タイトル----面と背と胸と腹『中庸』。第1030号 23.10.25(火)
『言志録』 19 面と背と胸と腹。
〈面は冷ならんことを欲し、背は煖ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す〉
〔訳文〕 顔面(今は頭脳)が冷静ならば、正しい判断ができる。背中が暖かいならば、熱烈、人を動かすことができる。虚心坦懐にして、我見がなければ、他人を容れることができる。腹が充実していれば、胆力が据わって物に動じない。人間はかくありたいものだということである。
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〔コメント〕 中村天風師、安岡正篤先生、幸田露伴はじめ多くの書を読んで参りました。そして武道空手道を研鑽して半世紀が過ぎました。極限の世界を生きて来た人々は、同様に極意を説いています。訳文にある川上正光先生の紹介は見事に的を得ていると思います。
特に「背が暖かいならば」、熱烈、人を動かすことができる。ということは、「面に現れ背にあふる」という言葉があるように、気力充実している人は、背にあらわれてくるのです。これがなければ人を統率することはできません。
人生60年としましょう。その間、如何に意義あるべく生きることが出来るか、当に自分との闘いであります。自分で決めたことを着実・確実に実行できる人にしてはじめて、人生を謳歌できたと言えましょう。着実・確実に生きるのは本人の強固な意志なのですが、そこに至るまでの学問は、自らが他の人に誇るものであってはならないのです。謙虚に人の意見を聞き、人様を立て、そして自分も立つという相互に繁栄できるものことが尊いと言えましょう。
こういう理念を為政者が大前提として戴ければ結構なのですが、ただ、政権をとりたいばかりに目の先だけで、魚を釣るごとく人々を釣った場合、半世紀後は大変な事態に遭遇するでしょう。そして普天間問題にしても、何の策もないのに、ただ口先だけでひっかきまわした挙句、後々の人々に難儀苦労をかけるというのはどうみても正常な人のすることではないでしょう。
ならば政治家があてにならなければ、市井に生きる力なき我々が、少しずつ努力し、行動を起こす以外にないと思います。それも人々を扇動するのではなく穏やかに、意見の提起をしたいものです。
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今日お墓詣りに行ってきました。そして叔母にあたる方に『新堕落論』と『老いの才覚』を贈呈してきました。身内にあたる叔母を褒めるのは気がひけますが、政治・教育・経済等々に対する観察は群を抜いているのです。そしてそこに私心がないのです。誠に慧眼そのものなのです。88歳を迎え、身体の動きは年々衰えて行きますが、郷里にこういう素晴らしい方がおられることに力づよさを感じるのです。
多くは、連日、テレビの映像に酔いしれているやに聞きますが、そういう類は一切みない、立派な日々を生きておられます。過去の市制に対しても峻厳な批評をされているのです。お互い楽しく意義あるべく生きるためには、自らか活眼し学ばなければならないと思います。