2185号 26.12.21(日)
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心を治め身を脩むるは、飲食男女を以て切要と為す。『小学』
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精神を治め、一身を修めていくうえにいちばん大切なことは、日常の飲食を慎み、男女の関係を慎むことである。(胡安国がその子に教えたことば)310
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【コメント】連日漢籍の言葉等々をご紹介していますが、至らない私への戒めと捉えています。元気ざかりの若い時代を振り返り反省すること頻りです。
普通、会社員・大人になったら、話題が、飲む・打つ・買うの方へいってしまいがちです。先輩や友人にそそのかされ遊び呆けた時代がありました。それでも24時間体制での仕事はやり続けました。今の私のように、自らが学び、世の為、人の為、子どもたちのために命がけで取りくんでいる人は少ないのではないでしょうか。
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だから、空手道指導の際、『南洲翁遺訓』を教材として子どもたちに、理解しやすいように、人の世に処する術を話しています。
昨夜は空手道稽古の際、道場の音がうるさいと言って、隣の住人に怒鳴り込まれましたが、何があっても、おだやかに冷静に対応することにしています。どんな獰猛な人間も一人で刃傷沙汰はできないのです。常識、良識の範囲を逸脱した場合、天の制裁があるのです。
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いろいろなスポーツの分野では、金になること、勝利へのことしか眼中にないような気がします。幸いにして、日本一の教育者だとされた菅原兵治先生らの訓戒を学ぶ機会に恵まれましたので、今の子供たちに紹介したいのです。
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『大学味講』(第23回)
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即ち「定」「静」「安」「慮」の四つは時間的には同時存在なのでありまして、それはあたかも、コマが精一ぱいに廻っている時には、定であり、静であり、安であるように、私どもが「至善」に向かって、わき目もふらず真直に精進している時の姿が、そのままそれなのであります。これは、少なくもその体験のある人ならば、誰しもが納得出来ることでありましょう。
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だからこの「而る后」は、時間的の「而る后」としてではなく、論理的の「而る后」として解すべきもので、例をあげれば、私どものからだでいえば、頭と、胴と、腹と、手と、足とあるが、それは同時存在のものなのであります。しかし、これを説明する場合には、同時には出来ませんから、やむを得ず「頭の次に胸があり、その次に腹があり、その次に手足がある」というように説明せねばならぬようなものだ、と受け取ってよいでありましょう。頁25
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『論語』(第123)
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子、弓を謂って曰はく、「犂牛の子、騂うして且つ角あらば、用ふること勿らんと欲すと雖も、山川其れ諸を舎てんや。」
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孔子が弟子の仲弓を評して「犂牛(まだらうし)は犠牲(いけにえ)として神を祭る時に用いることはできないけれども、その生んだ子が毛色が赤くて角が完全ならば、犠牲を選ぶ人が、親牛がわるいから、犠牲に用いまいとしても、山や川の神は必ず捨てないでこれを受けるであろう。」と言われた。
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これは父が賤しくて行いが悪くても、その子の善を廃することはできないから、仲弓のような賢徳ある者は、世に用いられるであろうという意味を譬えによって述べたのである。
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『農士道』(第8回)
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一、従来の農村問題に関する研究は、一事々々に就いてのそれは随分精細に行われてゐたが、農の生活全面に渉って、一貫の原理を以ての考察が欠けて居ったやうに思ふ。本書の所述は仮令粗硬の憾みはあるにせよ、終始、一貫の原理によって各問題を究明し了したつもりである。
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二、吾々日本人は今や大きく東洋の----之を通して世界の----自覚に立つべき時である。日本精神は其の本質に於て徒に偏狭なる独善に陥るものではない。一切を摂って之を道によって鼎新して行く力こそ大和心たる日本精神である。かくて本書所論の資料は努めて廣く之を東洋先哲の學に仰ぐこととした。
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三、「哲人の如く考へ、野叟の如く語る」といふ語があるが、本書の叙述は師友よりの懇な注意もあったので、努めてしかすることに意を用いた。その為に余儀なくされた冗長な點は恕されたい。
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短歌
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わからずも漢籍読みて書き写せ
年月重ね宝なるなり 7014
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心を治め身を脩むるは、飲食男女を以て切要と為す。『小学』
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精神を治め、一身を修めていくうえにいちばん大切なことは、日常の飲食を慎み、男女の関係を慎むことである。(胡安国がその子に教えたことば)310
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【コメント】連日漢籍の言葉等々をご紹介していますが、至らない私への戒めと捉えています。元気ざかりの若い時代を振り返り反省すること頻りです。
普通、会社員・大人になったら、話題が、飲む・打つ・買うの方へいってしまいがちです。先輩や友人にそそのかされ遊び呆けた時代がありました。それでも24時間体制での仕事はやり続けました。今の私のように、自らが学び、世の為、人の為、子どもたちのために命がけで取りくんでいる人は少ないのではないでしょうか。
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だから、空手道指導の際、『南洲翁遺訓』を教材として子どもたちに、理解しやすいように、人の世に処する術を話しています。
昨夜は空手道稽古の際、道場の音がうるさいと言って、隣の住人に怒鳴り込まれましたが、何があっても、おだやかに冷静に対応することにしています。どんな獰猛な人間も一人で刃傷沙汰はできないのです。常識、良識の範囲を逸脱した場合、天の制裁があるのです。
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いろいろなスポーツの分野では、金になること、勝利へのことしか眼中にないような気がします。幸いにして、日本一の教育者だとされた菅原兵治先生らの訓戒を学ぶ機会に恵まれましたので、今の子供たちに紹介したいのです。
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『大学味講』(第23回)
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即ち「定」「静」「安」「慮」の四つは時間的には同時存在なのでありまして、それはあたかも、コマが精一ぱいに廻っている時には、定であり、静であり、安であるように、私どもが「至善」に向かって、わき目もふらず真直に精進している時の姿が、そのままそれなのであります。これは、少なくもその体験のある人ならば、誰しもが納得出来ることでありましょう。
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だからこの「而る后」は、時間的の「而る后」としてではなく、論理的の「而る后」として解すべきもので、例をあげれば、私どものからだでいえば、頭と、胴と、腹と、手と、足とあるが、それは同時存在のものなのであります。しかし、これを説明する場合には、同時には出来ませんから、やむを得ず「頭の次に胸があり、その次に腹があり、その次に手足がある」というように説明せねばならぬようなものだ、と受け取ってよいでありましょう。頁25
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『論語』(第123)
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子、弓を謂って曰はく、「犂牛の子、騂うして且つ角あらば、用ふること勿らんと欲すと雖も、山川其れ諸を舎てんや。」
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孔子が弟子の仲弓を評して「犂牛(まだらうし)は犠牲(いけにえ)として神を祭る時に用いることはできないけれども、その生んだ子が毛色が赤くて角が完全ならば、犠牲を選ぶ人が、親牛がわるいから、犠牲に用いまいとしても、山や川の神は必ず捨てないでこれを受けるであろう。」と言われた。
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これは父が賤しくて行いが悪くても、その子の善を廃することはできないから、仲弓のような賢徳ある者は、世に用いられるであろうという意味を譬えによって述べたのである。
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『農士道』(第8回)
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一、従来の農村問題に関する研究は、一事々々に就いてのそれは随分精細に行われてゐたが、農の生活全面に渉って、一貫の原理を以ての考察が欠けて居ったやうに思ふ。本書の所述は仮令粗硬の憾みはあるにせよ、終始、一貫の原理によって各問題を究明し了したつもりである。
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二、吾々日本人は今や大きく東洋の----之を通して世界の----自覚に立つべき時である。日本精神は其の本質に於て徒に偏狭なる独善に陥るものではない。一切を摂って之を道によって鼎新して行く力こそ大和心たる日本精神である。かくて本書所論の資料は努めて廣く之を東洋先哲の學に仰ぐこととした。
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三、「哲人の如く考へ、野叟の如く語る」といふ語があるが、本書の叙述は師友よりの懇な注意もあったので、努めてしかすることに意を用いた。その為に余儀なくされた冗長な點は恕されたい。
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短歌
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わからずも漢籍読みて書き写せ
年月重ね宝なるなり 7014