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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

令和3年6月20日(日) 貞観政要・頁650 毛羽、生ず

2021-06-20 10:22:09 | ブログ
毛羽、生ず可ければ、則ち賞典謬まる。刑濫るれば、則ち小人、道長じ、賞謬まれば、則ち君子、道消す。頁650

(訳)毛羽を生じさせるように、むりに賞揚すれば、賞は誤りとなります。刑がでたらめであれば、悪い者がのさばり、賞が誤れば君子の道が行われません。651
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  『戦国武将の語録』黒田如水

  総じて人の上に相口、不相口ということあり。主君の、家臣を使ふに、殊に之あることなり。家人多しと雖も、そのうちに主君の気に応ずる者あり。これを相口といふ。この者善人なれば国の重宝となり、悪人なれば、国家の妨となるものなる故に、大事なりと思ふべし。
 各々、かねて知る如く、士どもの中にも、わが相口の者ありて、傍近く召仕ひ、軽き用事をも勤めさすると雖も、彼に心を奪はるべき覚悟にあらず。然しながら、自然と相口なれば、品に寄り、もしくは、悪事を見隠すこともあるべければ、各々随分心を付け見出し、左様の事あらば我を諫めよ。

 

令和3年6月19日(土) 貞観政要・頁650 好む所は

2021-06-19 11:23:13 | ブログ
好む所は、則ち皮をうがちて其の毛羽を生じ、悪む所は、則ち垢を洗ひて其の瘢痕を求む。瘢痕、求む可ければ、則ち刑斯にみだる。頁650

(訳)好む者は皮を切って毛羽を生じさせるように賞揚し、憎む者は垢を洗って隠れている傷あとを求めるように、欠点を捜し出します。頁651
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  書籍の紹介

  『先知先哲に学ぶ人間学』渡部昇一著

 幸田露伴という人は最近あまり読まれないと思いますが、それでも、最も尊敬されてきた文人の一人だと思います。露伴が亡くなったとき、時の慶應義塾の塾長の小泉信三先生は、「百年に一度の頭脳である」とおっしゃいました。
 露伴の小説『五重搭』などは教科書に入って知られていますが、大部分はもう読まれていないと思います。とにかくべら棒に漢字を知っているものですから、その漢字だけでみんな参ってしまうのでしょう。しかし、露伴の東洋の学の蘊蓄というものはちょっと計り知れないものがあります。
 幸田露伴のお孫さんに青木玉さんという方がいらっしゃいます。この方は最近、随筆家としても出てこられましたが、私は玉さんと対談することがあって、いろいろお話をお聞きしました。たとえば、こんな話を聞きました。
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令和3年6月18日(金) 貞観政要・頁650 喜びに逢へば

2021-06-18 09:58:16 | ブログ
喜びに遇へば、則ち其の情を法の中に矜み、怒に逢へば、則ち其の罪を事の外に求む。頁650

(訳)喜びに遇えば法の中で情状を酌量し、怒りに遇えば、法律の外に罪を求めております。頁651
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  書籍の紹介

 『礼節の時代』星亮一著

 皇太子妃の小和田雅子さんのルーツが、越後村上藩だと知った時、私はさわやかな感動を覚えた。
 小和田雅子さんのルーツをたどると、禄は低いが、文武両道に優れ、屋敷内で畑を耕す清貧で厳格な村上藩士が浮かんでくる。
 文書に出てくるのは、天明七年(一七八七)と嘉永五年(一八五二)に表された『村上藩内藤家家臣分限帳』で、そこに小和田新六が登場する。新六は二人扶持、職は目付で、町の取締に当たった。
 新六は柔術制剛流免許皆伝の許状を受けている。許状は武術だけでなく、学問にも秀でていないと貰えなかったので、文武両道に優れていた人物と見てよい。
 江戸末期、村上藩は海岸防衛に兵を出すが、そのなかに小和田道助の名がある。道助は親鸞聖人の大法要の際、町の寺に絹に銀の刺繍をした打ち敷きを寄進し、信仰心の厚い人柄であったこを示している。
 明治初年の『村上士族名寄帳』には小和田匡忠、小和田匡吉の名が見える。曾祖父は小和田匡利で、祖父毅夫は上越で生まれ、旧制高田中学から広島高等師範学校に進み、最後は母校の高田高校の校長をしている。
 雅子さんの父小和田恒氏は父の転勤で、新潟県新発田市で生まれ、高田高校から東大教養学部に進み、外交官の道をたどる。
 雅子さんの経歴はいまさら紹介するまでもないが、アメリカのハーバード大学で経済学を専攻、東京大学法学部に学士入学し、在学中に外交官試験にパスした才媛である。妹の礼子さんと節子さんは双子で、礼節という名前に村上武士の残映を見ることができる。
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 この書は平成6年3月28日 23時20分読完となっている。親しみを以て拝読したさまが書かれている。


令和3年6月17日(木) 貞観政要・頁650 或いは申屈、

2021-06-17 10:52:14 | ブログ
或は申屈、好悪に在り、或は軽重、喜怒に由る。頁650

(訳)ところが、今の賞罰は、必ずしもそうばかりではございません。好悪によって伸び伸び縮みがあり、喜怒によって軽重がなされております。頁651
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 『敬天の聖者 王陽明』田中忠治著 113

 変化した学問と教学

 春秋時代の衛の大夫遽伯玉は、孔子がつつしんで接した賢人でした。『論語』憲問篇に伯玉が使者を孔子のもとへ遣わしたことがある。孔子が使いの者にその人柄を聞くと、
   夫子はその過ちを寡なくせんと欲すれど、いまだ能わざるなり。
 と答えました。孔子はその答えのなかに、伯玉の求道精神の厳しさを見届けました。年をとってから過ちを寡なくすることはとても難しい。心身の衰えが豊富な知識や経験を活かしきれず、強く固まった自我によって、つい過ちを繰り返す。
『荘子』雑典という書に、伯玉は、
   遽伯玉、行年六十にして六十化す。
 とあります。伯玉は年々に自らを省みました。そしてたえず大きく自分を変えていきました。もちろん、変わりつつも、その底に不変なるものがあります。孔子は弟子たちに、
「予は一もって之を貫く」とといいました。王陽明もまたそのように一をもって生涯を貫きましたが、その学問と教学は、節々で大きく変化しました。そして変化するたびに人格もまた大きくなっていきました。ここではその変化について考えてみようと思います。
-----------以下 略-----------


令和3年6月16日(水) 貞観政要・頁650 今の賞罰は

2021-06-16 10:28:05 | ブログ
今の賞罰は、未だ必ずしも盡くは然らず。頁650

(訳)ところが、今の賞罰は、必ずしもそうばかりではございません。頁650
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  『世界がさばく東京裁判』 112 

  かねてから私は「東京裁判を裁判せよ」と主張し、歴代首相にもその必要を説いた。裁判は二年半にわたり四二三回も開廷し、鳴物入りで日本を糾弾したが、要するに、勝者の敗者に対する一方的断罪であった。------
---------------東京裁判史観の克服のために
 戦後、日本社会に巣くってその骨髄をむしばみ、健全な国民精神を頽廃させてやまないもの、いわゆる東京裁判史観に勝るものないであろう。昭和の初期から二十年(一九四五年)に至るまでの日本の対外軍事行動を、ことごとく「侵略」の一語をもって否認し去ろうとする戦勝連合国側の史観は、昭和二十一年~二十三年に占領軍によって強行された極東国際軍事裁判所によるわが国の戦時指導者の裁判(東京裁判と通称されるもの)によって、敗戦によって意気消沈する日本国民の前に、鳴物入りで宣伝された。国際法に準拠して裁くと豪語して占領軍が実施した東京裁判は、しかし、実際には実定国際法に違反していた軍事行動に過ぎず、本質的に連合国の政治的措置であった。国際法に疎い日本国民は、あたかもそれが厳正な司法裁判であるかのごとく錯覚し、爾来、多くの者が祖国の歴史を誇りをもって顧みることを忘れ、甚だしきは国家を呪詛するに至った。大東亜戦争の干戈を収めてよりすでに五十一年、東京裁判の開廷よりも半世紀の時間を閲した現在、身をもってかの戦争を戦い抜いた世代の数は急速に減少しつつあり、今にして東京裁判史観なる民族の一大病弊を根絶せしめない限り、日本の前途は暗澹たるものとなろう。