通でがんす

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廣島護国神社 被爆鳥居台座

2015年09月03日 | 広島の話題
廣島護国神社(旧広島護国神社)

被爆鳥居の台座

広島市青少年センター前








先日、広島市青少年センター前を通りかかったとき、

廣島護国神社の被爆鳥居台座を

久しぶりに見た。







原爆(昭.20.8.6.あさ.8:15)によって折れた
旧護国神社鳥居(北面)の脚部

昭和46年この公園内を南北に走る下水工事中現位置より北約20メートルのところで発見した、上記鳥居であることが確認されたのは佐々木禎一郎氏(市内元宇品写真家)の貴重なフィルムによる。即ち氏は被爆一ヶ月後からの「ひろしま」を数多く撮影しているがその中にこの鳥居に関したもの3枚があった。館内玄関に展示している。
尚、これが発掘・設置については清水建設の協力を得た。

昭和46年12月22日

広島市青少年センター

(説明板より)






廣島護国神社?

今は広島城跡にある広島護国神社は

以前、このあたり(現:旧広島市民球場)にあったんじゃの。





広島護国神社の歴史をたどってみると…。



1868年(明治元年)戊辰戦争(ぼしんせんそう)に従軍して戦死した広島藩士を祀る「水草神社」を二葉の里に造営したのが始まり。


1876年(明治8年)官祭招魂社、

1901年(明治34年)官祭広島招魂社と名前を変える。


1934年(昭和9年)社殿の老朽化に伴い、西練兵場の西端に移る。


1939年(昭和14年)廣島護国神社と名前を変える。


1945年(昭和20年)爆心地の北約370メートルの位置にあった廣島護国神社は、原爆により社殿すべてを焼失。


1956年(昭和31年)現在地(広島城跡)に再移転し、新社殿が造営される。





廣島護国神社には、鳥居が3つあったそうじゃ。

本殿の東側と北側にあった2つの鳥居と、

南側(原爆ドーム側)にあった鳥居の、全部で3つ。





東側の鳥居は西側に、

北側の鳥居は北側へと、

原子爆弾の爆風に沿うように倒れた。





南側の鳥居は爆心地に近く、ほぼ真上から爆風を受けたため倒れることがなかった。

この鳥居は現在、護国神社の東側(RCC側)、裏御門跡入り口に移設されとるそうじゃ。





北側にあった鳥居の西側の台座が、

今も残っているこの台座

ということじゃそうな。







広島市青少年センター玄関に掲示してある

故・佐々木雄一郎(ささき ゆういちろう)氏が撮影した

被爆1ヶ月後の鳥居の台座写真。







鳥居が根元から折れたのがよくわかる。














以前は、こんな感じで木に囲まれて

台座に近づくのが難しかったんじゃが…、

(この写真のみ撮影日:2010年10月30日)







今は周囲の木が伐採されて、

台座が見やすくなっとる。











↓広島護国神社については、こちら↓

広島護國神社





↓広島市青少年センターについては、こちら↓

広島市青少年センターホームページ





訪問日:2015年8月30日





今日は、広島市青少年センター前に残されている被爆鳥居の台座について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。

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