ひとり旅への憧憬

気ままに、憧れを自由に。
そしてあるがままに旅の思い出を書いてみたい。
愛する山、そしてちょっとだけサッカーも♪

親バカだが・・・

2008年07月18日 23時26分56秒 | Weblog
夏の高校野球、甲子園への出場権を懸けた熱戦が全国で行われている。
地方の1・2回戦だとコールドゲームは珍しくはない。
それでも敗れれば悔しさに涙を流し、3年間頑張ってきた3年生にとってはすべてが終わった瞬間となる。

先週の日曜日、息子の在学する高校の応援に行ってきた。
とんでもない暑さだった。応援席のスタンドには日陰が全くなかった。
灼熱の太陽に照らされながら、選手は汗とほこりにまみれ躍動していた。
息子は応援団の副団長として最前列にいた。
団員はもちろん黒の学ラン姿に白い手袋。見ているだけで私の方が熱射病にかかってしまいそうだった。
このところの練習で、帰宅してからも声がほとんど出ない状態だが、「俺たちもこれが最後だから・・・」と言っている。
試合は膠着状態で、なんともはがゆい。それでも応援団はひたすらに声を出し、舞い、勝利を願っている。
攻守が変わるたびに頭からバケツに入った水をかぶり全身ずぶ濡れだ。
最終回に逆転し勝利。俺たちの夏はまだ終わっちゃいない・・・選手も応援団もそれが嬉しいのだろう。

そして次の試合は4-1で敗れた。
実は息子は疲労と紫外線の影響で口内ヘルペスを患ってしまっていた。
食事が摂れない。歯が磨けない。うまくしゃべれない。何よりも痛みと熱で苦しんでいた。もちろん応援の声などまともに出るはずがなかった。
試合の前夜、「おまえ明日どうするんだ? そんなんじゃ無理だろう。」と言うと。
「いや、もうこれが最後だから・・・。」と一言。
相当無理して言っているのがわかるだけに、代われるものなら俺が痛みを代わってやりたかった。
息子のクラスメイトに野球部員がいる。4番打者でキャッチャーだ。仲がいいだけに、彼のためにも・・・という思いは人一倍強いようだった。

試合に敗れ、夜遅く帰宅してきた。
「3年間お疲れさんだったな。」と言うと、急に涙を流し「勝たせてやれなかったよ。球場の外であいつを見た瞬間泣いちまった。お互い抱き合って泣いちまったんだ。」
頬とくちびるは腫れ、痛々しい。後日、他の団員から聞いたことだが、口から出血が続いた状態で応援を続けていたという。
暑さと痛み、そして敗戦。つらかっただろうと思う。
最後の最後、心身ボロボロに近いものがあったんだろうと思う。
これは間違った見方かもしれないが、ある意味息子がうらやましかった。
今しかできないこと、そして最後だからこそ意地でも踏ん張れたこと。
汗と涙と苦痛。
青春してやがるな、こいつ!!!

鹿児島へ・・・11(花瀬望比公園①)

2008年07月07日 23時24分33秒 | Weblog
南海の海を目の当たりにしたのはそう多くはない。
遙かな碧い海原、降り注ぐ真夏の太陽。将に感動の瞬間だ。
だが、どこか儚さを感じる。
それが「花瀬望比公園」だった。

西大山駅で知り合った方は、横浜の出身で、定年後にここへ引っ越してきたという「K夫妻」。
そして、ここで何をしているのかという一番の疑問を投げかけてみた。
「いやぁ、鉄道マニアとか写真を撮るためにとか、この駅は結構人気があるんですよ。特に休日になると全国からやって来るんでね、わざわざ来てくれる人たちに何かできないかなって・・・。」
つまりは完全ボランティアで、自分のような旅人へのもてなしをしているのだ。
確かに定年退職後であれば、自分たちの自由な時間が増える、それはわかる。
しかし、そこからボランティアでこのような行動を起こそうと決め、活動し、そして今この時、実際に自分がその行動にふれ合っている。
なんという出会いであろう。
「こんな生き方。第2の人生の送り方があるんだなぁ。」と、しみじみと、そして新鮮に感じた。

鹿児島へ来た理由を話すと、それだったら花瀬望比公園へ行った方がよいと言われた。
(「花瀬望比公園? はて・・・」)
「送っていってあげますから。」
(「えっ、な・なんでそこまで。今知り合ったばかりの自分に。」)
不思議な夫婦だと思った。
もちろん親切心からのことであることはわかる。でも、何故そこまでできるのか。
遠慮というものを知らないおバカな自分は、K夫妻の言葉に甘え、花瀬望比公園までの往復をお願いした。
車に乗り案内されるがままに進むと、やがて開聞岳のすぐ麓に着いた。
真っ先に視界に入ったのは大海原だ。
「うわぁ、海だ!」思わず出た感動の言葉だった・・・が、海なし県で育った自分でさえ、この公園の存在する意味を知るとともに、言葉を失っていった。

「望比」とは、フィリピンを望むということ。
それは、嘗て太平洋戦争におけるフィリピン戦線で戦死した方々の、その御霊の鎮魂を意味しているのだった。
慰霊碑、古びた鉄兜、動かない重機関銃、擲弾筒を握りしめた戦士の像、鎮魂の鐘。
そして何よりも印象的だったのが、出兵した父親の無事の帰国を願う母と娘の像だった。
昨日、知覧特攻平和会館を見学してきたばかりという余韻が尾を引いてか、自分らしくない行為だと思いながらも、鎮魂の鐘を鳴らさせてもらった。
鐘の音が波の音に混じって、太平洋に静かに響き渡った。いつの間にか海に向かって合掌していた。
ふと見上げると、開聞岳がそびえ立っている。
「そうか、特攻隊員たちにとって、この開聞岳が最後に見る本土の景色だったんだな。」
ちょうど自分がいるこの場の、その真上を飛んでいったに違いない。
そう思うと、初めて見る開聞岳も、碧い海さえも、もの悲しく見えてきた。