味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

善悪の報いは、影の形に随うが若し。

2016-03-29 10:16:09 | ブログ
第2646号 28.03.29(火)
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善悪の報いは、影の形に随(したが)うが若(ごと)し。(『舊唐書』張士衡傳)
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 善事や悪事に対する報いは、影が形に従うように、確実に現われる。686
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 【コメント】この訓戒は正論だと思います。それでも人間は、この位はいいだろうと悪事をしてしまいがちですが、出来れば慎みたいものです。
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 このことは漢籍も教えていますし、中村天風師も教えているところです。
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 先日子供たちに、やがて一回はスピード違反はしても、飲酒暴走運転だけはしないでくださいとお話しました。昨日、福岡県警元警視の方がひき逃げ事件を起したと報道されました。
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 事故に絡んで負傷者がいたのであれば、すぐ救急車を呼んで所要の措置をしなければならないと思います。上に書いたように、悪事は必ず暴かれるからです。そういうことは警察署長を歴任した方が一番詳しい筈なのです。
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 とにかく目まぐるしく世の中が変わっていますが、漢籍に学ぶことほど善いことはないと思います。

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『臥牛菅実秀』(第182回)
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 すでに降服の日に覚悟したこととはいえ、この移封命令を前にして、老公忠発をはじめ、藩の首脳者は苦悩した。
 三千人の家臣と、その家族の大集団が、家財を整理し、墳墓の地をすてて見知らぬ他郷に移ることは物心ともに大きな打撃である。ましてこの戦争に疲れはて敗戦に打ちのめされた家臣の人々である。その人々を引きつれて荒廃しきった会津に移ることは余りに大きい犠牲であった。 それに長く深いつながりをもって結ばれてきた荘内の領民に、敗戦の痛手を与えたまま去っていかねばならない苦衷も深かった。
 ついに老公忠発は実秀をよんで、この苦境の打開を一任した。降服決定の日、実秀の決意していたものは、ついに来たのである。
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 明治二年一月四日、実秀は雪深い鶴岡を立って、移封命令阻止の第一歩を踏みだした。しかし戦いに敗れたものが、勝者の下した断罪を拒否し中止させるということは、ほとんど絶望的に思われた。それでも実秀は老公の寄託に応えるために、あえて苦難の一歩を踏みだしたのだ。

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『農士道』(第458回)
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 「豊明節會は新嘗祭の翌日辰日に行う。即ち新嘗會なり。天皇出御ありて、内膳司御膳を進め、太子以下群臣に各々饗饌及び祿を賜ふ。其間吉野国栖は御賛を供じ、歌笛を奏し、治部雅楽の工人は立歌を奏し、大歌別当は歌人を率ゐて五節歌を奏し、舞姫参入して五節を舞ふ云々」
と該書に記してあるが、誠になつかしいことで、近頃の新嘗祭の祭典が毎年村々に於て行はれつつも、殆んど形式的な儀礼のみに拘はれて、老若尊卑相和して楽しむ「楽」のないことは、何となく淋しいことであるが、深く温故すべきことであらうと思う。234
 
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『啓発録』(第3回)
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 さすればもし腰の両刀を奪ひ取り候へば、その心立て、その分別、尽く町人百姓の上には出で申すまじ。百姓は平生骨折を致し居り、町人は常に職業渡世に心を用ひ居り候ゆゑ、今もし天下に事あらば、手柄功名はかへって町人百姓より立て、福島左衛門大夫・片桐助作・井伊直政・本多忠勝がごとき者は、士よりは出で申さざるべきかと思はれ、誠に嘆かわしく存ずる。
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 け様に覚えのなきものに高禄重位を下され、平生安楽に成し置かれ候は、扨扨君恩のほど申す限りなきこと、辞に尽しがたし。その御高恩を蒙りながら、不覚の士のみにて、まさかのときに我が君の恥辱をさせまし候ては、返す返す恐れ入り候次第にて、実に寝ても目も合わず、喰うても食の喉に通るべきはずにあらず。

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