goo blog サービス終了のお知らせ 

味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

令和3年7月14日(水) 貞観政要・頁655 之を静かにすれば

2021-07-14 14:31:08 | ブログ
之を静かすれば則ち安く、之を動かせば則ち乱るるは、人、皆、之を知る。隠れて見え難きに非ざるなり。頁655

(訳)〔人民は〕静かにしておけば安らかであり、動かせば乱れるということは、誰でも知っているやさしい道理であります。隠れて見えにくいものではございません。頁655
----------------------
  書籍の紹介

  『勝海舟と坂本龍馬』加来幸三

   まえがき

 わずか五年にすぎなかった。否、実際に手を携え、「明治維新」という大プロジェクトのプランナーとして活躍した時期は、おそらくその半分にも満たなかったのではなかろうか。
「勝海舟と坂本龍馬」
 改めて見直してみると、この師弟は、全く稀有の存在であったといえる。日本史上、かつて例がなく、将来も再び、この両者のような師弟の組み合わせは出現すまい。もし、海舟と竜馬がこの時期に出現し、揃うことがなければ、「明治維新」は成就せず、かりに達成されたとしてもかなり遅れて、しかも、不徹底かつ混乱を長期化させたに違いない。
 数え年二十八歳の浪人龍馬が、幕府の軍艦奉行並勝海舟を訪ねて弟子となったのは文久二年(一八六二)の後半、海舟四十歳のときであった。
 その後、慶応三年(一八六七)十一月十五日、龍馬は暗殺されて三十三歳の生涯を閉じる。一方の師匠海舟は、七十七歳長寿を全うして、明治三十二年(一八九九)にこの世を去ったが、真に目を見張る活躍は、二人の人生が重なった、きわめて短い期間でしかなかった。
「人間、生涯をかけても一人前の仕事というものは高がしれている」
 かの西郷隆盛も、口ぐせのようにいっていた。


令和3年7月13日(火) 貞観政要・頁655 我は貧寡を

2021-07-13 09:47:32 | ブログ
我は貧寡を以てして安寧なるは、之を静かにすればなり。頁655

(訳)〔人民は〕静かにしておけば安らかであり、動かせば乱れるということは誰でも知っているやさしい道理であります。頁655
----------------------
   書籍の紹介

  『渋沢論語をよむ』 138
 
  本書の著者、深澤賢治君は、本学を昭和四十四年三月に卒業した、第三十七回の卒業生である。本学では、附属の兩高校はもとより、大学においても国文学科、中国文学科、国際政治経済学科の別なく、親しく論語に触れられる教育を行ってきた。論語が儒教の原典であり「人間いかに生くべきか」を示した人類不朽の古典だからである。
 彼は、卒業後間もなく利根警備保障を起こし、本年五月、創立二十周年式典を迎え、社名もシムックスと変えて、更なる飛躍を目指したいという。その記念として、日常愛読し、自分の講演のもとになっている。渋沢栄一翁の論語講義を、いかに読み、いかに活かしたかを一書にまとめたという。いかにも本学出身者でなければできない快挙である。



令和3年7月12日(月) 貞観政要・頁654 然れども

2021-07-12 18:07:21 | ブログ
然れども隋氏は富強を以てして喪敗するは、之を動かせばなり。頁655

(訳)それなのに、随が富強でありながら国家が滅亡したのは、人民を労役や戦争のために動かしたからであります。頁655
----------------
     書籍の紹介

  『勝海舟文言抄』

  現実主義者の眼

  西郷隆盛や吉田松陰のような、いわゆるきわめつきの政治家・志士にくらべると、海舟の人気は異質であり、カツボルテージが低い。
 理由の一つに、海舟には西郷や松陰にあった志というものがほとんど無縁であったことをあげられるだろう。海舟には志がなかったなどと書くと、たとえば、お前は海舟がくだらぬ人間であったというつまりか、と非難されるかもしれない。


令和3年7月11日(日) 貞観政要・頁654 隋氏の府蔵

2021-07-11 09:43:35 | ブログ
隋氏の府蔵を以て、今日の資儲に譬へ、随氏の甲兵を以て、當今の士馬に況べ、随氏の戸口を以て、今時の百姓に校べ、長を度り大をはかるに、曽て何の等級ぞ。頁654

(訳)隋が最も強盛を誇っていた当時の府軍の財宝を、わが当代の貯蔵に比較し、隋の軍備を、わが兵力に比較し、隋の戸口を、わが人民に比較し、どちらが長大であるかを量り比べまするに、とても及びもつきません。頁655
------------------------
   書籍の紹介

  『剣禅話』山岡鉄舟

    総 説

    一
 幕末三舟ということばあり、それは『幕末三舟伝』として書物の題名にもなっている。三舟とは、いうまでもなく勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟の三人をさす。
 まず、勝海舟であるが、これはなんといっても著名人である。何をやらせても、みごとにやってのけることができた。ただし、嫌いなこととなると、絶対に首をたてに振らなかった男でもある。
 二番目をとばして高橋泥舟。この男は槍を握らせたら天下無敵だった。しかし、他のことはなんにもできない男である。自分でも槍以外のことには手を出さなかった。だから、武士の時代が終わると、三十六歳という若さのままで世を捨ててしまう。「泥舟」とはそのときからの号である。まさにどろ舟のごとく、世間の波にもまれて抗いもできず、ぶくぶくと崩れ沈んでしまったわけだ。
 そこで最後に鉄舟であるが、前の二人との比較でいうと、まことに中途半端な男である。若いころには攘夷党をつくって首領格になり、清河八郎や石坂周造などの暴れ者と付き合ってはいるが、鉄舟自身がきっきりした攘夷観を持っているかどうかとなると疑わしく、したがって、攘夷が役に立たなくなったときに、どのようにしてこの処置をつけようかと苦悩した跡もないようである。
 鉄舟の一世一代の大芝居といえば、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎---」と名のって敵軍の本営に乗りこんだことであろう。生死を無視した人にしかできない、胸のすくような大冒険であった。だが、少なくともこれは、政治的行為としてはあまりよい得点をとることはできない性質のものである。失敗すれば
死ぬまでだというやり方は、政治行為のなかでは尊重すべきではない。本人が死んでしまうのは仕方のないこととはいっても、死んだら死んだで、そのあとは誰がどう処置をつけるのかということを計算に入れておかねばならない。



令和3年7月10日(土) 貞観政要・頁654 且つ我の代る

2021-07-10 10:18:32 | ブログ
且つ我の代る所は、實に有隋に在り。隋氏の乱亡の源は、聖明の臨照する所なり。頁654

(訳)かつ、わが唐朝が代わったのは、実に隋朝でございます。隋が乱れ滅んだ原因は、聖明なる陛下がよく御覧になっていらっしゃるところであります。頁655
--------------------------
    書籍の紹介

  『礼儀覚え書』草柳大蔵  135

       私が24歳のときにかいた恥は、三十年間生き続けた

 誰方でも、生きてゆくうえで、一つや二つ、恥とか悔恨の思いを抱いているのではないでしょうか。
 私にも、恥ずかしい思い出があります。悔恨の言葉や行為があります。いまだにそれを訂正できないで苦しんでもいます。ですから、いわゆる「マナー読本」を書く資格はありません。また、そんな気負いもないのです。
 ただ、私自身が若いときに恥をかき、その恥が三十年後に形を変えた経験があるのです。その経験が、世の中の人が見せてくれるマナーやルールに私を敏感にさせた、といえるでしょう。その都度、私が感じたものをまとめたのがこの本なのです。
 本文に入る前に、私が社会人になったとき、はじめて覚えた、あるいは覚えさせられた恥をお話しておきます。
 昭和二十三年の秋でした。私は雑誌社の末端編集員として雨の中を集稿に歩いていました。夕方近く、ある国務大臣の邸にたどりつき、応接間に招じ入れられました。朝から雨の中を歩いて疲れ気味だった私は、ソファに深く腰掛け、なけなしの煙草に火をつけました。
 そのとき、国務大臣の奥さんが応接間に入ってこられた。表が薄暗かったこともあって、私は白い花束が立っているように思いました。美人で有名なその奥さんは「はい、ご苦労さま」と原稿を渡してくれ、帰ろうとする私に「お紅茶でも飲んでいらしゃい」と声をかけてくれました。
-------------------------
 両陛下ご訪欧に随行しての機中で本書を読んだ。気軽な気持ちで開いた頁が重くなった。「野人礼にかなわず」ではすまぬ旅。一節ずつが心にしみる。真剣に読ませていただいた。
        元総理大臣 橋本龍太郎
------------------
十五歳年長の草柳さんには、テレビを通じて拝見し、尊敬の念を抱いていました。本書を拝読して抱いていた尊敬の念が確かなものとして確認できてよかった。