goo blog サービス終了のお知らせ 

味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

令和3年6月15日(火) 貞観政要・頁650 帝王の天下の

2021-06-15 10:42:40 | ブログ
帝王の天下の與に画一を為す所以にして、親疎貴賤を以てして軽重を為さざる者なり。頁650

(訳)帝王が天下のために一定不動の法を定めたもので、親疎や貴賤によって軽重の差を生じためでさせないございます。頁651
-------------------
    書籍の紹介

 『葉隠』 111

 『葉隠』は、約二百五十年前に書かれた"武士の心構えに関する教え"であって、隠遁した佐賀鍋島藩士・山本常朝(一六五九~一七一九)の七年間にわたる談話を同藩の後輩・田代陣基(一六七八~一七四八)が筆録し、これを編集したものである。
 一見、奇異なこの書名の由来については何の記録もなく、明らかではないが、木の葉隠れの草庵で語られたものであり、あくまで内省の書であるという意味を含んでいるのであろう。もともとの書は「此の始終十一巻、追て火中すべし」という常朝の談話を記述した写本があるほどであって、公刊を目的としたものでは無く、佐賀藩の藩校でも教科書に用いられず、手から手へ写し伝られてきた秘本であった。
  有明海に面した佐賀平野の北端を区切る連峰の一つに金立山というのがある。標高は五百メートルそこそこだが、史跡や伝説の多い名所で、佐賀の市街地から約十二キロ、格好のハイキング・コースになっている。その山麓、点在する林にかこまれた静かな田園を黒土原といい、現在は佐賀市に合併れて金立町黒土原となっているが、ここが『葉隠』の語られ、そして記録された地なのである。
--------------------
 相撲協会は、朝の山がいかがわしい処に出入りしたとして五場所欠場することにしたそうです。決められたことは守らなければならないと考えます。大変残念です。


令和3年6月14日(日) 貞観政要・頁650 夫れ刑賞の本は

2021-06-14 10:53:13 | ブログ
夫れ刑賞の本は、善を勧めて悪を懲らすに在り。頁650

(訳)そもそも、刑賞の根本は、善を勧め悪を懲らすという点にあります。頁651
-----------------------------
   書籍の紹介

 『沢庵 不動智神妙録』 110

 ここ二、三年のところ、宗教書がよく読まれている。その出版も盛んなようだ。これは今日という時代状況、思想状況が、人間とは何か、思想とは何か、価値とは何かを根底的、本質的に問わざるを得ないところにきていることと無関係ではない。
 それが最も鋭い形で現れたのが、最近の激しい学生運動である。そこでは当然、人間とは何か、思想とは何かが根源的に問われており、仏教書や宗教書を読み直そうとする動きと同じ流れの上にあるといえる。
 しかも、今、宗教書、仏教書を読み直そうという動きは、敗戦直後、民主主義とか社会主義を、思想的、原理的に受け止めようとせずに全く無批判的に受け容れ、宗教書や仏教書を、ただ、古いもの、時代遅れのものとして、一顧もせずに捨て去ったことに対する反省として起こっているのである。

 

令和3年6月13日(日) 貞観政要・頁649 然れども

2021-06-13 10:04:46 | ブログ
然れども言は簡大を尚ぶも、志は明察に在り。刑賞の用、未だ盡くさざる所有り。頁649

(訳)しかしながら、お言葉では大まかで小さいことにこせこせしないとおっしゃりながら、お志は細かいことまでも見抜こうとなされております。これでは陛下の刑と賞との用い方には、不十分な点があるように存ぜられます。頁650
---------------------
   書籍の紹介

  『人物を創る』安岡正篤著

 概念と論理の学問だけをやっていると、心が渇く

 私は田舎に生まれましたので、子供の時は自然に親しみながら育ちました。そして幼少時代から親たちの好みで、まず「四書五経」の素読から始まって、古典教育を受けました。ところがそういう勉強をしておるときに、ちょうど大正五年でありますが、世界大戦が始まった。これは第一次世界大戦といわれるだけあって、世界の人類に非常なショックを与えた。今度の大戦(第二次世界大戦)にももちろん大きな打撃を受けたけれど、第一次大戦というものを一度経験しておるから、みんなある程度の覚悟はできておった。しかし第一次大戦の時はそういう経験がなかった。もちろんそれまでにも戦争はあったけれども、国家と国家との間の戦争で、いわゆる世界的なものではなかった。それだけに受けたショックも大きかったのであります。
 ちょうど日本の国民が、明治三十七、八年の日露戦争の時に受けたショックと似ておるわけであります。あのとき日本の国民は、それこそ小学校の生徒に至るまでみな興奮して、日々の戦況に胸を躍らせ耳を傾けたものです。子供は子供ながらロシアを怒り、日本を心配した。第一次の大戦は私自身経験したことであるから、今だによく覚えておるが、青年の私にも大きな驚きであった。

 まもなく正午になります。午後から鹿児島ふれあいスポーツランドに行きたいと思っています。

令和3年6月12日(日) 貞観政要・頁649 當今、道

2021-06-12 12:02:26 | ブログ
當今、道、華戎に被り、功、宇宙に高く、思ひて服せざるは無く、遠しとして臻らざるは無し。頁649

(訳)今の御世は、御政道の恩恵が、中国はおろか、四方の蛮民にまでも及び、陛下の功績は宇宙において最高であり、なつき従わぬ国はなくどんな遠い国でも慕って来ないものはございません。頁650
--------------------
   書籍の紹介

 『友か敵か』

 駐日大使任命の議会公聴会を待っていた一九八九年初めころのことである。私は、友人であり長年にわたって日米交流の多くの企画を運営してきた山本正氏から、日本からの訪問客と会ってくれないかとの依頼を受けた。その客は、日米の政府間関係を日常的に処理するにあたって最も困難な試練は何かと、私の考えを求めた。私は、公聴会のために何か月も勉強して思うようになったのだが、日米関係の中核には二つの要素があるようだと答えた。第一には、両国がこれまでになく深く依存し合うようになっているという事実。第二には、それにもかかわらず太平洋の両岸で暮らす双方の国民は、この現実に深い不安感を抱いているということである。そして、この相克を解く鍵は、所詮こうした依存関係から抜け出せないのなら抜け出そうとせずに、多岐にわたる利益を平等に分かち合えるようにすることがたいせつであり、そうすれば、両者とも心が安まるはずだ、と私は言った。



令和3年6月11日(日) 貞観政要・頁649 然して後、

2021-06-11 10:19:45 | ブログ
然して後、太平の基、墜ちず、康哉の詠、斯に起る。頁649

(訳)その結果、太平の基礎は固まり、平和の御代が謳歌されます。頁649
-----------------
    書籍の紹介

 『斎藤隆夫かく戦えり』草柳大蔵著

  粛軍演説の主調音
 衆議院議長・富田幸次郎の「斎藤隆夫君」という声にうながされて、斎藤は登壇した。五尺そこそこの小男である。眼が小さくややかん骨が出ている。青年のときアメリカで結核にかかり肋骨を七本もとる大手術を受けた。そのため、身体が右後方によじれている。それが演説するときの独特のポーズになっている。しかし、音吐朗々、よどみを見せない。この印象をとらえて、朝日新聞の政治漫評を担当していた岡本一平が「ねずみの殿様」という綽名を呈した。警抜にしてユーモアがあり、以来、斎藤の名を口にするものは、幾許かの愛情と畏敬の念を籠めて「ねずみの殿様」を使うようになった。
「我国の歴史に拭うことの出来ない一大汚点を添えたる彼の叛乱事件の後を承けて、広田内閣が成立し、身を挺して国政一新の衝に当らるることは、吾々の最も歓迎する所であり、同時に国家の為に衷心よりその成功を祈るものであります」
 斎藤の美声には定評がある。彼自身は、妻の乙女が作るキャラメルを嘗めているからだと信じている。乙女の方も、斎藤の演説の前にはキャラメルづくりに精を出している。砂糖とバターを混ぜて焼いたものを大理石のテーブルの上に流し、固まる寸前に、小さな四方形に裁断したものだ。
 斎藤は、広田弘毅首相が「庶政一新」を標榜したことを「まことにわが意を
得たるもの」と称讃し、ゆっくりと第一の矢をつがえる。
-------------------
 この本を購入したのが30年前になります。一心不乱に読んだものでした。
運動と読書に熱心に取り組むことはすばらしいことだと思います。皆さんは如何ですか。