通でがんす

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日本の航空とスキーの先駆者・長岡外史

2023年10月17日 | 山口の話題



先日、9月23日・24日の1泊2日で
山口県下松市(くだまつし)の
笠戸島(かさどしま)にある
国民宿舎 大城(おおじょう)
に泊まってきた。



↓国民宿舎 大城については、こちら↓

【公式】国民宿舎 大城 | 下松市笠戸島の全室オーシャンビューホテル





大城から124段ある石段を登っていくと
外史公園があり、




そこには御影石で作られた
高さ約2メートルの
長岡外史(ながおか がいし)像が
立っている。

この像は、市民でつくる
顕彰会が1978年に建立したもの。




像をよく見てみると、
ひげが異常に長いことと、
左手に持つ飛行機の模型が気になった。

像の横にある碑文を読んでみると、
長岡外史は下松市出身の軍人・政治家で、
日本の航空とスキーの先駆者
であることがわかった。



↓外史公園については、こちら↓

「外史公園(がいしこうえん)」いくっちゃ!くだまつ観光ガイド





今日は、
日本の航空とスキーの先駆者・長岡外史
についての話でがんす。





長岡外史は安政5(1858)年、
都濃郡(つのぐん)
末武村(現:下松市)に生まれ、
のち、長岡家の養子となる。

安政5年といえば、
江戸幕府が日米修好通商条約に調印、
大老・井伊直弼による
安政の大獄のあった年。

1885(明治18)年、
陸軍大学校を一期生として卒業、
1904(明治37)年の日露戦争には
陸軍部参謀次長として参加、
1909(明治42)年、
陸軍中将(ちゅうじょう)を拝命。

1933(昭和8)年、
77歳で亡くなる。



以下、
「プロペラひげ」と呼ばれたひげ、
日本での先駆者といわれた
スキーと飛行機について
話をしていこう。





まずは、
「プロペラひげ」と呼ばれた
ひげについて。


外史が欧州出張中の1899(明治32)年、
ドイツで軍事視察をした時、
カイゼルひげが流行していたので、
あごひげを剃って
カイゼルひげにしたが、
最初はそれほど長いもの
ではなかった。

それが1914(大正3)年、
大正天皇の御大典(ごたいてん。
即位式)の時、八丈島市庁長が
「あなたのひげを世界一にしたい」と、
特産の椿油を進呈した。

椿油を使い始めた外史は
ひげを剃ることができず、
以後、ひげが伸びていった。

1915(大正4)年には世界一となり、
一番長いときで69センチまで伸びた
といわれている。



↓プロペラひげについては、こちら↓

「【TJ調査隊】尋常じゃない世界一のひげ? 旧師団長官舎にある長岡外史の銅像」上越タウンジャーナル



次に、スキーについて。


外史が第13師団長だった
1911(明治44)年1月12日、
オーストリアの軍人レルヒ少佐が
1本杖のスキーを指導したのが、
日本におけるスキーの始まり
とされている。

この史実から2003年、
1月12日が「スキーの日」と制定された。

第13師団は、
帝国陸軍の師団のひとつで、
新潟県高田町(現:上越市)にあった。

軍事用に導入されたスキーを、
民間に普及させ、
国民スポーツにまで発展させたのが
外史だといわれている。



最後に、飛行機について。


将来の航空時代の到来を見越した外史は
日本の航空界の育成に乗り出した
と紹介してあるが、
そう簡単な話ではないようで…。

後に、日本の飛行機開発の先駆者
として知られる、
二宮忠八(にのみや ちゅうはち)
という人がいた。

二宮は1891(明治24)年、
飛行機(器)による
動力飛行に成功していた。

飛行機が開発できれば、
空中から偵察できるし、
物資の輸送も飛躍的に向上する
と考えた二宮は、
日清戦争時の上司だった
参謀の長岡外史に上申したが、
却下された。

軍が飛行機の開発に乗り気でない
と感じた忠八は退役し、
独力で研究することに。

ライト兄弟による
世界初の有人飛行に成功したのが、
二宮の動力飛行成功から10年後の
1903(明治36)年12月17日。

もし、二宮の上申を受けて
日本で飛行機の開発を進めていれば、
世界初の有人飛行の名誉は、あるいは
日本人のものだったかもしれない。

1919(大正8)年、忠八が
同郷の松山藩(現:愛媛県)出身の
白川義則(しらかわ よしのり)中将に
飛行機開発をしていた話をすると、
それが帝国飛行協会の
機関誌に掲載された。

その記事を読んだ、陸軍航空本部長
井上幾太郎(いのうえ いくたろう)が
「欧米先進国に先駆けた
未曾有(みぞう。
これまで起きたことのない、
極めてまれな)の出来事」と激賞。

当時、帝国飛行協会
(現:日本航空協会)の
副会長だった外史は、


かつて忠八の上申を却下した長岡外史も、自分の不明を恥じ、忠八に謝罪しました。

「二宮忠八~ライト兄弟に先んじて人類初の動力飛行に成功した日本人」WEB歴史街道 人間を知り、時代を知る




↓二宮忠八については、こちら↓

二宮忠八飛行館ホームページ





以下、余談。


「外史」という
変わった名前について。

長州藩の藩校
明倫館(めいりんかん)で
『日本外史(にほんがいし)』
を暗唱していたところ、
長州藩最後の藩主となった
毛利元徳(もうり もとのり)
に認められて
「外史」という名を贈られたという。

『日本外史』は江戸時代後期、
広島藩の歴史学者
頼 山陽(らい さんよう)
が書いた歴史書。

幕末から明治にかけて
もっとも読まれた歴史書のひとつで、
幕末の尊王攘夷運動に
大きな影響を与えたといわれる。



↓頼 山陽については、こちら↓

「頼山陽史跡資料館 (広島県立歴史博物館 分館)」広島県教育委員会





以下、さらに余談。




外史公園からは展望がよく、
景色を眺めるにもよい。




像の前には、
四等三角点が設置されている。

また、「ひげの殿下」として有名な
三笠宮 寬仁(みかさのみや ともひと)
親王の植樹された木も植えられていた。





訪問日:2023年9月23日・24日





今日は、
日本の航空とスキーの先駆者・長岡外史
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。

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