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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

隠れたるより見わるるは莫く、微かなるより顕らかなるは莫し。

2014-12-26 14:56:51 | ブログ
第2190号 26.12.26(金)
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隠れたるより見(あら)わるるは莫く、微かなるより顕らかなるは莫し。『中庸』
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 隠れていることぼと現われやすいものはない。また、かすかで人の気がつかないと思うことほど、世の中に早く明らかになるものはない。
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 たとえば、陰徳を施している人がいる。それがなにかの機会に人に知れると、パッと世の中に現われてくる。反対に、人に隠した悪事もなにかの機会に洩れると、パッと世の中の噂となるものである。だから、君子は平素「其の独りを慎む」要があるのである。154

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 【コメント】とにかく人様には親切にしなければならないと思います。そのようにしてきたつもりですが、世の中には自分が気にいらないと喚きちらす人もいるものです。
 それでも、そういう人も生きる権利があるのですから、穏やかにつきあいたいものです。

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『大学味講』(第28回)
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 (五) 次に「事」の場合ですが、例えば火事になって、それを消すという場合について考えてみましょう。火事の始めは、出火の原因です。しかしその始めの時にはまだ人には知られず、火事になってしまってから、大騒ぎをして消防隊が駆けつけて消化するのですが、その場合、もしも出火が始めで、炎熱が終りであるから、出火の原因を明らかにせぬうちは、火を消してはならぬなどいっていたら、どうなるでしょうか。
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 こういう時には、火を消すことを「先」にして、火事の「始め」である出火の原因の調査は「後」にすべきでありましょう。ですから、それを終始と先後との関係からいえば、終りを先にして、始めを後にするとなるでありましょう。
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 というわけで、その物に対し、その事に対して、何を先にし、何を後にするかということは、実践の上からいえば、その事の成否を決する、誠に重大なことなのでありまして、いたずらに理論的本末論などにとらわれていてはならぬ時があるのであります。

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『論語』(第128)
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 子曰はく、賢なるかな回や。一簞の食、一瓢の飲、陋巷に在り、人は其の憂ひに堪へず。回や其の楽しみを改めず、賢なるかな回や。
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 孔子が言うには、「賢人なるかな顔回は、盛切り飯に一杯酒で横丁の裏店生活、ほかの人なら貧乏の苦労にかまけてしまうところを顔回は相変わらず道を楽しんで勉強している。その修養の積んでいることはとうてい他人の及ぶ所でない。回は誠に賢い男だ。
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『農士道』(第13回)
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 ここに同じ工場に努めてゐる二人の技師がある。一人は其の専門の職分を通じて常に工場全体の繁栄向上の為に貢献し、延いては其の仕事を通じて何等か国家社会の為に幸福を齎らさうと、時に衣食の事などを忘れて参賛の使命に精励している。之に對して他の一人は、俺の勤めるのは月給を貰ふ為なのだ。月給が少しでも上って、晩酌の一杯も追加出来れば沢山だ、何を苦しんで進んでそんな苦労をせぬでもよいではないかといふ有様だ。
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 之を見た上役が、昇給せしめる時に何れを先にするか、又、免職せしむる時に何れを先にするか。参賛の努力が位育に及ぼす功徳はかくの如きものである。
 勿論方便的に参賛的言行を偽蝕するものでは論外であるが、其の職業に對して、真箇に参賛の自覚と熱意とを有するの士ならば、「道中衣食有り」で位育の事は自づと齎されるであらう。

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 上に書いた〈何を苦しんで進んでそんな苦労をせぬでもよいではないか〉と何時も私に言っていた日本一酒癖の悪い労働組合委員長がいました。職場では、怠惰のすすめをすることに情熱を傾けているかのような感じでした。
 二か月前、妻に罵られ入水自殺をしたそうです。今、あの世で、仕事のない世界でゆっくりとしていることでしょう。

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短歌
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仕事をし 学んで人世 尽くせよと
 人は産まれてくるものぞかし 7019

㷀独を虐して高明を畏るる無れ。

2014-12-25 10:15:52 | ブログ
第2189号 26.12.25(木)
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㷀独(けいどく)を虐して高明を畏るる無れ。『書経』
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 為政者は、よるべない人を虐待したり、一方において位の高い人を過分に畏れたりしてはいけない。つまり、相手の身分によって態度を変えてはいけない。
 「㷀」は兄弟のない人、「独」は子のない人。211

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 【コメント】上の『書経』の言葉はとても大事だと思います。隣の国の財閥のご令嬢が起したピーナッツ騒動は考えさせられます。日本の国は財閥解体されてよかったという人が多いようです。戦争はしてはなりませんが、悪弊は大事件が発生しないと断ち切ることは出来ないようです。
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 大財閥になった方々が、日本の皇室の皆様のように礼儀正しくあればいいのですけど。皇后陛下はテレビでしか拝見できませんが、皇后様のお姿を見た方が、超一流と絶賛されていました。かくありたいものですね。
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 連日ご紹介している菅原兵治先生著『大学味講』『農士道』はとても素晴らしいと思います。私がこうしてブログでご紹介すれば、その内に書籍を購入して読みたい・学びたいという人が、出てくると思います。
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 菅原兵治先生みたいな人が、郷土にいるということは大変有難いことだと思います。
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 人間の一生で大切なことは、健康体であること、聡明であること、品性豊かであること、忠恕の精神を涵養し、慈しむ心で人々に接すること、どんな人にも同じように対応すること、等々であろうと存じます。
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 一番いけないのは、歴史的に定着した『南洲翁遺訓』等を、個人の名誉欲のために改竄してはならないことであると思います。

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『大学味講』(第27回)
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 (四) これを実際の場合について検討してみましょう。稲を作る場合、原則としては「本」である播種、発芽が先で、それから茎、葉、花、実と、次第に「末」に向かって生長させていくのですが、しかし、もし茎や葉に病気や害虫が発生した場合は、まず「本」を培えなどといってはおられず、何をおいてもまず茎や葉の消毒をすることを「先」にせねばなりませんが、こういう場合は「末」を先にするということになるわけであります。
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『論語』(第127)
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 伯牛、疾あり。子之を問ふ。牖より其の手を執りて曰はく、「之を亡せん。命なるかな。斯の人にして斯の疾あること。斯の人にして斯の疾あること。」
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 伯牛が病気になった時、孔子が見舞いに行った。その家の牖から伯牛の手を執って、「最早命はなかろう。誠に天命である。このような人がこのような病気になるとは、このような人がこのような病気になるとは。」
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『農士道』(第12回)
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 然るに世人はともすれば、職業の位育的意義----それによって衣食して行くという方面のみを考へて狂奔し、其の参賛的意義を忘れ勝ちである。其の結果は却って衣食をすら満たし得ないといふことになるのである。それは何故か。真摯に百里の地に志す者は、五十里の地は必ず通過する。而かも其の緊張から易々として通り過ぎる如く、真に此の職業職分を通じて国家人類に對して参賛の使命を果さずには止まずと覚悟し、努力する時、其の衣食の事ぐらゐは「天は自ら助くる者を助く」るもので、必ず與へられるべきものであるからである。
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 ブログを書こうとしてインターネットを立ち上げたら、ジャーナリストの青木氏が安倍政権を痛烈に批判しているのを拝見しました。こういった方々が権力者が間違った方向に行かないよう監視することは大事なことであると思います。
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 しかし、安倍総理が暴走しようとすれば、菅官房長官が制止するであろうと思います。思うに、自由と平和もいいが、もうすこし日本に華拓いてきた日本民族の道徳精神を取り戻さなければならないと私は思うのです。
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 この『農士道』(第6回)でも紹介しましたが、〈徒に形の上で武士の真似事をする百姓(国民)になることではない。そは一言にしていへば、東洋道徳の精髄たる「士道」を、農的(国民)生活の中に實現せんとするの道の謂である。〉とあるように各人がしっかりとした自分づくりをする必要があるように思うのです。
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 漢籍を学びましょう。荘内の学風を学びましょう。

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短歌
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学道の用心いうは経典に
 絶対帰依せ法然はいう 7018 禅とは68

遠からずして復れば、悔いに祇ること无し。

2014-12-24 10:10:47 | ブログ
第2188号 26.12.24(水)
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遠からずして復(かえ)れば、悔いに祇(いた)ること无(な)し。『易経』
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 過ちとわかったら、あまり深入りしないうちにもとの道に戻っていくがよい。そうすれば決して後悔に至ることはない。
 過ちを繰り返さず、また過ちを改めるのをためらってはならない。241

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 【コメント】要は問題を起こさない、トラブルを回避せよということでありますが、過ちでなくても、世の中には分けのわからない人がいるものです。これらを如何に上手く捌くかということでしょう。ヒステリーの症状をもった妻にガタガタいわれて怒鳴り込むようなことはしてはならないと思います。穏やかに話せば物事は円満に解決するのです。山田先生、警察に調停を依頼しましょうか。汚れで詰まった排水溝を高速洗浄器で洗ってあげたり、中村天風師の運命を拓くも贈呈したことがあるのですが。
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 私のところで空手道のおけいこをする子どもの中には、学校ではどうしょうもない、会話が出来ない子どもたちがいるのです。特別支援学級の子どもたちは、優しくさとし、そして抱きしめ、いう事を聞かない時は大腿部をパッチンと叩いてひとつひとつ身体で覚えさせなければならないのです。こういう芸当は多くの御稽古事をしてきた私でないと普通の人には出来ないと思います。
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 16年目に入った32歳になった青年は、明瞭な言葉のやり取りは不可能ですが、誠心誠意面倒をみてきました。単調な技は高齢者になった私よりかうまくなってきました。何時まで空手道の修行をされますかと母上様にお聞きしてみたら、先生が倒れるまで面倒をみてくださいとお願いされました。
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 数年前、佐賀県の交差点で信号を間違えたのか、警察官に注意された青年が複数の警察官に首を絞められて死亡するという不幸な事件が発生しました。その後、警察官が被害者に告発されたやに聞きましたが、私は警察官は無罪だといったものですが、そのとおりでした。警察官の方々はそういう方のしぐさが、襲い掛かってくるように見えるのです。そういう不幸な事件を少しでもなくしたいのです。

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『大学味講』(第26回)
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 (三) ここまでなら、何も問題はありませんがさて、この次に特に「先後する所を知れば、則ち道に近し」といっているのでありますが、それは一体なぜであろうか。素朴な常識からいうと、一応は本が先で、末が後であり、始めが先で、終りが後であるとするでありましょう。 
 しかしそれだけなら、何も「その先後する所を知れば、則ち道に近し」と、先後を力説しなくてもよいでありましょう。こういう以上、何を先にして、何を後にするかということは、余程重大なことで、時には末を先にして、本を後にすることもあり、また時には、始めを後にして、終りを先にすることもあり得る、と見るべきではないでしょうか。

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『論語』(第126)
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 季氏、閔子騫(びんしけん)をして費の宰たらしむ。閔子騫曰はく、「善く我が為に辞せよ。如し我に復びする者あらば、則ち吾は汶の上にあらん。」 
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 魯の権勢家の季氏が、人を使いとして、孔子の弟子の閔子騫を召んで、己の領地の費という処の代官にしようとした。閔子騫が使者に向かって、「善く私のために御辞退申上げてください。もし再度私を御召びになるようなことがあれば、私は必ず魯の国を去って斉の國へ参ります。」と曰って季子に仕えることを欲しない意を示した。
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『農士道』(第11回)
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 物に表裏あるが如く、すべての職業に此の「位育」と「参賛」との両面が存するのである。然し此の両面は、決して排他的関係のものではなく、相応相待の一体的関係のものである。それは拾度、吾々の身体に於ける臓腑と全身との関係のやうなもので、胃が極めて健全で、よく食物を摂取吸収するといふ、胃としての位育的職分を完全に全うしてゐる時は、自づから全身の健康に貢献して居ることになり、又、胃が全身の健康に對する己が参賛的使命をよく自覚して、其の職分機能を十全に遂行せんと努むれば、自づから其の中に適当なる食物を供せられるという如き関係のものであって、両者は飽くまでも相関補全の関係たることを忘れてはならぬ。
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この位育と参賛との自覚を最もよく表した語に「自分」といふ語がある。私供は不断之を何の気無しに用ゐてゐるが、深く味って見れば、「自」は各自自身の生活たる位育的方面の自覚を意味し、之に對して「分」は国家社会に對する其の人の担当すべき分、即ち職分、身分等の参賛的方面の自覚を意味するものである。「我」を呼ぶに「自分」の語を以てした日本人の哲學は誠に深い。私供は須らく「自」と「分」との使命を一丸として「自分」の生活に徹せねばならぬ。
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短歌
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小二の子知らぬ私にお茶どうぞ
 差し向けられて心あたたまる 7017 鬼塚にて

蹞歩を積まざれば、以て千里に至るなし。

2014-12-23 11:15:18 | ブログ
第2187号 26.12.23(火)
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蹞歩(きほ)を積まざれば、以て千里に至るなし。『荀子』
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 千里の道も、一歩一歩を積み重ねなければ、到達することはできない。
 何事を成就するにも、小さなことの積み重ねなくしては不可能である。
 「蹞歩」は、右足なり左足なりを一歩だけ進めること。384

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 【コメント】人の世は、幾先年たとうとも、同じなのだと思います。いわゆる思い付きで一寸やってみて、成功するなんてことは脆いということでしょう。
 かく申す私は『南洲翁遺訓』との出会いが私の人生を大きく変えてくださいました。それは荘内の先生方のお姿が、学問を渉猟し現代社会に具現している、美しくも逞しい透徹した人間美を秘めておられるお姿に魅了されたからです。

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 寒風吹きすさぶ東北で育った先生方であるからこそ、あの尊い『南洲翁遺訓』が完成されたといえるのでしょう。
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 昨日、外国で電線に触れた猿が感電して下に落ちた所を、仲間の猿が懸命に助ける所がテレビ報道されました。その映像について、大学教授といわれる学者の二人がコメントしました。
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 一人は仲間の猿を懸命に助けている姿なのだといいました。一人は、助けるなんていう気持ちなんてないのだ、という内容であったやに思います。
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 それを拝見して大学教授で識者と言われる人々のすべてに、良識・まともな判断は出来ないのだな、と思ったことでした。私がいいたいのは、『南洲翁遺訓』改竄事件について、当該本人は大学教授らにより新学説が出て来たのだというからです。
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 先の鹿児島市議会でも質問がありましたが、単なる思い込みと名誉欲が先行し、『南洲翁遺訓』をズタズタにしているという質問がなされたのです。このことは、西郷隆盛にあやかって、自分の名声を後世に残したいからだという欲亡の顕れだという方もおられました。
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 『南洲翁遺訓』の刊行に関しては、天下の西郷先生の人格すべてを世の人々に知らしめ、世の中を少しでもよくしたいと命に代えて出版したものなのです。それは、致道館を原点として荘内に根付いた荘内人士の学問の結晶だと私は捉えています。
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 人間には過ちはつきものです。それが分かった時点で改めるべきは正すこれが賢明な人のやり方であると思います。
 このブログを御読みになられた方は、お子様に、お孫さまに荘内の学風を学ぶようお薦めされたらいかがでしょう。最初はたしかに難解で
す。35歳頃から始めた私は、何もわからないながら、毎日毎日、読み且つ筆写し続けてきました。『修身教授録』の著者・森信三先生は、日本の五大古典の一つに『南洲翁遺訓』をとりあげているのです。
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『大学味講』(第25回)
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    第五節 本 末 終 始
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    物に本末あり。事に終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し。

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 (一) すべて物事には、本と末があり、また始めと終りがあるものだというのであります。
 「物」と「事」とをわけていえば、木とか草とかいう形あるものは「物」であり、それに対して、その木を伐るとか、伐ったものを運ぶという作業や、または火事とか、水害とかいう現象を「事」というのでありまして、「事業」とか「事件」とかいうのがそれであります。

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 (二) そこで「物」には本末があるものだというのは、即ち木でいえば、種子を蒔くと、それから芽を出し、そこが「本」となって、それからだんだんと伸びて幹となり、枝葉となり、花を開き、実を結ぶとなるのですが、それらは「本」に対して「末」なのであります。
 次に「事」についていうと、それにもやはり、どこで始まって、どこで終るという、始めと終りがあるものだというのであります。

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『論語』(第125)
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 季康子問ふ「仲由は政(まつりごと)に従はしむべきか。」子曰はく、「由や果。政に従ふに於て何かあらん。」曰はく、「賜や政に従はしむべきか。」曰はく、「賜や達。政に従ふに 於て何かあらん。」曰はく、「求や政に従はしむべきか。」曰はく、「求や藝。政に従ふに於て何かあらん。」
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  魯の三桓の一人である大夫の季康子が政治を担当し得る人材について孔子に問うた。「子路は政治に当たらせ得られましょうか」。孔子が答えて、「由は決断力があります。政治に当たるくらい、何の困難もありません。」と。「子貢は政治に当らせ得られましょうか。」「賜は事理に明らかです。政治に当たるくらい、何でもありません。」と。「冉求は政治担当の能力がありましょうか。」「求は才能の多い男であります。政治に当たるくらい、何でもありません。」と答えた。
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『農士道』(第10回) 
             菅原兵治著
        外  篇
   緒 論  職業の位育と参賛    
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 如何なる職業にも、そが正しき職業たる限り、「位育」と「参賛」との二つの使命があるものである。
 「位育」とは、詳しくいへば「天地位し、萬物育す。------中庸、首章----」の意で、其の職業生活の内容がよく整うて、----例へば主人と家族、労働力と労働対象たる土地や器具等の関係がよく調和して(天地位し)、其の職業の経営がよく栄えて行き、之に従ふ人がそれに依って生活して行く(萬物育す)といふことで、職業の内面的考察であり、其の個人的使命である。
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 之に對して「参賛」とは、吾々が或る一定の職業に従って位育しつつ、其の職業を通じて、國家社会----更に大きくいへば、天地生々化育の造化のはたらきに参じ、其のはたらきの一部分を担当し之を賛(たす)けて行くということで、何れかといへば、職業の外面的考察であり、其の社会的使命である。だから最も分り易く要言すれば、位育は其の職業に従事して衣食して行くことであり、参賛は社会の為に盡して行くことであると謂ひ得よう。

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短歌
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情慾を制し余裕を心に持ち
 活学問と気合い大切  7016 海舟 果報170

水の道に従って、私を為さず。

2014-12-22 14:01:35 | ブログ
第2186号 26.12.22(月)
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水の道に従って、私を為さず。『荘子』
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 水にはおのずら水の行く道がある。ただその道に従って泳ぎ、自分の意志を用いない。これが流水を泳ぐ極意だ。
 孔子が呂梁に行ったとき、一人の若者がすさまじい急流を泳いでいた。孔子が驚嘆してその方法を聞いたときに、若者はこのことばで答えた。
 境遇に逆らわないことが、人生に生を全うする道である。367

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 【コメント】人間のトラブルも一緒だと思います。昨日も書きましたが、隣の住人が道場での音がうるさいと言って、それは凄い剣幕で怒鳴り込んできました。
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 曰はく、子どもが具合が悪くて寝ているというのです。所が、その子どもは父親と大きな声で話している声が聞こえてくるのです。子どもよりか、母親の方が普通以上に敏感らしいのです。
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 そういう場合、こういう音までならいいとお話すればいいことなのですが、それが出来ないとは悲しいことです。日本の国に空手道場はたくさんあるのですが、文武両道を標榜し、真剣にやっているのはそう多くはないと思います。
 私の周囲でも〇〇会館という道場がありますが、人間づくりには興味がないようです。 

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『大学味講』(第24回)
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 (四) 現下に思う
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 ところで、現下の世態を見るに、到る所、この止まる所の「至善」が確立していないではないでしょうか。最も道徳性の強かるべき教育の場においてさえも、文部省のいうところと、日教組のいうところは、一致しない場合が多いではありませんか。
 農政面においてこれを見ても、よく「猫の目農政」などといわれるが、米を作れといってはやめろといい、麥や豆は作らぬでもよいと思っていると、今度はうんと作れという有様で、ここにも止まるべき至善が確立されていないではないでしょうか。
 
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 最近、実業界の中から、教育勅語の捧持と、その普及の運動が起こりつつありますが、これなども、やむにやまれずして「止まる所」を求めるものと見るべきでありましょう。これらを見ても、いくら民主主義だ、自由主義だなどといっても、人間には止まるべき「至善」をもたなければ、安定は得られないものだということが、事実において物語られていると見るべきではないでしょうか。人間はやはり動揺不安にはたえ難く、止まる所を知り、「安定」を求めずには居られぬものであります。
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『論語』(第124)
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 子曰はく、回や其の心三月仁に違わず。其の餘は則ち日に月に至るのみ。
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回は三月の久しきにわたって、その心が仁の徳に違うことはないという。その他の弟子たちはその心があるいは日に一度仁に至り、或は月に一度仁に至るだけで、長続きがしない。
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『農士道』(第)
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 四、本書は何れかといへば農教原理論である。私は之と相俟って、其の實際篇として、予て調査研究中の「日本的農村」を近く發表して農政方面の研究を述べ、更に希くは私の晩年に於て「農術書」をものして、農教、農政、農術の農士道三部書とすべく企図している。此の書の内容を原理的概論に重きを置いて、餘り細部に渉らないのはその為である。
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 今や台頭しつつある新東洋に對しての日本の使命は、あらゆる點に於て誠に重い。此の時、東洋農道の研究たる此の書を刊行することは、必ずしも所以無きり非ずとの感がする。ただ愈々かうして上梓して見るとその未熟粗浅なことが深慚に堪えぬものがあるが、或は斯道開拓の鍬入れの一助ともならば幸甚である。
 猶本書の成るに當って、恩師十年の鞭正慈誨は言ふに及ばず、先輩道友の誘助に對して、深く敬謝の意を捧ぐる。
    昭和十三年歳暮 
              菅谷荘 洗心室にて
                     著者識  

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短歌
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農士道紹介するに身にあまり
  凡夫の我も ひたすら学ぶ 7015