ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

雲海を求めて:快適・空腹・美味♪

2011年11月30日 21時11分16秒 | Weblog


水を確保した後の最後の登攀はさすがにきつかった。
天候の悪さもあったが、ザックのショルダーハーネスが肩に食い込むのなんのって。
このときばかりは「あぁ、もうちょっと肉(クッション)が欲しいな・・・」
と思った。

15時50分、女峰山山頂直下にある「唐沢小屋」に到着。
三人とも、全身雨と汗でずぶ濡れ状態だった(笑)。
小屋には自分達の他に二人組の方達がおり、すでに食事の準備を始めていた。
小屋は20人以上は余裕で利用できるスペースがある。
土間を中心に左右に分かれて板の間があり、自分達は彼等と反対側のスペースを使用した。
三人が利用するにはかなり広いスペースで、調理や食事をするスペースと寝るためのスペースが完全に分けられるほどだ。

先ずは着替えよう。
シャツ類はもちろん、下着、ソックスまですべての衣服を替えた。
今までのじめじめべっとりから、サラサラドライへと。
たったそれだけなのだが本当に気持ちがいいね♪

時間はたっぷりとある。
初日の労をねぎらって珈琲で「お疲れ様」だ。



寒さを感じるほどの登攀ではなかったのだが、いざこうして熱い珈琲を飲めば体が温まってくるのがわかった。
やはり冷えてはいたのだ。
ここでやっと一服できた。
スタートから今まで、雨のため煙草を控えざるを得なかったのだ。

「夕食を早めに作り食べてしまおう。」ということになった。
一般的な山小屋の場合、有人無人に関係なく、消灯は21時頃。
早く食べ終えて、後は寝るだけ状態にしておき、ゆっくりと酒を飲みながら語り合おう。



今夜のメインディッシュは「サンマとごぼうの卵とじ丼」そして「洋風中華水餃子スープ」だ。
意味がよく分からないが、自分が勝手につけた名前なのでOKとしよう。

さて、ここでレシピを。
*「サンマとごぼうの卵とじ丼」1人前
・オリーブオイル:少量 ・サンマの蒲焼き(缶詰):2 ・ごぼうのささがき:適量 ・卵:1 ・塩こしょう:少々
*「洋風中華水餃子スープ」
・水 ・ふかひれ中華スープ(カップスープを利用) ・冷凍水餃子:4個 ・固形コンソメ ・ローリエ

調理方法はいたってシンプル。
なにせこの自分が一切迷わず作れたほど(笑)。
ちなみに「サンマとごぼうの卵とじ丼」は、「シェルパ斉藤のワンバーナー簡単クッキング」という、登山に最適な簡単調理が豊富に掲載されている書籍を読んでトライした。
「洋風中華水餃子スープ」は、自分が考案したオリジナルだ。
単純に中華風でよかったのだが、そこにコンソメとローリエを入れることで味にコクが生まれる。
大量の汗をかいた後だけに、この「コク」が実に美味い♪
洋風とも中華風ともとれる味なのだが、評判は高かった・・・かな。



スープ担当はビビリ君。
まぁ大丈夫だろう(笑)。



O氏はメインディッシュはカレーライスで、スープは一緒だ。
今回O氏は、できるだけシンプル且つULの調理方法を試すため、別メニューとした。

米はみんなFDとした。
お湯を入れて待っている15分間で、調理は十分に可能だった。
やっと飯にありつける喜びもさることながら、重い食材が次から次へと無くなって行くことで、明日のザックの重量が軽量化されるという現実が嬉しい。
食後の酒は缶ビールと缶酎ハイ。そして朝食の食材も含めれば、今日とは比べものにならないほどザックが軽いのは明らかだ。



できあがりはこんな具合だ。
見た目はまぁまぁかな(笑)
だが、ここからが上手く行かなかった。
シエラカップからご飯の上に移そうと何度かやってみたのだが、どうにもスライドしてくれない。
結局、フォークで少量ずつ剥がすように取り、盛りつけるほかなかった。



せっかくのいいできが、こんな風にぐしゃぐしゃになってしまった(笑)。



スープもできあがり、さぁ食べよう!





家では、ラーメン以外の調理らしい調理は一切やらない。いや、できない。
なのに山ならできる。(そんなバカな・・・)
問題は「やる気」だけだ。

今年度の自分のテーマは「調理」。
昼食は一手間。夕食なら二手間を加えようというのが自分に与えた課題だ。
できれば美味しいにこしたことはないが、味は我ながら美味かった。

腹が減っていれば何でも美味いのだ!


 

雲海を求めて:じめじめべっとり

2011年11月29日 21時20分30秒 | Weblog


次第に傾斜がきつくなる。
更にはムンムンする樹林帯の中。
でもって汗と雨。
高機能シャツ、アウターは限界を超えている。
もうこうなったら「どうにでもなれ!」ってな具合だった(笑)。


休憩は雨宿りするような場所などあるはずもない。
行動食を何とか濡らさぬようにしながら食べる。
だが、「過酷」とまでは言わないまでも、何故かこんな状況が楽しくて仕方がなかった。
そりゃぁ晴天の方がいいに決まってはいる。
なのに不思議と自分が置かれている状況を楽しむことができた。



あとどれくらい登れば「水場」だろうか。
水場にさへ着けば、そこから15分ほどの急登攀で小屋だ。



ビビリ君はちょっとお疲れモードの様で、休憩の度に座り込む様になってきた。
できれば自分もそうしたいが、立ち姿勢で休んだ方が再スタート時が楽だった。



やや雨が小降りになってきてくれた。
このまま止んでくれることを願いつつ水場へと登攀する。
おそらくこのあたりから先が最も登攀のきついルートだったような気がするのだが、今思い出しても疲れはほとんど無かった。
ザックが重いのは確かなのだが、今は楽しい。
そしてこの後小屋に入ればゆっくりと休める。
体を横たえながら珈琲を飲むこともできる。
そう思うと苦にはならなかった。

やっと「水場」へとたどり着いたのだが、再び雨が強くなってきた。
今日一番の強さではないだろうか。
であっても、何でもかんでもここで水の補給をしなければ珈琲はおろか、飯にありつけない。



チョロチョロと地下の山水が流れ出る管から、余裕をもって一人あたり4リットルずつ給水した。
まぁ12リットルもあれば相当自由に使うことが可能であるのだが、この12リットルはあくまでも原則として三人が共同で使用する水である。
それ故に明日のハイドレーションリザーバー用の水2リットル(個人用)を別のサーモフレックスパックに詰めた。
これで間違いなくザックの総重量は24㎏前後になっているはずだ。
どしゃ降りの中、ザックを開けることにややためらいはあったが、給水パックをザックの外付けにすることで、万が一パックに傷が付き貴重な水が漏れてしまっては元も子もない。
ここは手間がかかってもザックの中にすべての水を入れた。

ギアやクロージング別にスタッフバックを分け、更に全体を大きなスタッフバックに詰め込んでおいた。
ザックカバーを含めれば四重の防水システムは大袈裟かと思ったが、濡れた給水パックをそのままザックに入れても、これなら他の荷物が濡れることはない。
今日に限って言えば正解だった・・・かな。

さぁて、いざ背負ってみたが「い~よいっしょ!」ってなかけ声をかけて背負った。
さすがにずっしりとした重みを背中に感じた。
「あと15分頑張れば小屋だから。ゆっくりでいいから頑張ろう。」
ビビリ君に言いながらも、自分にも言い聞かせた言葉だった。

いやぁ重い。
おまけに急登攀だ。
いままでのペースのような訳に行くはずもなく、樹林帯の急勾配を一歩一歩進んだ。

汗と雨粒が目に中に入ってくる。
「あぁ~早く腰を下ろしたい」
今日はまだ一度も腰を下ろしてはいなかったのだ。

雲海を求めて:自信

2011年11月28日 21時15分01秒 | Weblog
9月には三連休が二度もある。
思わずニンマリしてしまう。
せめて一泊登山はしたいと考えた。
山仲間であり、元同僚のO氏と相談した。
当初の計画では、尾瀬の「燧ヶ岳」を目指すことになったのだが、悪天候になることは初めから分かっていたことであり、また、ビビリ君もいることから無理はせず県内の山で「避難小屋」を利用しての一泊登山とした。
ちょうど一年前の秋にも登った「女峰山」なのだが、そこの小屋に泊まっての登山は初めてのこと。
ちょっとワクワクしてきた。



スタート地点から初日の小屋までは、途中休憩を入れても4時間もあれば十分。
ということで朝はゆっくりと家を出て、裏男体にある「志津峠」を正午にスタートした。

初日のルートにおける難所は分かっている。樹林帯の中の約1時間半の急登攀だ。
更には、小屋到着の直前にある水場で給水をすればザックの重量は増す。
二日目は小屋からPEAKまでの急登攀を除けば、あとは大好きな縦走とひたすら下山するのみ。
以上のことから、今回は食に関しては敢えてULを無視し、「食材」にこだわった。
夕食と朝食の食材さえ無くなれば(食べてしまえば)ザックの重量は軽くなることから、缶詰類を多用。卵、各種調味料も持参。
そして自分だけでなく、ビビリ君の分も詰めた。
酒やつまみ類も含めて、たかが一泊の避難小屋利用であるにも関わらず、なんとザックの重量は約19㎏となった。
そこに給水分が加われば最大23~24㎏のザックを背負っての急登攀となる。
分かってはいたが、自信はあった。
70リットルのザックを背負い、風雨の中で別山乗越を登攀したことを思えば何のことはない。
悪天候になることも分かってはいた。
それを含めても「できる」「登れる」自信はあった。



スタートしてすぐに雨が降ってきた。徐々に雨あしは強くなってくる。
それでもスタートして1時間は比較的緩やかな登攀だ。
ビビリ君は気楽な様子だが、彼はまだこれから先の急登攀を知らない。



「馬立分岐」に到着。
ここを少し下って川を渡れば、いよいよ登攀の始まりだ。
ザックの重さをちょっとは後悔するかもしれない。

川を渡り終え、小休止を一本とった。
その時にビビリ君のザックの重さはどれ程かと思い、担がせて・・・いや、持たせてもらった。
そう、「持つ」と言った方が適切なほどの軽さだった。
「おまえなぁ、俺のザック背負ってみろよ。二人分の食材がどれだけ重いか。やっぱり若い人に背負ってもらおうか(笑)」
まぁ結局は最後まで自分が背負ってはいたが、体は驚くほど軽く感じ、きつい急登攀でもそれほど苦にならず終始先頭で登攀した。

いい感じだ。
軀は怖いくらいいい感じだ。
メンタル的にも充実している。
そうめったにはない登山向きの心身だろうか。



雨は断続的で、一向に落ち着かなかった。
だが明日は晴天の予報。自分もO氏もそれを期待している。
雨の翌日が晴天となれば、おのずと早朝の山岳風景は予測できようものだ。
今から楽しみである。
(ビビリ君は知らないだろう・・・笑)

ILLUSION

2011年11月26日 20時30分12秒 | Weblog
「栗城史多(くりきのぶかず)」という若い登山家がいる。
紆余曲折を経て、世界七大陸最高峰単独無酸素登頂を目指している。
現在はエベレストアタックに三度失敗しており、四度目に果敢に挑もうとしている。
ひょんなことから彼を知り、TV番組でも取り上げられるようになってからは録画をしてじっくり何度も観ている。

だが、彼を批判する人は多い。
「単独」の定義に反している。
「無酸素」とは8000メートルを越えてからのことであり、7000メートルでの無酸素は当たり前だ。
資金集めの実業家の方が向いているんじゃないか。
などなど・・・。
特に2チャンネルでは風当たりはかなり厳しい。
もっとも、まともな人間であれば2チャンネルに書き込むことはしないだろうが。

まぁ他人は何とでも言わせておけばいい。
チャレンジをし続けてる人間を非難することがどれほど醜いことであるかを知るがいい。
成し遂げる為にアクションを起こしている人間が素晴らしいのだ。
自分からすれば、6000メートルの氷の上に独りで立っていることだけで涙が出るほど「こいつはすげぇ」と感じてしまう。
しがらみや規則だらけの現代で、「一歩を踏み出す」為の勇気というものが、どれほど大きくどれほど過酷なものであるか。世間からは好奇の目で見られ、陰でいろいろとささやかれる。
やった者でなければわからないだろう。

こんな自分でも現実に可能な夢くらいはもっている。

*今すぐ仕事を辞めて、モンベルでバイトをしながら好きな登山を続けること。
*一か月をかけて、バイクで北海道を一周すること。
*鈍行列車と夜行列車を乗り継いで日本一周をすること。
*オーロラを観ること。
*カラコルム山脈に行き、せめて途中まででもいいから「K2」登攀をすること。
*ブンデスリーガ「1.FCケルン」の試合を思う存分観ること。

みんな勝手でわがままな欲求ばかり(笑)。
いくら金があったとしても、いくら家族の同意を得たとしても難題ばかりだなぁ。
だからこそ、彼の、栗城の座右の銘に惹かれてしまう。

The border and your limit in your illusion.

『国境や限界はあなたの幻想に過ぎない』


劔岳本編:帰宅そして感謝

2011年11月25日 21時38分59秒 | Weblog
ほろ酔い気分で眠りに入った。
が、翌朝は5時前に目が覚めた。
あっ、と思ったが、「今日はもう少し眠ってもいいんだ」
そう思い二度寝をした。
とは言っても6時に起きだし、熱いシャワーを浴びた。
朝食が美味い。体がいい感じで出来上がっており、それを維持しているだけに、まるで劔澤小屋の時のように目一杯腹に詰め込んだ。

9時過ぎにホテルをチェックアウトし、駅へと向かった。
振り返り、松本の市街地を見渡す。
これで完全に北アルプスともお別れだ。
家に帰れる嬉しさはあるのだが、やはりどこか寂しい。

帰りはちょっと贅沢に「特急あずさ」に乗車。新宿まで一直線だ。
途中、車窓から「八ヶ岳連峰」と思われる山並みが見えた。
ちょうど二年前の夏、その裾野をバイクで走った記憶が蘇る。
そして若かった頃、夏に一度、冬に二度登った山だ。

新宿駅に着きホームを歩いていると、でかいザックを背負った山男達がいた。
自分と同じ列車に乗っていたのだろう。
賑わった夏山シーズンの終わりも近い。
彼等もまた北アルプスに魅せられ、どこかの山の頂を目指した。
ただ、羨ましいかな年齢は自分より遙かに若い。
まだこれからいくらでも挑戦できるはずだ。

上野からは鈍行列車に乗車。
車中考えていたことは「昨日の今頃はどこどこにいて、一昨日の今頃はあそこにいた。」
山に登っていると、常に腕時計とにらめっこの行動であり、地図に記録しているだけにけっこう記憶に残るものなのだ。

自宅に戻る前に、どうしても寄らなければならないところがあった。
さんざんお世話になった「モンベルおやまゆうえん店」だ。
例の「岳」のチョコレートをお土産に持ち店内へ入った。
みなさん笑顔で迎えてくれた。
いつものスタッフの顔を見て、心からホッとした。
(「あぁ~帰ってきたんだなぁ・・・」)

「おかげさまで、何とか登頂することができました。本当にお世話になりました。ありがとうございます。」

本当だ。スタッフのみなさんのおかげだ。
自分一人の知識、技術だけではおそらく無理だったろう。
ありとあらゆる登山の分野から助言や指導、そして励ましを頂いた結果の成功だと言えよう。

夕方帰宅した。
真っ先に会ったのは「宗次郎」だ。
見送りも宗次郎だったっけ(笑)。
お土産を渡し、すぐに洗濯を始めた。
その間登山靴をブラシで洗った。
つま先部分の傷が増えている。そしてソールには小さな石が詰まっていた。
ひょっとして劔岳の石かも・・・。
そう思うと何故か捨てきれず、ポケットに入れ部屋へ持ち帰った。
カップやコッヘルも洗った。
ザックも浴槽で洗った。
やっと一息ついたのは夜の8時過ぎだったろうか。
ソファに座り新聞を読む。
女房が「どうだったの? 厳しかった?」
「うん。ポイント的には思っていた以上のところだったよ。」
「怪我しなくてよかったね。」
「それが一番かな・・・。」

膝の怪我のことは言えなかった。

4泊5日もの勝手な登山を許してくれ、家族には感謝している。
モンベルおやまゆうえん店スタッフのみなさん、職場の山中間、劔澤小屋のみなさん、そして一期一会であろう山で出会った人たち。
多くの汗を流し、少し血も流し、涙も流してきた劔岳の思い出は、そんな人たちがいてこそだ。
感謝。唯々感謝である。

劔岳本編:松本へ

2011年11月24日 22時55分15秒 | Weblog
室堂を去る。
映画「劔岳」の中では何度となく出てきた地名であり、終始雨にたたられた場所であっても一抹の寂しさを感じた。

山は初心者ではない。
北アルプスは嘗て何度も訪れている。
それでも自分にとって今回の劔岳単独登攀は一大イベントの様なものだった。
一人であるが故に「共感」ではなく、すべての感情が自身に降り注いできた。
それをどう受け止めるのかは自分次第。
「あぁまた雨か・・・」
「休みてぇ・・・」
「寒いなぁ」
「息が苦しい」
「何で独りでこんな所まで来てしまったんだろう」
そんなマイナスの感情ばかりが思い出される。
それでも今こうして思い出をブログとして綴っていること自体、忘れられないことがあまりにも多い。
トロリーバスに乗り室堂を離れるまで、無事登頂し下山した喜びと、もう寒い思いをせず辛い登攀はないんだという安心感、そしてここを去る寂しさとが錯綜していた。



トロリーバスの中は、団体の観光客で一杯だった。
なんとか座席に座ることができたが、やたらと視線を感じる。
登山者など珍しくもないだろうと思うのだが・・・。
それとも自分がよほどやつれきった姿に見えたかな(笑)。

ロープウェイで「黒部ダム」へと下りる。
こちらは快晴。
室堂の天候が嘘のようだった。
ケーブルカーを乗り継いでダムを歩く。一度でいいから黒部ダムへは訪れてみたかった。
豪快に放水する様は将に「名瀑」と言っても良い。



再びトロリーバスに乗り、「扇沢」へと着いた。
周囲を見渡せば自分と同じような格好をした男達が至るところに腰を下ろし休憩している。
これから山へ向かうであろう人たち。
髭を生やし、疲労でうたた寝をしている人たち。
「気をつけて!」
「お疲れさん!」
口にこそ出さなかったが、心でそうつぶやきすれ違う。
俺もいっぱしの山男気分になっていたっけ(笑)。



信濃大町駅に着き松本行きの列車へと乗車した。
今日は平日。部活動帰りと思われる高校生達が大勢いた。
車窓からはアルプスの連なる峰峰が見えると思って期待していたのだが、その殆どはガスって見えない。
残念に思っていたが、いつの間にか眠ってしまっていた。
15時過ぎ、松本駅に到着。
24年ぶりの松本だ。
あの時は側頭部に怪我を負った状態でビジネスホテルにチェックインし、フロントで病院を紹介してもらいそのまま直行。
頭部を包帯でぐるぐる巻きにされホテルに戻り、ろくに夕食も摂らず風呂に入ってベッドに横たわった。
悔しくて情けなくて、どうすることもできなかった自分に腹を立て泣いた。
そんな思い出が松本にはある。

予め予約しておいたホテルにチェックインし、フロントで住所氏名を記入しようとしたのだが、何故か手が震えていた。
下手な文字がより下手になった。
「一体どうしたんだろう・・・」
おそらくは疲れが一気に来たのかな・・・。

大学時代の友人に会うまでにはまだ時間は十分にあった。
部屋に入り濡れた衣服を乾燥機にかけたりと、再度荷物の整理をした。
とにかく風呂に入りたかった。
残念ながら思い切り足を伸ばして入れるほどの大きな浴槽ではなかったが、風呂に入れること自体が贅沢と思える。
頭も体も二度洗った。
髭も剃った。
湯上がりのビール・・・は我慢。

夜の7時に駅前で友人と会った。自分の結婚式以来の再会だ。
「お互い老けたなぁ」が最初の言葉(笑)。
その夜は結構呑んだかな。
呑みながら、暮れに亡くなったあいつのことを話した。
バレー部とサッカー部の違いはあれ、同じ体育会系クラブ同士であり顔見知りだ。
「俺たちももうそんな歳になったんだなぁ。」

お互いの家庭のこと仕事のことなど、話は尽きない。
俺がこの歳になってもまだ山に登っていることがよほど嬉しかったようで、また来年の夏に再開することを約束した。

そう、槍ヶ岳を登頂して会う。



劔岳本編:再び室堂へ

2011年11月23日 19時43分06秒 | Weblog


雷鳥平から室堂へは、地獄谷方面を通ればアップダウンも少なく楽に帰ることができる。
だが、時間に余裕もありここまで来ればあわてることもない。
石段と尾根道を登り「エンマ台」を経由して戻ることにした。

事前に決めていたコースでもなく、無理にここを登らなくても帰れるのに・・・というということもあり、最後となるであろう登攀がメンタル的にはきつかった。
「最後くらい楽して帰ればよかったかな・・・」
そう思いながら傾斜を登った。

「血の池」で小休止をしていると、このあたりから家族連れや団体の観光客が増えてきた。
一組の家族とすれ違ったときだった。
小学生らしき男の子が「お父さん見て、すげぇでかいリュックだよ。」と一言。
「どちらまで行ったのですか?」父親から尋ねられた。
「劔岳に登ってきました。」
「えぇっ! あの劔岳ですか。映画で見ましたよ。」

父親と劔岳や登山の会話となった。
自分の行程を振り返りながら話しているのだが、どうらや男の子は自分のザックやその中身に興味津々らしい。
すべての中身を出すことはなかったが、救急薬品類、ヘッドランプ、ツールナイフ、細引きロープ、トレッキングポール、セルフビレー、エスビットクックセット等のギアを見せてあげた。
「すっげぇかっこいい。」を連発。
これがきっかけで山男になってくれればなぁなどと、勝手なことを考えてしまった。



「ミクリガ池」はガスってほとんど何も見えない。
まぁ一応「来た」という写真だけは撮ったが、観光客でごったがえししているだけであり、どうも自分のような格好をしている人間は「場違い」な様な気がして足早に「室堂ターミナル」へと向かった。

ここまで来れば携帯電話は十分につながる。
女房や山仲間に無事下山したことをメールした。
また、モンベルおやまゆうえん店へ連絡すると、店長のKさんが出てくれ登頂の成功を祝福して下さった。
いよいよもって劔岳も終わりであることを実感した瞬間だった。



午前10時15分、室堂ターミナルに到着。
レインウェアをたたみ、ザックへ収納。
上着のみを着替えてお土産売り場へと向かった。
ここで面白い土産を発見。
よく見かけるクッキーやチョコレートにかわりはないのだが、コミック漫画の「岳」の絵が描かれている物を発見した。
「こりゃあいい♪」と購入した。

ここからはトローリーバスやロープウェイ等を乗り継ぎ松本へ向かう。
出発までにやや時間があり、ベンチに座り弁当を食べた。
劔澤小屋で作っていただいた昼食用の弁当だ。
すでにご飯は冷め切ってはいたが、思い出の詰まった山小屋の弁当はことのほか美味い。
お世話になったことへの感謝の思いでいただいた。

劔岳本編:下山

2011年11月21日 22時30分34秒 | Weblog
8月23日、早朝5時20分に朝食。
今日は劔澤小屋を離れ下山し、松本まで行く。
富山まで戻れば東京行きの直行バスがあるのだが、松本で大学時代の友人に会うことが目的だ。

目覚めたときから、小屋の屋根を叩く強い雨音がしていた。
予報通りの天候で、更に風の音がしている。
食後、玄関から外を見てみるが初日よりも強い風雨であることがわかった。
それでも今日は下山するのみであり、気分は少々楽かな・・・。

小屋のスタッフの方々にお礼を言い、6時30分に劔澤小屋を出発。
小屋の庭からは、やはり劔岳の全容は見えない。
それでも劔に向かい深々と頭を下げ両手を合わせた。
自分らしくない行為であると分かっていたが、登頂できたことへの感謝の思いで、ごく自然に体がそうなった。

あくまでも個人の意思で決めた劔岳登攀。
しかし、もう一つの意味合いが存在していた。
それは友への追悼登山。
「鎮魂」の思いを込めた登山でもあった。
あいつにどれだけ届いたかわからないが、あいつが逝ってからあいつに最も近い場所へと行きたかった。
それなら富士山でもいいのだが、俺にとっては劔岳こそが意味がある。
上手くは言えないが、劔岳でなければならなかった。

別山乗越までは初日と同じルートだ。
下山ではあるが、今度は登攀となる。
ガスは濃いが今度はルートをロストすることなく下山しなければなるまい。
テント場を過ぎ、ひたすらガレ場を登る。
かなりきつく息切れがしそうだった。
何よりも強風にはまいった。体を動かしているにも関わらず寒い。
標高が2600メートルを越えたあたりから、更に風が強くなったように感じた。
指先がかじかんできたのだ。
「これで夏山かぁ。さすがは北アルプスだな。」
そう思いながら「ここからここから。一歩一歩。もうすぐもうすぐ。ガンバガンバ。」と、いつもの独り言をつぶやく。
「さて、俺は一体どこでルートを間違えたんだろう。どこで見逃したんだろう。」
同じルートであればそれがどのポイントであるかが分かるだろうと思っていたが、結局はそこまで気が回らず、息を切らせての登攀に終わった。

別山乗越まで約1時間ほどだったろうか。
結構厳しい斜度だったが、休憩無しで登り切った。



とんでもない強風だ。
昨夜ガイドさんが言っていたが、これほどの強風とは予想外だった。
腰を下ろしてまともに休憩など取れるはずもなく、屋外に設置されているトイレへと向かった。
風は入ってくるが、雨が吹き込んでこないだけましだった。
とにかく寒い。手指が冷え込んでいる。
何度もグーパーを繰り返し手を暖めようとするが効果はなかった。
この風雨の中、立山連峰の縦走がいかに危険であるかは素人の自分でもわかった。
少しは風が弱まることを期待しトイレの中で30分も休憩を取ってしまったが、結局は無駄に終わった。

ここから雷鳥平へは、往路と同じルートの雷鳥坂を下れば最も早く着くことができる。
が、緩やかな下りのトラバースをしながら新室堂乗越を経て下山するルートを選択した。



「室堂乗越」という地名は、映画「劔岳」の中で何度も耳にした地名だ。
実際にどのような所なのかを知りたくてそのルートを選んだ。
ガレ場はほとんどなくなり、半分は土のルートへとかわった。
初めは尾根道で、徐々に左側へとトラバースしながら下る。
反対側はやはり急峻な崖で、岩肌がむき出しになっており、その危険さは計り知れない。



「新室堂乗越」の分岐点まで下りてきた。
幸いに雨が上がり、あれだけの強風も今は無風と言ってよい。
「やっとゆっくり休めるかな。」
腰は下ろさず、立ったまま水分と塩分とニコチンの補給をした。
劔澤小屋を出発し、ここまで約2時間30分。
まだ誰一人ともすれ違っていない。
まぁこんな悪天候の日に今から劔岳に向かう人などいるはずもないか。



しばらく歩くと右手奥に地獄谷方面の建物が、そしてほぼ正面には雷鳥平が見えてきた。
木道を進み川沿いへと出た覚えがある。
そして足元には高山植物の「ハクサンイチゲ」が一面に咲いていた。
しばし見とれてしまうほど、みごとな群生だった。

橋を渡る手前で、雷鳥坂を見上げた。
そう、本格的な劔岳への登攀はここから始まったのだ。
つい二日前の出来事なのに妙に懐かしく思えた。
「そっか、俺でも登れたんだよな。」
うぬぼれるほどのことをしたわけではないが、少しは登山への自信につながったことは確かだろう。

室堂までもうほんの少しだ。
劔岳が、北アルプスが終わろうとしている。


劔岳本編:最後の夜

2011年11月20日 23時26分26秒 | Weblog
たった二泊三日の山小屋だが、暖房や乾燥室、温水シャワー、てんこ盛りのご飯、山を愛する者達との出会いと語らいは、観光ホテルやビジネスホテルでは絶対に味わうことのできない貴重なものだ。

明日の朝早くにここを出発しなければならない。
もし金と時間が自由になるのであれば、丸一日何もしなくてもいいからこの小屋にもう一泊したい思いはあった。

夕食までの時間、荷物の整理に努めた。
知り合った山男達や小屋のスタッフに、明日の行動食と非常食を除き自分の持っている食料を可能な範囲で置いていった。
これもザックの総重量を軽くするためであるが、ここでしか購入できない土産物もあり、結果としてはあまり重量が減ることはなかったかな・・・。



職場の山仲間達には何が良いか考えた。
室堂まで行けば観光地の拠点だけに土産類は極めて豊富だ。
しかし、自分としてはたとえ限られた土産類ではあっても、ここの物にすることに意味があるような気がした。
みんなには「バンダナ」を買った。
一枚わずが数十グラムのものだが、これをザックに詰めて再び山を歩く。
自己満足であっても、「北アルプスへの想い」を込めてみんなに渡したい。



談話室に戻ると山岳ガイドの方がおり、今日の成功を自分のことのように祝ってくれた。
劔からの下山途中で出会った方でもあり、劔・立山一帯のことは何でも知っている。
それだけに今日の天候は本当にラッキーだったとのこと。
いままでの経験でもそう滅多にあることではなく、雨の隙間を狙った登頂成功と膝の怪我は運が良かったのだそうだ。



さて、待ちに待った今夜の夕食だ。
でっかい焼き肉に胸が躍る。
山小屋の食事も随分と豪華になったものだと感じる。
偶然ではあるが、同じテーブルに山岳ガイドの方と同席になった。
早速ビールを買ってこようと思っていると、「はい、これ。登頂おめでとう!」
そう言って、自分の目の前にポンと缶ビールを置いた。
「いいからいいから。呑んでね!」
申し訳ないと思いながらも、ここは厚意に甘えてしまった。
美味かったなぁ。

ゆっくりと食事を済ませ、煙草を吸いに表へと出た。
全容は見えなかったが、ツアーで登頂した方と「あそこはこうで、あのときはこうだった」等と互いの登攀の思い出を語り合った。

部屋へ戻り、明日の下山準備の再確認をした。
(もう一本飲んじゃおうかな・・・)
乾燥室へ行き、今日着ていたクロージングを取り込みコンプレッションパックに詰めた。
あとは眠るだけ。
朝が来れば小屋とも、劔岳ともお別れだ。
すべての準備が終わり、缶ビールを買って談話室へ行った。
天気予報では明日はかなり悪天候らしい。
ガイドの方が入ってきて明日のルートについて聞くと、立山縦走は絶対にしてはいけないと言われた。
風の通り道であり、かなり危険なのだそうだ。
残念ではあるが、山を知り尽くしたこれ以上ない最高の助言者に従おう。

予定していたルートというだけでなく、自分にとっては来年に向けての自身への試行でもあった立山縦走。
つまり高山病に対して自分の体を試したかったのだ。
「俺はひょっとして高山病になりやすい体なのかも知れない・・・」
その不安は常々もっていた。
約半日を3000メートル前後の標高で過ごすことで、ある程度はそれが分かるかも知れないという考えがあったのだ。
せっかくのチャンスではあったが、別山乗越から室堂乗越へ抜け、雷鳥平へ下りるコースへ変更することにした。

劔岳本編:もったいない記憶

2011年11月19日 21時01分14秒 | Weblog


小屋から数分の所に小さな雪渓が二つある。
まったく危険が無いわけではないが、斜度はあまりなく、たとえ足を滑らせてもそのまま滑落には至らない。
小屋をすぐ目の前にしながらそこで腰を下ろした。
別に大した意味はないのだが、おそらく来年の夏までは北アルプスの雪渓を見ることも触れることもないであろうことから、夏ならではの雪渓を惜しんだ。



13時34分、劔澤小屋に戻った。
出発から8時間弱の行程だ。
予定よりも時間は要したが、頂で約一時間という贅沢な休憩を取り、下山時にも途中何度も休憩を取っての行程であればこんなものか。

小屋の庭には今日到着したツアーの方々がおり、いろいろと感想を聞かれた。ついでにテーピングの写真を撮ってもらい、改めて劔岳を見た。
先ほどの晴れ間はもう無く、勇姿の殆どは再びガスの衣をまとっている。
途中で何度かテーピングを巻き直しながらの登攀下山だったが、けっこうボロボロになっていた。
特に指先の部分は剥がれているのではなく、テープそのものがすり減って皮膚が見えていた。
そこまで三点確保を必要とした山であったという証であり、ルートの険しさを物語っている。

佐伯さんに下山の報告をした。
笑顔で迎えてくれ、自分としても尚のこと登頂成功の実感が湧いてきた。
「今日の天候ではどうかなと思っていたんですよ。登頂できて良かったですね。とくに一人の人の場合、無事戻ってくるまでは気になってしまいますしね。」



このとき、「下山」という表現ではなく、「帰宅した」という錯覚を覚えたほどの暖かな会話だった。

先ずは着替え。
ドライなシャツを着ることができるのが、ことのほかありがたい。
また、なかなか剥がれない指のテーピングだったが、もう急ぐ必要もあわてる必要もない。
談話室の中で、今日小屋に着いたパーティーの人たちと会話をしながら剥がした。
と、突然「どうしたんですか、その膝は?」と聞かれた。
もう痛みも無く、すっかり忘れていた右膝の傷だった。
「あっ、そうか。薬塗るの忘れてましたよ(笑)。」

あの時は大したことはないと思っていたのだが、皮膚がベロンと剥け、それなりの出血があった。
もう三ヶ月も前に負った怪我だが、未だ傷跡ははっきりと残っている。
小屋の方からは「運が良かったんですよ。」と言われた。(その通り!)



夕食まではまだだいぶ時間があった。
熱いシャワーを浴び、本当は今呑みたいビールを我慢し、珈琲を飲んだ。
(ビールは夕食までとっておこう)
食堂には、映画「劔岳 点の記」のロケや小屋での生活の様子を写した多くの写真が飾られてあった。
改めてゆっくりとその写真を見た。
スクリーンでは決して分からない、見ることのできない「素の表情」が新鮮だった。
確かに「劔に登ろう、目指そう」と思ったそのきっかけの一つは映画だった。
だが、遙か二十数年前、社会人になって一年目の時。
初めて登山と呼べる山登りで「白馬岳」に登頂したときに、自分は間違いなく劔岳を見ていたはずだった。
白馬岳山頂でテント泊をし、下山は同じルートは辿らずに「白馬鑓温泉に寄ろう」ということで別ルートで下山をした。
「杓子岳」あたりだったような気がするが、右手遠方にはこれまたとてつもない一連の峰峰が鮮明に見えた。
その時一緒だった同僚が「おぉ、劔岳がはっきり見えるなぁ・・・」としみじみ言った言葉を今でも覚えている。
彼が指さす遙か彼方には劔岳が屹立していたはずだ。
「はず」と書いたのは、、悲しいかな、その時の言葉と情景は覚えていても、劔岳が思い起こせないからだ。
確かに、あの時の縦走の写真に劔岳は写っている。
だから、間違いなく既にあの時劔岳を見ていたはずなのだ。
今にして思えば、なんともったいない記憶だろう。口惜しいなぁ・・・。

でもその時は、劔岳がどれ程の山であるのかなどまったく気にも留めていなかったし、この歳になっても山に登っている自分を想像できなかった(笑)。