ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

鹿児島へ・・・10

2008年06月25日 00時16分39秒 | Weblog
旅には必ず目的がある。
「目的のない旅」「あてのない旅」という言葉を耳にするが、出かけることそのものが既に目的なのだと思う。

鹿児島への旅も三日目、最終日となった。
今日は日本最南端の鉄道駅である「西大山駅」へ行き、風景写真を撮ることが目的だった。・・・いや、「目的だったはず」と書く方が正確だろう。

朝9時前に鹿児島中央駅へ行き、駅弁を買った。
この日は敢えてホテルでの朝食はとらず、列車に揺られ車窓を眺めながら駅弁を食べることにした。
何が美味いのか。売れ筋は何かなどは知らない。名物の食材がおかずになっていればOK程度の気持ちで二つ買った。
一つは黒豚がたくさん入っている物。もう一つはさつま揚げが入っている物。

「なのはなDX」に乗車し、発車を待つ。
西大山駅は鉄道ファンには有名だが、TVの映像や雑誌でしか駅の様子を知らない。期待に胸をふくらませ過ぎるとあまりいいことはない。
「いい風景を見ることができればラッキー」そんなものだった。
だが自分にとって、未だ忘れることのない素晴らしい出会いがあろうとは、この時全く予想すらしていなかった。

錦江湾を南下するにつれ、車内の混雑もなくなってきた。
車窓には海。最高の気分で駅弁を食べた。
車内は冷房が効いているが、日差しが暑い。たまらなく暑い。この暑さと海の碧さが真夏のひとり旅を盛り上げてくれている。
やがて終点の山川駅に到着。
本来ならば、ここで乗り換えて西大山駅へ着きたいのだが、写真撮影の時間、帰りの列車と飛行機の時間から逆算すると、許される時間は決して余裕があるとは言えなかった。
タクシーで目的地へと向かった。そしてこのことが、つまりできるだけ早く西大山駅へ着くということが、結果として目的にはなかった新たな感動を生んでくれたのだ。

駅へはすぐに着いた。
タクシーを降りたのは駅前の広場(?)とでも言えばよいのか、無人駅であり、ホームが一本あり、そこに屋根付きのベンチが設置されているだけの駅だから、上手く表現できないのが悔しい。
早速写真を撮るため、バックから機材を取り出そう・・・とするやいなや。
「麦茶が冷えてますよ~。どうぞ飲んでいってください。」と言う声。
はて、自分に言ってるのかな・・・と思いながら周囲を見渡した。
その声は、ホームを降りたすぐの木陰の方からだった。
よく見ると、色鮮やかなアロハシャツを着た夫婦らしき二人が、簡易テーブルを広げ自分を招いてくれていた。
「いったい何をしているんだろう。こんな炎天下で・・・。まぁ一杯くらい頂いてから写真を撮ろうか。」
そう思い二人に近づいた。
「どうぞどうぞ。今日は特に暑いですねぇ。どこから来られたのですか?」
と言いながら、麦茶を差し出してくれた。
正直いきなりで戸惑った(笑)。
そう、いったい誰なんだろう。何をしているんだろう。何故他人の自分に・・・。
いろいろな疑問が急速に湧きつつも、冷えた麦茶のなんと美味かったことか。

ちょっと寄り道・・・

2008年06月18日 00時52分13秒 | Weblog
「鹿児島へ・・・10」の前に、記憶が曖昧になるその前に綴っておきたい思い出ができた。

大学を卒業して何度か出張の折りに「雄飛寮」へ立ち寄った。と言うより、寮の後輩に連絡し、一泊の宿として利用した。
変わらぬかび臭さと汚さ(笑)が嬉しかった。
夜は「かどの店」へ行き、後輩達と飲んだ。おばちゃんの笑顔がたまらなく懐かしく、学生時代にタイムスリップした気分だった。

そして自分が結婚してすぐの時、女房を連れて東京ディズニーランドへ行った。
前日に寮のすぐとなりにある「ロータス」という喫茶店へ行き、やはり当時お世話になった店のママさんに会ってきた。
夜、かどの店で飲んだ。おばちゃんに女房を紹介し、思い出話に花が咲いた。
そして、すでに情報として知ってはいたことだったが、寮の跡地に行ってみた。
有刺鉄線が張られ、立ち入ることはできなかった。
「ふざけるなよ! 何が関係者以外の立ち入りを禁ずるだと・・・」
鉄線をかいくぐり中へと進んだ。
何もない。何も残されていないまっさらな更地に雑草だけが生えていた。
池の跡があった。
隣のクリーニング店の裏庭にある「びわの木」はそのままだった。

「ここが玄関で、ここが洗濯場。そしてここに俺が入寮して初めて入った5号室があったんだ。」
「そうそう、階段下の倉庫はここ。金が無くなると、この中にあったファンタの空瓶を店に持って行って、換金してパンを買って食べたんだよ。」
「そしてここが俺が4年の時の部屋。最後の部屋だった3号室があったんだ。あったんだよ。ここに3号室があったんだよ!」

地面にひざまつき、草をわしづかみながらその場で泣き崩れた。
女房の前で大声で泣いた。

せめて瓦の欠片でも持って帰ろうと思ったが、それすら落ちてはいなかった。
目を腫らしたままかどの店へ戻ると、現役の学生が数名来ていた。
それは最後の雄飛寮生だった。おばちゃんがわざわざ呼んでくれたのだ。
もちろん自分との面識などない。なのにOBが来ているからというだけで来てくれたのだった。
「初めまして○○先輩。」
「失礼ですが、ひょっとしてこれって先輩が残していった物でしょうか?」
と言って一枚の板を差し出した。
そこには
「一年一年と嘆くじゃないよ。誰でも初めは一年生」
「二年二年と威張るじゃないよ。一年経ったら皆二年」
「三年三年と嘯くなかれ。進級制超えられなくても皆三年」
「四年四年と語るじゃないよ。歳とりゃ田舎へ帰えりゃんせ」
昭和58年3月27日。
栃木県出身○○○○ 雄飛寮を去る。
と、書かれていた。
驚いた。それは自分が寮を去る前日。つまり田舎へ帰る前日の夜、3号室の板に書いた文字だった。
そしてもう一つ。古びたやかんを見せてくれた。
「湯が沸いたら部屋まで持ってこい! 3年○○」と書かれたやかんだった。
間違いない。これも自分が使っていた物だ。

「どうしてこれが・・・」と尋ねた。
「寮が取り壊される前日に、何か思い出にとっておきたくて、これを勝手に持ってきたんです。おばちゃんから○○さんというOBが来てるよと聞いて、ひょっとしたらこれの持ち主かもと思って持ってきたんです。」

まさかの再会だった。よくぞ今までこんな物が・・・
嬉しさと、懐かしさと、どうしようもない淋しさがこみ上げてきた。
泣くまい。後輩の前だけは泣くまいと堪えた。
だが気がつくと笑いながら泣いていた。
みんな泣いていた。
「悔しかったです。情けなかったです。自分たちの寮が取り壊されるのがわかっていても、いろんな抵抗はしましたがだめだったんです。先輩、申し訳ありませんでした。」と言って自分に頭を下げた。
何年か振りでエールを切った。初めて会う後輩達と肩を組み寮歌を高吟した。

あれからもう20年という歳月が過ぎた。
たとえ20年であろうと、何十年であろうと決して色褪せることのない雄飛寮での生活。
今これを書いていながら胸が痛い。
ちょっとセンチメンタルな夜になりそうだ。

鹿児島へ・・・9

2008年06月15日 00時14分48秒 | Weblog
天文館通りは、真夏の夜の熱気と人ごみでむせかえっていた。
ネオンきらめく繁華街。昼間に訪れた知覧とは別世界。
居酒屋風の店に入り、ビールで乾杯。
う~ん、先輩と酒を飲むのは何十年振りだろうか。もうそれだけで感激だった。
酒肴に「鳥刺し」が出た。これにおろしたにんにくをたっぷりとつけて食べる。これが実に美味い!
ビールの後は薩摩焼酎を水割りで飲んだ。正直これを楽しみにしていた。
酒は弱い方だが、せっかく鹿児島まで来たんだ。焼酎を飲まずしては帰れまい。

いろんな話をした。だがどうしても行き着く先は学生時代のバカ話(笑)。

我らが「雄飛寮」。それは吹けば飛ぶような老朽化した男子学生寮だ。
テレビ、扇風機の個人持ちは禁止。集会室にある唯一のテレビは、当然先輩を優先。
朝は6:30起床。点呼の後清掃。
外出時は「行ってまいります!」。帰ったときは「ただいま帰りました!」と玄関で怒鳴るのが1年生のしきたりだった。
(おぉ~懐かしい。だんだん思い出してきたぞぉ~)
風呂も当然先輩優先。一緒に湯船に浸かったときは先輩の背中を流す。
そう、knrairさんのでかい背中を何回、いや、何十回洗ったことか(笑)。
集会室で先輩方が麻雀をしていれば、煙草やジュースの買い出し役。「お~い、腰もんでくれ」と言われれば、たとえ真夜中でも関係なかった。
だが、雄飛寮には誇れるものがあった。
それは「自治と自由」だ。そして「寮歌」と「寮旗」があったのだ。
入寮日。自分の部屋を割り当てられた後、集会室に入った。正面には「雄飛寮」と書かれたでかい寮旗が。さらには後ろに寮歌の歌詞が書かれた布が貼られていた。
そして初めて寮歌を聞いた。歌い出しの前には、巻頭言、すなわちエールを切ってから声高らかに寮歌を歌う。
これには感動した。
だが、その寮歌を覚えるのが大変だった。(恥ずかしかった)。
朝食の後、大学のキャンパス中央で1年生全員で歌わされた。時には独唱だった。
ちょっとでも歌詞を忘れたり、間違ったり、声が小さかったりすれば大ごと。「元いぃ!!!」と先輩の怒鳴り声。
それが授業が始まるギリギリの時間まで何日も続いた。
当然他の学生達が校内に入ってくる。怪しい思想集団でも見るような視線が痛かった(笑)。
同じゼミの女の子に「大変ねぇ」と言われても、すでに声が嗄れてしまい、声にならない返事をするしかなかった。

毎年5月の第3土日。新入生の歓迎と、寮の団結を兼ねて「夜間歩行」を行った。
酒を飲み、物干し竿に寮旗を取り付け、それを掲げながら一晩中歩いて海まで行く。日の出と同時に海に向かい副寮長がエールを切り、寮歌を高吟する。自然と涙が出るほど感動ものだった。
2年になり、自分がこの大役を仰せつかった。

毎晩必ずと言ってよいほど、どこかの部屋で小さな酒盛りが行われ、どこかの部屋から音楽が流れていた。
金はないが、時間はある。厳しい先輩達だったが、共同生活とは、上下関係とは、そして自治と自由を教えてくれた。

2次会は先輩の行きつけのスナックで飲んだ。先輩の結婚式で、確かお色直しの後、入場の時にかかった曲「ff(フォルテシモ)」を歌った。
そして寮生活の話になったとき、こらえていたものがあふれ出てしまった。
こんなにまであの頃の話をしたのが久しぶりだったからか・・・
どうしようもなく懐かしかったからか・・・
どれほどバカらしくとも、かけがえのないあの頃だったから・・・
そのすべてだったからなのだ。

・・・巻頭言・・・
南黒潮の蕩々と流るるところ
西に日の本の都を仰ぎ
緑が丘にそそりたつは
我らが命の住み家「雄飛寮」なり
いざ唱わんから雄飛寮寮歌
いざまわんかな雄飛寮寮歌



日本男子バレー北京へ!

2008年06月08日 22時14分09秒 | Weblog
ミュンヘンオリンピック以来、男子バレーはメダルから久しく遠ざかっている。
日本のレベルが落ちたとは思わない。世界が日本に追いつき追い越したのだ。
そして日本は取り残されてしまった。
ある意味、ミュンヘンでの金が「燃え尽き症候群」となってしまったと思っている。しかも取り返しのつかない燃え尽き症候群だ。
コンビバレー。時間差。一人時間差等々、かつて日本があみ出した攻撃だった。
考えて何かをあみ出すことは、古の時代から日本人のお家芸だろう・・・が、近代バレーにおいては、今後新たな攻撃方法をあみ出すことはきわめて難しい。
新たなルール改正でもない限り、それほど攻撃における発展は頂点に達してしまっていると考える。
ではどうすればよいのか。
「高さ」「速さ」「力」「技術」しかないだろう。
日本人であれば「高さ・力」は外国勢より劣る。これはDNAの違いだからどうすることもできない。
故に「速さ・技術」で勝負。さらには日々の生活から試合中に至るまでの「健康・体調・栄養管理」も重要だ。
そして最後に残るものは「精神力」。
今では死語となりつつある言葉だが、やはり「根性」「負けん気」はいつの時代でも絶対的に必要だと思う。
オリンピックに行きたいと思うのは、その気持ちが一番強いのは誰よりも選手・監督なのだ。
我々応援している人間ではない。彼等こそが最も望んでいることなのだ。

今回の最終予選では、男女ともに出場権を得ることができた。
それは素直に素晴らしいことである・・・が、最終予選にまで回ってしまったこと自体は決して喜ばしいことではない。
つまり、世界レベルでいう「Aクラス」の国は、とっくに出場権を勝ち得ている。
今回の大会は「Bクラス」内での結果と言うことだ。

北京では、今大会以上のハイレベルな国との対戦になることは必至だ。
さあ、どう出る全日本。

W杯アジア3次予選に思う

2008年06月08日 00時48分59秒 | Weblog
長年サッカーの審判をしていて思うことがある。
「ここはホームだから」「アウェイだから」ということで、審判がホーム寄りのジャッジをすること。
これだけは納得がいかない。
本来公平であるべきが当たり前の審判である。なにゆえホーム寄りのジャッジとなるのか。
また、見ている観客、そして選手、ベンチまでもがホーム寄りのジャッジをある意味当然、致し方ないと考えていること。
理解する気にはなれない。

次に報復行為。
相手に倒されて、あるいは勢い余って相手選手に突っ込んでしまい倒れる。そして立ち上がるときに偶然を装って相手選手に足を出す。
まるで子供だ。
今回の対オマーン戦における日本のFW選手がそうだった。
見ていて情けない「またあいつか。相変わらずだな。」
・・・ではすまない。フレンドリーマッチじゃないんだ。一戦一戦が負けられない戦いなんだ。それを本当にわかっていない愚かな行為だった。
(もちろんそいつは一発レッドカードだった。大馬鹿者が!)
体の接触プレーを避けることはできないサッカーだからこそ、より冷静さは必要となるのだ。

そして相手国オマーン。
これほどまでにサッカーを愚弄冒涜している国にサッカーを、スポーツをする資格など一切ない。ましてやサッカーの発展など永遠にありはしない。
時間稼ぎのシミレーション、すぐに倒れ込みピッチに横たわる。ハーフタイムが過ぎても全く気にせず、平気で遅れて出てくる。「ここは俺たちの国だから」とでも言いたげだ。
また、それが通じるサッカーそのものにも大いに疑問を感じるが、中東という国々は昔からそんなことを平気でやってきた国々だ。
「アジアの雄」と言われながら、決して世界レベルに至っていない大きな要因がそこにある。
長年の文化だからではない。子供じみた狡猾さをいい加減卒業しない限り、日本を含めアジアのサッカーの発展はあり得ない。

鹿児島へ・・・8

2008年06月04日 23時15分51秒 | Weblog
市街地に戻り「ホタル館」へ向かった。
ほぼ当時のままの建物で、昭和20年代の雰囲気が漂っていた。

映画の中で描かれていた特攻隊員たちと、故鳥濱トメさんとの涙なくしては語れない心温まる交流の跡が、遺品として飾られている。
驚くべきことに、明日特攻へと飛び立つ隊員がお世話になったトメさんに、お礼として(形見として)渡した財布が現存されていた。
明日死んで行く若者に、自分より遙かに若い人たちに、何と言ってあげればよかったのだろうか。
かける言葉の一つ一つを選んだとしても、トメさん自身何もしてあげられない自分に歯がゆい想いだったろう。
その残された想いが、戦後何十年を経て「特攻平和会館」へとつながったのだと考える。将にすさまじい断腸の思いだったに違いない。

見学の後昼食を済ませ、武家屋敷群を見て回った。
美しく端正に刈り込まれた生け垣。薩摩の小京都と言ってよい。
かなりの暑さだったが、その暑さを忘れさせてくれる涼しげなたたずまいだった。

鹿児島市内ではわがままを言い、「鹿児島県歴史資料センター・黎明館」を案内していただいた。
だが目的は黎明館ではなく、その敷地内にある「七高記念碑」なのだ。

親父との想い出話になる。
旧制中学・高校出身の親父は、私が幼い頃一緒に風呂に入ると、湯船に浸かり必ず旧制高校寮歌を歌っていた。
実に気持ちよさそうに目を閉じ、ナンバースクールなどの寮歌を高吟していた。
故に、私は幼稚園児の頃から自然と旧制高校寮歌を覚えてしまった。
その一つ、「旧制第七高等学校・造士館」への憧憬はことのほか強く、この七高記念碑をどうしても見たかったのだ。
造士館寮歌「北辰斜め」を小さな声で口ずさむ。13年前に死んだ親父を思い出した。

その後城山公園へと向かい、桜島の全貌を見ることができた。
美しくも雄々しい姿である。

実を言えば、先輩とは昼間に会えるだけでも十分だった。
2週間に一度しか家に戻ってこられない先輩に、これ以上時間を割いてもらうにはあまりにも忍びない思いだった。
ホテルへ送っていただくときに「じゃぁ、7時半頃また来るから。」と、あっさり。つまりは夜になったら飲もうということだ。
嬉しいのだが、申し訳ない思いだ。
しかし、この酒があまりにも美味かった。そして想い出話に涙が流れる酒となった。