味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天地の道は、壹言にして盡くす可きなり。

2019-03-29 09:18:21 | ブログ
第3724号 31.03.29(金)

天地の道は、壹言にして盡くす可きなり。其の物たる貮(じ)ならざれば、則ち其の物を生ずること測られず。天地の道は、博なり、厚なり、高なり、明なり、悠なり、久なり。『中庸』291

 天地の道は、たった一言で簡明にいい表わすこともできる。それこそは、ただ一つ常に変わることなく作用(はたら)く、それだから天地間の物を発生させ成長させることが、はかり知られずに多いということである。しかも天地の道は、やはりいい表わせないほど広博であり、崇高であり、彰明であり、悠遠であり、永久であって、善美をつくしているのである。

 【コメント】私共この世に生を得ている人間も、天地の道同様、広博、崇高、彰明、悠遠、永久、善美等々の意義を噛みしめたいものです。
 ところが現実的には、短絡的に悪事に走る人が多いとのこと、適うものなら、上に書いた素晴らしい言葉を味わって欲しいと思います。世に天罰という言葉があるように、悪事を働いたら、必ず世に知れ渡り、相応の罰を受けることになるのです。

 今朝は新元号のことについて羽鳥アナ司会のもと、長嶋氏、玉井氏らの意見も出されました。現代の若い人々は西暦よりか、元号がいいとという人が7割位を占めているとのことでした。
 その時、玉井氏曰く、行政は元号よりか西暦にすべきだと発言しました。思うに、行政は伝統を重んじる視点からそのようになっている筈です。一テレビ局の一人間が、何々すべきいう言葉を使用すべきではないと厳重に指摘したいと思います。

 天地の道は絶対唯一の根元であって、それ以外ではあり得ないそのものとして、自ら原因となって常に一定不変の展開をすることをいう。この唯一の本質は、「誠は天の道なり」とある通り、誠であるとと信ずる。換言すれば、人間の誠もこのような作用・展開をすべきものである、とあります。が、この元号問題も、便利・簡易さを使用するという考えは理解できますが、当該国の歴史的運用・事実を重んじることが最善だと思います。
 特に長年、『南洲翁遺訓』と漢籍の世界を従容してきた人間としては、元号が最善だと思っています。

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『善の研究』第178回

 我々のいわゆる客観的世界とと名づけている者も、幾度か言ったように、我々の主観を離れて成立するものではなく、客観的世界の統一力と主観的意識の統一力とは同一である。即ちいわゆる客観的世界も意識も同一の理に由って成立するものである。この故に人は自己の中にある理に由って宇宙成立の原理を理会することができるのである。もし我々の意識の統一と異なった世界があるとするも、此の如き世界は我々と全然没交渉の世界である。苟(いやしく)も我々の知り得る、理会し得る世界は我々の意識と同一の統一力の下に立たねばならぬ。頁95

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『菜根譚』187

 縦欲の病は医すべくして、しかも執理の病は医し難し。事物の障りは除くべくして、しかも義理の障りは除き難し。

 〔訳〕欲にこりかたまった病は直すことができるが、りくつにこりかたまった病は、なかなか直せない。物事についての障害はとり除くことができるが、道理についての障害は、なかなかとり除けない。
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 昨日は第二道場での御稽古は二人でした。早く行ってペマ・ギャルポ著を一時間拝読しました。このブログをお読みの方、およろしかったらこの本をお読み頂きたいと思います。
 その中から引用します。曰く、----

 --人間には、水や食べ物がなければ生きていけないように、信仰や道徳、少なくともそのような価値観が存在することを教えなければ、精神が餓えて貧しくなってしまう。もしそれを否定して、人間は、社会の法律を最低限守っていけば、あとは自分の好きなことをしていけばよいのだとということしか教えられなくなったら、それが行きつくところは欲望だけの人間である。----
-----本当は日本人は、物質を超えた精神的なものさらには信仰に深い関心を持った民族だったはずだ。---

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