか、見学者に来た人たちの名前と住所が記されたノートがあった。
たいぶ前のノートには自分の名前もあった。


お寺の方に撮っていただいた写真。

じっくりと見学を終え、社務所に戻りお願いしておいた御朱印帳を受け取った。
なかなか話し好きの方で「どこから?」「なんでまたこんな季節に?」「歴史が好きなんですか?」などいろいろと尋ねられた。
時間はたっぷりとあり、お茶を頂きながら歴史の話で盛り上がった。

丁重に御礼を言い、慈眼寺を後にした。
再びバスに乗り小千谷駅まで戻ろう。

長岡へのひとり旅:小千谷へ

2018年03月21日 01時00分02秒 | Weblog
目が覚めて真っ先にカーテンを開けた。
「ふぅ~・・・すごいな」
小さく呟いた。

着替えを済ませ朝食を食べに行ったが、食べながら窓の外を見ても不安がつのってくる。
「列車は果たしてどうかな・・・」
予定している時刻に合わせ駅に着いたが、予想通り在来線には遅れが出ているとのことであった。


駅の二階から見た雪国の市街地。
自分の住んでいるところでは考えられない風景だった。

駅員さんに確認したところ、30分から40分ほどの遅れらしい。
思ったほどではなかったので安心しホームへと歩いた。


上越線のホームに向かう途中に暖房の効いた待合室があり、その中で多くの人たちが列車を待っていた。
「遅れがあるんだから何も慌てることはないか。俺もここで待っててもいいんだな」
そうも思ったのだが、何故か雪景色の駅のホームが見たくて仕方がなかった。


雪国の駅のホーム。
やはり絵になる風景だと思った。
ここに住む人たちや仕事で列車を利用する人たちからすれば「とんでもないことを言うな」とお叱りを頂きそうだが、つい寒さを忘れて見入ってしまう風景だった。


この列車は自分が利用する予定のものではないが、これもまた見入ってしまうものだった。

寒い・・・当たり前だが確かに寒い。
待合室に戻ろうとも思ったが、30分程度だったらどうってことはない。
ホームにある椅子はすべて濡れてしまっていたため座ることはやめ、ずっと立ったままで遅れている列車を待った。

やっと案内のアナウンスがあり列車がホームに入ってきた。
たった一泊の長岡だったが充実した歴史探訪のひとり旅をさせてもらった。
小千谷まではそう長い時間乗車することはないのだが、車窓から見た空の色は徐々に変わってきていた。
そして小千谷に着く頃には雪は止み、僅かながら青空が覗いていることに気付いた。


小千谷駅前から見た空。

ここからバスに乗り目的地近くまで行く。
「慈眼寺」に行くのは何年振りのことだろうか。

長岡へのひとり旅:一晩中雪

2018年03月18日 00時08分50秒 | Weblog
記念館を後にし、駅方面へと向かった。
雪は今日一日の中で最も激しく降っていた。
そしてかなりの大粒だった。

途中長岡城跡に立ち寄ったが、城跡と言っても城そのものの形跡は全くない。


およそ150年前にこの場で起きていた北越戊辰戦争の名残は分からない。
長岡城攻防戦により長岡中心街は焼け、多くの人たちが住む家を無くした。
もちろん亡くなられた人たちも大勢いたであろう。
それ故に、長岡を戦(いくさ)に巻き込んだ張本人は河井継之助だということになった。

彼をその時代の偉人と捉えるのか、それともある意味犯罪者的に捉えるのか。
これは現代に至っても意見は真っ二つに分かれていることを先ほどお会いすることができた著者の方から聞くことができた。
記念館を設立する時でさへ、意見は分かれたそうである。

自分は単に歴史好きなだけであり、河井継之助というあの時代の人物を住民の観点から見ることはない。
ただ、150年も前の出来事が今のこの時代になっても尾を引いている事実は、この土地の人でなければ分からないのだろう。


買い物やサラリーマン風の人たちとすれ違う。
よく見れば、その殆どの人たちの靴は長めのブーツか長靴だった。
自分が履いてきたミドルカットの靴でさへ短いと言える。
冬になれば当たり前の光景であり、安全安心のための生活の知恵であるのだろう。


駅前に来た。
お土産の購入は明日でも良かったのだが、少し時間があったため立ち寄ることにした。

ホテルにチェックインし、部屋の窓から外を眺めた。
もの凄い降雪で明日の帰りが不安になってきた。

そう言えば降りしきる雪を見て、嬉しいとか、風情を感じ取るとか、風流な想いに駆られるとかいったことはいつの間にか無くなってしまっている自分に気付いた。
雪山に登り始めてもうだいぶ経つが、常に不安な思いばかりだ。
登れるだろうか、下山できるだろうか、正しいルートはこっちでいいのか、指先がちぎれるほど痛い。
そして今は明日の帰りがどうなってしまうのか。
在来線(鈍行列車)だけを乗り継いで帰る予定だが、列車のダイヤの乱れがどれ程のものなのか分からない。
「小千谷に寄れるかどうか・・・」
そんな独り言が出た。

予報では一晩中雪のようだった。

長岡へのひとり旅:河井継之助記念館

2018年03月15日 20時25分24秒 | Weblog
降りしきる雪の中を駅方面に向けて歩き続けた。
途中簡単に昼食を済ませ向かった先は「河井継之助記念館」で、今回の旅のメインとなる見学先である。


小さな建物ではあるが、中には数人の見学者が来館していた。
様々な展示物があったが、ここに来た最大の理由は書籍の購入だ。
地方に来なければなかなか手に入らない歴史書がある。
この記念館にも必ずそれはあると思っていた。

先ずは一通り見学を済ませ、写真も撮らせていただいた。
「肖像権」とかがあるらしく、すべてのものを撮ることはできなかったが、受付の方が「これなら・・・」と言ってくださったのがこの写真だ。


ガトリングガン(ガトリング砲)の模倣品。
北越戊辰戦争において継之助が自ら敵に向かって撃った、所謂マシンガンの元祖である。


家紋の旗印。
五軒梯子や牧野家の家紋など。


おそらくは等身大と思われる継之助。
注目すべき点は右手に持った望遠鏡と足下の靴。
戦闘指揮者であれば、敵の陣形などを把握するのに必要な望遠鏡を持っていることは分かる。
しかし、それ以上に驚いたのは履いていたのが草鞋などではなく「ブーツ」であるということだろう。

幕末当時、ブーツを履いていた有名人と言えば誰もが知っているであろう坂本龍馬だ。
そして土方歳三くらいであろう。
動きやすく、しかも自分の足を守ってくれるブーツが如何に実戦向きであるかを理解してのことだろうと推測した。

帰り際に書籍を数冊購入したが、偶然にもこの日、自分が購入した本の著者が来館しているとのことであった。
「よろしければ記念にその方の名前を書いてもらったらどうですか?」
これはラッキーと思い「是非」の一言。
応接室に通され、著者の方とお会いすることができた。
サインをしていただき、それで終わりかと思いきや、どのような理由でこの記念館まで来られたのかなど、プライベートなことを尋ねられた。
嘗ては仕事もその理由の一つであったが、今は趣味のようなものであることを話し、珈琲まで頂いてしまった。
恐縮の至りであった。

丁重に御礼を言い、記念館を後にした。
外に出てみると雪は一層本降りとなっていた。

長岡へのひとり旅:栄涼寺

2018年03月11日 18時34分45秒 | Weblog
長岡駅から徒歩で約15分ほどの所にある「栄涼寺」。
以前一度だけ訪れたことのあるお寺ではあったが、記憶は今ひとつ曖昧だった。

傘をさしてほぼ線路に沿った道を歩いた。
前回はバイクだったこともあり、周りの建物や景色はあまり記憶にないが、今回はゆっくりと街並みを確かめるようにしながら歩いた。

お寺はすぐに分かった。
境内に入り一応おことわりを一言入れてから墓所へと進んだが、なにぶん雪が深く思うように歩けなかった。
「今日はこんな所ばっかりだな(笑)」
そう思いながらも足取りはいたって軽い。
何故なら気ままなひとり旅で、しかも歴史探訪だ。
それなりにテンションは上がっている。


長岡藩主牧野家の墓所。

幕末の藩主であった「牧野忠雅」は、歴史上そう大きく取り上げられることのない人物ではあるが、なかなか先賢の目があり、人を見る目も持っていたと思える。
頭でっかちで保守派だらけの藩内にあって、まだ身分の低かった継之助の藩政改革論に注目したというだけでも、あの時代においては聡明な藩主ではないだろうか。


河井家、そして継之助の墓所。


途中で購入しておいた線香に火を灯し、暫し佇んで両手を合わせた。
この後予定している「河井継之助記念館」へ向かうその前にここへ来たのには訳があった。
降雪状況が厳しくなってきていることも理由の一つだが、自分なりに彼の人となりは知っているつもりであり、北越戊辰戦争についてもそこそこ本を読んでいる。
「先ずは慰霊を」と考えての行動だった。

栄涼寺に向かう時は駅の東側の細い道を歩いてきたが、帰りは西側の大きな通りを駅方面へと向かった。

まだ少し駅から離れていることもあってか、大きなビルなどはないが旧商店街っぽい感じの通りに出た。
するとすぐ目に入ってきたのがアーケードと言えばよいのか分からないが、雪よけの為の屋根だった。


木製のもので、やや歴史を感じる作りとなっていた。
これもまた雪国ならではのものであろう。

雪は更に激しく降り注ぐようになってきた。
明日の帰りがちょっと心配になった。

長岡へのひとり旅:持ってきて良かった!

2018年03月10日 20時59分46秒 | Weblog
雪国に雪が降る。
この当たり前のことがどこか非日常的に感じてならなかった。

参道を奥へと進むと社務所が見えた。
持ってきた御朱印帳を渡し一筆お願いした。
待っている間にも大粒の牡丹雪が舞っている。
河井継之助の記念碑の場所を尋ねると、歩いても10分足らずなのだそうだが、足下を心配してくれていた。
「その靴ではちょと・・・」
と言われたが、防水であることとスパッツを持参してきていることを伝えると「それなら大丈夫でしょう」と言ってくれた。

社務所から公園方面へと進むと、おそらくは芝生の広場なのであろうと推測できる場所へと来た。


一面の雪景色・・・人は誰もいない。
途中にあった公衆トイレは施錠されており、冬期は使用できない状態だった。
「凍結防止のためなんだろうなぁ」
自分の住んでいる所ではおよそ考えられないことだが、ここでは当たり前のことなのだろう。


やっと来ることができた。
前回長岡を訪れた時には時間の都合で来ることができなかった場所だ。


自分にとっては分かりきったことだったが、河井継之助の生涯が簡略的に説明されていた。

彼のことは小説や歴史書でのみしか知らない。
初めて読んだのは司馬遼太郎の「峠」という小説だった。
中身に惹かれて読んだのではなく、表紙の挿絵に惹かれて購入した。
ごくシンプルな挿絵ではあったが、雪深い山奥の峠を描いたものだった。

ここから再び社務所方面へと戻り、招魂碑や慰霊碑を見た。

長岡藩主「牧野家」のもの。
墓所は市内のお寺に移されたとのことであり、この日の午後にその寺を訪ねた。


北越戊辰戦争において戦い亡くなられた藩兵の墓所。
奥まで行ってみたがかなりの積雪となっており、スパッツの長さを上回るほど雪に埋もれた。


一人一人は名も無き藩兵かも知れないが、これはつい150年前に起きた戦史におけるまぎれもない事実なのだ。
かじかむ手をこすり合わせながら、すべての墓標に刻まれた名前を見て回った。
さすがに足が冷たくなってきた。
いくら防水とは言えジーンズは雪山仕様ではない。

誰一人とすれ違うことの無かった悠久山だったが訪れて良かった。
久しぶりに戊辰戦争の歴史に触れることができたことが嬉しい。


営業所まで戻り、待合室の中でバスの出発を待った。
ありがたいことに待合室の中は暖房が効いていた。
出発までの間、今日と明日の天気予報を確認したが、やはり長岡方面の降雪確立は高く、交通の乱れが予測できた。
帰りは新幹線は利用せず、鈍行を乗り継いで帰る予定だ。
明日は小千谷に寄る予定だが、普通列車が予定時刻通りに発車できるとは限らない。
場合によっては新幹線利用となるかも知れない。

長岡へのひとり旅:雪国

2018年03月07日 23時17分44秒 | Weblog
もう10年くらいまえになろうか。
嘗てバイクのひとり旅(ツーリング)で、長岡へ来たことがあった。
あの時は真夏のうだるような熱さの中、長岡の街中を走った。
写真をあまり残しておかなかったこともあり、記憶もどことなく曖昧なまま今日に至っている。

長岡駅に到着し、先ずは駅構内にある観光案内所へと向かった。
駅の大きさの割りにはあまりにもこぢんまりとした小さな観光案内所であったが、自分の目的に合わせて懇切丁寧に説明をしてくれた。
一つだけ残念であったのは、目的地の一つである「北越戊辰戦争伝承館」が冬期は営業していないとのことであった。
事前にネットで調べてきたつもりであったが、これは明らかに自分のミスである。
「はて、時間が余ってしまった。どうしたものか・・・」
少々悩んだが、実はできることなら行ってみたい場所がもう一つだけあった。
「悠久山公園」にある戊辰戦争の記念碑巡りだ。

しかし駅からはかなり距離があり、バスにせよどうやって行けば良いのか分からなかったポイントである。
「タクシーじゃ金もかかかるし・・・」
そう思い相談してみたところ、案内所の方がバスでの行き方を教えてくれた。
ついでにこの案内所でしか入手できない地元の観光パンフレットも頂いた。

メインストリートとは反対側のバス停を目指し駅を出た。

雪が舞っている。

降雪地帯を歩くことを考慮し、足下の対策は練ってきていた。
観光案内所の方は、悠久山公園に行くにはこの靴じゃ厳しいですねと言っていたが、ミドルカットの軽登山靴(防水)、ゲーター、傘の三種の神器があれば十分であると思う。

バスに乗り20分ほどで目的地のバス停に着いた。
終点でもあり、バスの営業所でもあるここからまた更に歩くことになる。
帰りのバスの時刻を調べておき、それに間に合うようにしたい。


自分の住んでいる市でも降雪があればこんな感じの歩道を歩くことはあるが、長岡では冬の間は毎日がこんな風景なのだろう。


時々こんなポイントに遭遇した。
専門用語は分からないが、おそらくはスリップ防止のための融雪装置であろう。
雪国ならではのものであり、物珍しさもあってしばらくこの装置を見ていた。
地元の方々から見れば「何であんな所で突っ立ているのかねぇ?」と思われそうだ(笑)。

頂いた地図を基に歩いて行くと、蒼柴神社へ向かう参道らしきポイントへと来た。
「参ったなぁ・・・雪でルートが分からない。」
そうなのである。
歩道、水田、空き地、参道など、すべてが雪に覆われておりルートの確証が持てないのだ。
「こりゃ山と同じかな(笑)」
そんなことを思いながら、おそらくはこれが参道だろうと思える道を神社方面へと歩き出した。


トレースが一つもない。
そりゃそうだろう、こんな雪の降る平日に訪れる方が不思議だ。

くるぶし以上に雪に埋もれながら参道を進むと、地図に載っている石碑の前へと着いた。

「長岡藩刀隊・槍隊の碑」


「戊辰槍隊戦没諸公碑」

この悠久山一帯は、幕末の北越戊辰戦争で亡くなった多くの方々の慰霊の山でもあるのだ。

それにしてもよく降る雪だ。
歩き始めの頃よりも雪が大きくなってきたような気がした。
明らかに牡丹雪になってきている。


さらに奥へと参道を進むが、牡丹雪が行く手を阻んでいるかのようだ。

冬に旅(観光)にでかけるにはいろいろな制限があることは分かっていたが、それでも一人であるからこそどうにでもできる、どうにかなるものだ。
「どうにもならない」のは雪山であり、旅であれば一人だからこそ制限されていることを逆に楽しむこともできる。
要は「気の持ち方次第」なのかも知れない。

神社の参道、牡丹雪。
絵になるね!



長岡へのひとり旅:久しぶりのひとり旅

2018年03月05日 20時55分27秒 | Weblog
ひとり旅に出かけるのは何年振りのことだろうか。
たぶん5~6年振りになると思う。

ふと思いつきで出かけたわけではなく、休暇になれば山に出かけてばかりで「旅」に出てみたいとは常々考えていた。
今回二日間の休みがあり、以前から行ってみたかった新潟(長岡)へと出かけることにした。
目的は二つ。
一つ目は北越戊辰戦争に関する史跡や資料館巡り。
もう一つは車窓からの雪景色を見ること。
「何で今更雪景色? 嫌ってくらい雪山で見てるでしょ。」 と、女房から言われたが、車窓から見る雪景色はまた別物だ。
何よりものんびりとできるしね。

1月10日のまだ日が昇らない早朝に家を出発した。
5時を過ぎたばかりの列車に乗り、先ずは小山駅へと向かった。

吐く息が白い。
寒さ対策は十分にしてきたつもりであったが、登山と旅とでは衣服に違いもあり、ましてや体を動かすことのない今回では体内からの発熱は期待できない。
「う~さっみぃー」
思わず独り言が出てしまった。

小山駅まではたった一駅で、すぐに両毛線へと乗り換えなければならない。
実を言えば両毛線に乗車するのは初めてであり、ちょっと嬉しくもあった。

さすがに人影は少なく、ひっそりとしたホームだった。
ここから群馬県の高崎駅までの約2時間はゆっくりとできる。
終点までの乗車だし、眠ってしまっても心配はない。

列車がスタートした。
まばらな車内に車掌のアナウンスが響く。
帽子を深く被り直し目を閉じた。
ウトウトとしていながらも、駅に着く度に近くのドアが開けば冷え切った外気が一気に車内に入ってくる。
嫌でも眠気が取れ「ん? どこの駅だ・・・」と思う。
しばらくはずっとこの繰り返しだったが、やがて日が昇り眩しさを感じるようになってきた。
そして通勤や通学の人たちで、車内はいつのまにか混雑し始めていた。

8時前に高崎駅に到着。
高崎は何度も来てはいるが、駅そのものは初めてだ。
上越新幹線への乗り換えまで時間があるため、駅周辺を散策することにした。
とは言っても一歩駅を出てみればすぐに目についたポイントがあった。

「う~さっみぃー」
今日はこれで何度同じ言葉を言っただろうか(笑い)。

駅へと戻り暖房の効いた待合室へと入った。
持ち帰りのブレンド珈琲を買い、椅子に座った。
一目でビジネスマンと分かる人。
大きな土産物の紙袋を横に置いている人。
小さな子供を連れているお母さん。
それぞれの目的があって、それぞれの人たちが自分と同じ空間にいる。
久しぶりに感じた「旅」の感覚だった。

さて、腹も空いた。
まだ朝食を食べていないが、何にするのかは決めていた。
高崎駅名物の「だるま弁当」だ。
嬉しいことに購入した店にはレンジがあり、駅弁を温めることができた。

「だるま弁当」
これには懐かしい思い出がある。
大学時代の夏合宿の時に必ず食べたのがこの駅弁だった。
上野駅から列車に乗り、途中の高崎駅で購入した。
ホームへと降り、駆け足で弁当の販売所まで行き人数分を買うのが1年生の役目だった。
そして長野駅で降り、そこでは信州そばで昼食だった。

「だるま弁当かぁ・・・あの時以来だな。」
箱の外見を見て「あれっ、こんな感じだったかな?」と思いながらも懐かしさで一杯だった。

上越新幹線に乗車。

この路線に乗るのも30年振りだろうか。
新婚当時、初めての冬に女房と二人でスキーに出かけた時に利用して以来かも知れない。

家を出発してからもう4時間以上が経っている。
さすがに空腹だった。

「おぉ~夏合宿以来のだるま弁当だ♪」
やっぱり旅には駅弁がよく似合う。
味の好みは人それぞれだが、ある意味旅の駅弁は雰囲気で味わうものかも知れない。


中身がどのようになっていたのかなど全く記憶にはなかったが、思い出の駅弁を食した。
いい歳をしてワクワクするような思いに駆られた。
「今日は山じゃないんだ。緊張するような感覚は必要ない。ゆったりのんびり気ままに過ごすことができる。食事だってゆっくりと食べることができる。たまにはいいなぁ・・・。」

車窓からの景色が徐々に変わって行くのがわかった。
空はまだ青い部分が残ってはいたが、山肌は明らかに白くなってきていた。

「今日は登山のことは忘れよう」と思ってはいても、ついつい無意識で「あの目立つ山は何て言う山なんだろう」と考えてしまっていた。

いよいよ新潟へと入ったようだ。
トンネルの数が増えてきた。
そしてトンネルを抜ける度に空の色に変化が出てきたようにも思えた。
明らかに鉛色の空へと変わって行った。

「長岡の街は雪かも・・・」
それはそれでいい。
雪国への旅であるならば、敢えて冬に出かけるのもおつなものだ。
列車の遅れはあるかも知れないが、それを分かっていて出かけたのだし、雪山ではない雪を楽しもう。

やっとシーズンイン:やっぱりPEAKはいい♪

2018年03月04日 23時32分17秒 | Weblog
幸いに風は穏やかで、ピーク付近は雪質も固くしまっていた。
おかげでアイゼンの爪が心地よく効いてくれている。


本来であれば自分たちの後ろに伸びている「オジカ沢の頭」へと続く稜線に沿って縦走し、トマ・オキの耳から先の一ノ倉岳、そして茂倉岳へと足を伸ばす予定であったが、昨夜の降雪状況を考えればあまりにも危険すぎることから、トマ・オキの耳までとした。
もったいないほどの好天ではあるが、安全登山を第一とした。


トマの耳付近から見たオキの耳。
遠く新潟方面までもが望めるポイントであり、碧い空に真っ白な雪山がこれでもかと美しく映え渡っている。


トマの耳山頂にて。
ここは写真を撮っただけで軽くスルーし、オキの耳へと向かった。


一端下るが、樹木の枝に雪と氷が付着し、まるで南海の珊瑚礁のようだった。


雪の珊瑚礁に埋もれているAM君。
本当は一ノ倉岳まで行きたいんだろうなぁと思う。(もちろん自分もだが・・・)


オキの耳付近からトマの耳をふり返ってみた。
太陽が眩しい。


オキの耳山頂にて。
一人だけ他の登山者がおりシャッターをお願いした。


でもって単独でポーズ。


自分も負けじとポーズ(笑)。

年末のこの時期、これから訪れる厳冬期と比べればまだ積雪量は少ない。
嘗て何度か厳冬期に谷川岳に来たことはあるが、いずれも深い積雪に阻まれラッセルを途中断念した覚えがある。
一度くらいは厳冬期の谷川岳に登ってみたいものだ。