味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

心は本虚にして、物に応ずれども迹無し。

2018-02-21 09:51:56 | ブログ
第3340号 30.02.21(水)

視箴に曰く、心は本虚にして、物に応ずれども迹無し。之を操るに要有り。視之が則と為る。蔽前に交れば、其の中則ち遷る。之を外に制して、以て其の内を安んず。己に克ち禮に復(もと)らば、久しくして誠なり。『近思録』295

 視の戒め。心はもともと空虚で、外の物に感応するが、形をとどめない。心の守り方に要点がある。それは視ることに節度を保つことだ。私欲が目の前で交錯すると、心がそちらに遷る。私欲を外でおさえて、内部・心を安泰にする。このように私欲に勝って礼に戻るようにしたならば、しばらくして心が誠になる。。

 【コメント】物事をいろいろこなして行くうちに、見る・聞く・言う・行うのはたらきがありますが、それらに拘り過ぎては先に進めない場合があります。

 出来れば済んだことに拘らず、私は次の作業に前向きに取組むことにしています。基本的に、我田引水でなければいいのではないかと考えます。

 問題を処理した後、人々が検証した際、人々の顰蹙を買う事象であってはならないと思います。とにかく、まじめにして事に処す、利が生じたら相手に与えてあげる気遣いをもちたいものです。

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『不動心』(第199回)

 障害を自分の目標のために利用していく能力

 理性あるすべてのものを支配する自然力は、それぞれにいろいろな力を与えた。その中でも、自然が障害や抵抗を運命の定めた場所へ変化させながら自らに同化させてしまうように、あらゆる妨害を自分に役立つものに変え、それを自分のめざすもののために利用していく能力を、人間は自然から与えられているのである。

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人格の涵養 山鹿素行 第21回

 ところが素行はその陽明学は固より朱子学をも聖学から観て決して眞に道統を継ぐものではないとした。是れ俗眼には朱学の宗家林羅山の門より出た彼として實に容易ならぬ叛逆的議論であったのである。彼は聖学の目的は人と為るに在る。乃ち聖教の目的も人と為るの道を教えることになければならぬ。人と為るということは、決して漫に書を讀むことでもなければ、単に思想を抱くだけのことでもない。小は一身を修めるより大は天下を治平するに至る迄現実に目覚ましい理想欣求である故に聖教は常に最も活き活きした現実に人生を動かしてゆく力でなければならぬ。
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『言志録一』62

 凡そ人と語るには、須らく彼をして其の長ずる所を説かしむべし。我に於いて益有り。

 〔訳文〕人と話す際には、相手の長所を話させるがよい。自分に益するところがある。

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