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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

令和3年6月25日(日) 貞観政要・頁652 夫れ刻薄既に

2021-06-25 09:42:13 | ブログ
夫れ刻薄既に扇げば、則ち下、百端を生ず。頁652

(訳)それゆえ、道徳の精神は広まらずして、残酷で薄情な風潮が盛んになっております。そもそも、刻薄の風が盛んになれば、下にはさまざまな事件が起こります。頁652
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   書籍の紹介

 『童心残筆』安岡正篤

  雲 水

 心は自ら「無限」に憧憬れ、無碍自由を欣求する。しかも自分は如何にも狭くろしい。執拗い、垢染んでゐる、むづ痒い。
 ͡この「我」と謂ふ蓋をぼろぼろと一思ひに掻きむしって了ひたい。これ程迄に自分を焦ったがらず、正躰の知れぬ悪性の腫物に、グサと小気味メスを刺して、有るだけの膿を絞り出したい。それにも拘わらず、如何しても痒い處に手が届かぬ。メスが振へぬ。堪らなくもどかしくって焦ったい。自然は愛に溢れているではないか。自分は愛に包まれているではないか。なる程夫れには相違ない。然しながら、自分はしっとりとその自然の愛に融合することも出来ない。
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令和3年6月24日(日) 貞観政要・頁652 故に道徳の

2021-06-24 10:09:03 | ブログ
故に道徳の旨未だ弘からず、刻薄の風巳に扇ぐ。頁652

(訳)それゆえ、道徳の精神は広まらずして、残酷で薄情な風潮が盛んになっております。頁652
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   書籍の紹介

  『為政三部書』

  廟 堂 忠 告

  第一  修 身

 前輩謂ふ、士官して而て将相に至るは人情の栄とする所たりと。是れ栄なるものは辱の基なるを知らざるなり。惟だ善く自ら修むる者は則ち能く其の栄を保ち、善く自ら修めざる者は適に其の辱を速くに足る。所謂善く自ら修むる者とは何ぞ。簾以て身を律し、忠以て上に事へ、正以て事に処し、恭慎以て百僚を率うるなり。是の如くんば則ち令名随ひ、興論帰し、鬼神福す。其の栄を辞せんと欲すと雖も得べからざるなり。所謂善く自ら修めざる者とは何ぞ。私にしたがい、公を忘れ、貪にして紀極無く、覆車を戒めず、匡に報ゆることを思ふなし。是の如くんば則ち悪名随ひ、衆帰し、鬼神禍す。其の辱を避けんと欲すし雖も亦得べからざるなり。頁六

令和3年6月23日(日) 貞観政要・頁651 道を直くしても

2021-06-23 09:31:42 | ブログ
道を直くして行ふも、三たびしりぞけらるること無きに非ず。人を危うくして自ら安んずること、蓋し亦多し。頁652

(訳)このようでありますから道を曲げないで行っても三度も罷免されることになります。それゆえ人を危険に陥れて自分の安全を図るものもたぶん多いことでしょう。頁652
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 『この国を思う』安岡正篤著
  
  魂を失った日本

 近代日本人は明治以来全く西洋近代文明に集中して参りました。東洋は、日本もシナも、世界の文明に遅れた国である。世界の文化の時代錯誤的アナクロニズム的存在である。骨董的存在であるとして、よほど趣味因縁を持つ人の外は、中日問題や東洋的教養というようなことに関連しては何等熱意をもたなかったと申してよいのであります。われわれの親あるいは祖父母の時代には、まだ般若心経でもしょうしたり、『論語』『孟子』を読んだり、『史記』や『三国志』でも繙き、あるいは、『日本外史』も読んで見るという風習がありましたが、近代になりましてはほとんどそういうこともない。東洋に関する歴史的知識、あるいは民族精神、あるいは地理に関してすらもほとんど無知でありまして、その点むしろ想像以上と言ってもよい程であります。これはインテリ日本人にとっては実に困惑すべき現象であります。地理、歴史、哲学、文学、政治、経済諸般のことになるまで無知なところに難問題を課せられたのであります。10頁



令和3年6月22日(日) 貞観政要・頁651 且つ夫れ

2021-06-22 11:07:12 | ブログ
且つ夫れ、暇豫の清談は、皆、あつく孔老を尚び、威怒の至る所は、則ち法を申韓を取る。頁651

(訳)その上、お暇の折にくつろいで高尚なお話をなされるときには、いつも深く孔子・老子の道を尊崇なされますが、威怒の及ぶときには、申不害・韓非子の苛酷な法を用いられます。頁652
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  書籍の紹介

  『陽明学十講』安岡正篤著

  哲 人 陸 象 山

        私は少年の頃『伝習録』を学んで、陽明が漣溪・明道の後に象山ありとしておることを聞いた時から、不思議に陸象山の名を幼い脳裏に印した。その後、いつ頃からか陽明全書を繙いて見るようになって、彼が「席元山に与ふる書」にも、象山の学は「簡易直截・孟子の後の一人なり。その学問・思弁・致知・各物の説、いまだ沿襲の累を免れずと雖も、しかれどもその大本大原は断じて余子の及ぶ所にあらざるなり」といい、『象山文集』に序しては、周・程二子がよく孔・顔の宗を追尋して、精一の旨に庶幾いことを推尊し、二子の後には象山陸氏あって、その純粋和平は二子に逮ばないようであるが、簡易直截、真に孟子に接するものであると記しているのを読んで、その人を敬慕する念を深く新たにした。けれども性に任せ縁にしたがって読書し探求するのが癖の私には、まだその後も一、二年、象山を尋ねる機縁が熟さなかった。そのうちふとある夜、敬慕する藤原が「林秀才に与ふる書」を読んで、彼が象山を推重するばかりか、ひそかに象山に得る所少なからぬらしいのに気がついて、今度はたまらなく象山を知りたくなり、ちょうど陽明から遡って周、程、諸子の学を探っていた時であったから、早速『全集』を手にれて、「年譜」や「語録」から始めて、暇さえあれば「集中」を渉猟した。

令和3年6月21日(日) 貞観政要・頁650 小人の悪、懲らさず、

2021-06-21 09:55:28 | ブログ
小人の悪、懲らさず、君子の善、勧めずして、而も治安にして刑措くを望むは、聞く所に非ざるなり。頁651

(訳)小人の悪が懲らされず、君子の善が勧められずして、世の中が安らかに治まり、刑罰がとり行われないようになることは、とても望むことは不可能でございます。頁651
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  『大学味講』菅原兵治著

   なぜ「大学」を読むのか

      一

 「哲学を持たぬ時代」--------日本の現在をこう観るのは僻みであろうか。
 開闢以来いまだ経験したことのない「敗戦」という大事変後の三十年であるから、やむを得ぬといえばそれまでであるが、窮乏ーー高度成長ーー低成長不況と、激動の中の現実にふりまわされてしまって、それに対処する一貫の原理をもたずに来てしまったのが、現下の日本ではないのか
 だから一時は、一見すばらしい成果を収め得たかのように見えても、それは哲学を持たぬ政治であり、哲学をもたぬ経済であり、哲学を持たぬ産業であり
、哲学を持たぬ教育であったのであるから、それには根のない草花のように一貫の生命がなく、時運の流転と共に、誤算を生じ、破綻をきたして、今やその後遺症の対応に汲汲としているのである。
 かくて私どもは、「哲学をもたぬ時代」を脱すべく、まず「哲学をもつ人」とならねばならぬ時であり、そのために「大学」を読むのである。
 (ただし「哲学」とは、哲学概論の知識をいうのではない)
     
     二
 大学は、終身,斉家、治国、平天下という現実処理の道を教えた書である。しかしそれは、今日の政治学とか、倫理学とか、経済学とか、教育学とかいうような専門的のものではない。本文にも「その本乱れて、末治まるものはあらず」といっているように、「本」に立って現実を処理しようとするものである。だからそれは「本」に立っての「末」の成長であり、「末」を伸ばすための「本」の確立なのであって、哲学に根差した現実処理の道であり、現実処理のための哲学なのである。