「広島城で、企画展「頼山陽とゆかりの人たち」(2017年12月22日~2018年2月4日)をやっているので、見に行ってきた」
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広島城ホームページ
「頼山陽いうたら、幕末の尊王攘夷運動に影響を与えた『日本外史』という本を書いた方じゃったね」
「詩を詠み、文を書き、絵を描いた人でもあったんじゃの」
「で、なおかつコピーライターでもあったん?」
「日本新三景のひとつ、大分県中津市にある耶馬渓(やばけい)を知っとるかいの?」
「うーん、知らんねぇ」
「日本三大奇景(きけい)のひとつでもあるんじゃが…」
「あぁ。江戸時代に30年くらいかけて掘ったといわれる、青の洞門があるところ?」
「そうそう。それまで「山国谷(やまくにだに)」と呼ばれていたところを、中国風の「耶馬渓」という名前をつけたのが、山陽じゃったそうな」
「「耶馬渓」と名づけたことで、コピーライターってことになったんじゃね」
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中津耶馬溪観光協会
「ここで、頼山陽について簡単に紹介しておこう」
「はい」
「山陽は江戸時代後期の安永9年(1780)、大坂生まれ」
「山陽って、広島生まれなんじゃないん?」
「父の頼春水(らい しゅんすい)は、もともと竹原の方なんじゃが、大坂に出て私塾を開いとった。それが天明元年(1781)、広島藩の儒学者として登用されたのに伴って、広島に移って来たんじゃの」
「あぁ、そうじゃったん」
「寛政12年(1800)、山陽が21歳の時に脱藩するも連れ戻されて、座敷牢へ幽閉された」
「このときに、『日本外史』の構想を練ったといわれるんじゃね」
「文政元年(1818)、39歳の時に西遊、九州旅行に出かけた。この旅行で、山陽が酒を好んで飲み始めたといわれるんじゃが、これはまた別の話で取りあげるとして…」
「1818年いうたら、ちょうど200年前!」
「九州旅行の途中で、豊前(ぶぜん)の雲華上人(うんげしょうにん)を訪ねた折、例の「山国谷」を訪れた」
「その自然美に感銘を受けた、と」
「この奇景に感銘を受けた山陽は、12月6日から16日までの11日間をこの地で過ごしたそうじゃ」
「そんなに長く?」
「で、「山国谷」と呼ばれていたこの地を「耶馬溪」と、そして、目の前の岩峰を眺めながら杯を重ねた柿坂の絶景を「擲筆峰(てきひっぽう)の景」と名づけた」
「「耶馬溪」って名前をつけただけ? 詩や絵は描かれとってんないん?」
「翌年、この奇景を水墨で描いた絵に、その由来を記した文と、「耶馬渓山天下無し」と耶馬渓を詠んだ漢詩を書いた「耶馬溪図巻」を添えて、雲華上人に送ったそうじゃ」
「すごいね」
「山陽が名づけた「耶馬溪」という地名が、今では北は北海道から南は福岡まで、全国30ヶ所ちかくあるそうじゃ」
「そんなにたくさんあるん?」
「たくさんあるいうことは、「耶馬渓」の奇景と名前が全国に広く知られとるという証拠じゃの」
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頼山陽記念文化財団
訪問日:2018年1月7日
「今日は、「頼山陽は名コピーライター?!」ということで、日本新三景・日本三大奇景のひとつ、大分県中津市にある耶馬渓(やばけい)について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
企画展「頼山陽とゆかりの人たち」広島城
頼山陽
耶馬渓
雲華上人