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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

面と背と胸と腹『言志録』

2011-10-25 16:55:44 | ブログ

タイトル----面と背と胸と腹『中庸』。第1030号 23.10.25(火)

 『言志録』 19 面と背と胸と腹。

〈面は冷ならんことを欲し、背は煖ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す〉

〔訳文〕 顔面(今は頭脳)が冷静ならば、正しい判断ができる。背中が暖かいならば、熱烈、人を動かすことができる。虚心坦懐にして、我見がなければ、他人を容れることができる。腹が充実していれば、胆力が据わって物に動じない。人間はかくありたいものだということである。

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〔コメント〕 中村天風師、安岡正篤先生、幸田露伴はじめ多くの書を読んで参りました。そして武道空手道を研鑽して半世紀が過ぎました。極限の世界を生きて来た人々は、同様に極意を説いています。訳文にある川上正光先生の紹介は見事に的を得ていると思います。

 特に「背が暖かいならば」、熱烈、人を動かすことができる。ということは、「面に現れ背にあふる」という言葉があるように、気力充実している人は、背にあらわれてくるのです。これがなければ人を統率することはできません。

 人生60年としましょう。その間、如何に意義あるべく生きることが出来るか、当に自分との闘いであります。自分で決めたことを着実・確実に実行できる人にしてはじめて、人生を謳歌できたと言えましょう。着実・確実に生きるのは本人の強固な意志なのですが、そこに至るまでの学問は、自らが他の人に誇るものであってはならないのです。謙虚に人の意見を聞き、人様を立て、そして自分も立つという相互に繁栄できるものことが尊いと言えましょう。

 こういう理念を為政者が大前提として戴ければ結構なのですが、ただ、政権をとりたいばかりに目の先だけで、魚を釣るごとく人々を釣った場合、半世紀後は大変な事態に遭遇するでしょう。そして普天間問題にしても、何の策もないのに、ただ口先だけでひっかきまわした挙句、後々の人々に難儀苦労をかけるというのはどうみても正常な人のすることではないでしょう。

 ならば政治家があてにならなければ、市井に生きる力なき我々が、少しずつ努力し、行動を起こす以外にないと思います。それも人々を扇動するのではなく穏やかに、意見の提起をしたいものです。 

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 今日お墓詣りに行ってきました。そして叔母にあたる方に『新堕落論』と『老いの才覚』を贈呈してきました。身内にあたる叔母を褒めるのは気がひけますが、政治・教育・経済等々に対する観察は群を抜いているのです。そしてそこに私心がないのです。誠に慧眼そのものなのです。88歳を迎え、身体の動きは年々衰えて行きますが、郷里にこういう素晴らしい方がおられることに力づよさを感じるのです。

 多くは、連日、テレビの映像に酔いしれているやに聞きますが、そういう類は一切みない、立派な日々を生きておられます。過去の市制に対しても峻厳な批評をされているのです。お互い楽しく意義あるべく生きるためには、自らか活眼し学ばなければならないと思います。


事の妙処『言志録』。

2011-10-24 10:54:09 | ブログ

タイトル---事の妙処『言志録』。第1029号 23.10.24(月)

 『言志録』 18 事の妙処。

〈凡そ事の妙処に到るは、天然の形勢を自得するに過ぎず。此の外更に別に妙無し。〉

〔訳文〕 世の中の一切のことについて、その玄妙な箇所に至るということは、自然のなりゆきを、自ら体得することに外ならない。この外にさらに妙ということはない。

〔付記〕 科学技術者が発明発見したり、詩人が自然や人情を歌いあげたり、画家が名画をかいたりすることなどは、いずれも、自然の妙理を自得してできることである。この自然の妙境を、易では自然の大道といい、仏教では諸法の実相という。

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〔コメント〕 心身統一法を創建した天風師も「真理を会得」してからは、書が上手くなったと紹介しています。天風師にしても佐藤一斎にしても、普通の人からは考えられない乱暴者であったと告白しています。それは、通常云う若気の至りということなのでしょう。それにしても、極限の世界を生きてきた哲人たちは凄いと思います。その万分の一でも真似をしたいものです。


造化の跡『言志録』

2011-10-22 10:53:08 | ブログ

タイトル---造化の跡『言志録』。第1027号 23.10.22(土)

 『言志録』 17 造化の跡

〈静に造化の跡を観るに、皆な其の事無き所に行わる。〉

〔訳文〕 心静かに、天地万物の創造化育された跡をみると、皆少しの無理もなく、しいて事を構えたようなところがない。

〔付記〕 我々も、万事、自然に任せて、無理をしないのが宜しいということであろう。筆者は相馬御風の歌を思い出す。

  「大空を、静かに、白き雲は行く、

        われも静かに、生くべかりけり」

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〔コメント〕 昨晩のBSプライムニュースに作家の曽野綾子さんが出演しました。世界中の貧困と言われる国々をみてきた人だけに、言葉に説得力がありました。

 今、日本の国でも(被災した東北の方々は例外)貧しいとかいろいろ言われているけれども、「真に貧しいというのは、今食べるものがないのです」という言葉は、曽野綾子さんならではの言葉であると思います。

 そして女史は、平成23年4月11日「読売新聞」に、次のように意見を寄せています。

 曰く、

「世界中で日本ほど贅沢が罷り通っている国はない」と痛烈に批判している。「それにかてて加えて、民主党では子供手当をどうぞと贅沢のおまけまでしている始末である。

 ただバラマキをすることで政権を手にしたいということだけで、あとは知ったこっちゃない、という具合とでもとれる戦術を展開していると言ってもいい」

 民主党の諸氏は、子供手当という制度は東欧では常識となっている、と弁明しています。思うにこれは、本当に貧しい人に支給するというのなら、多くは賛成するでしょう。が、おしなべて全てということにいろいろ議論があるところでしょう。

 一旦支給しだしたら貰って当然というふうに「権利化」して行きます。何年か経過した後、国の財政が逼迫した時、支給を廃止するという時に、どういう国家騒乱が勃発するでしょう。今のギリシャと同じようにならないと断言できるでしょうか。

 子供たちは仕事はせず、怠け、ギャンブルにうつつを抜かすということにならないと誰が断言できるでしょう。私が勤務していた会社でも権利が優先していたものです。

 仕事が増えてきたとき、次々と仕事を割り振りしようとすれば、なんでこれ以上できるものかという苦情が先でした。仕事をしない内からです。あ、こういう連中と喧嘩をするよりか、と思って文武両道をしようと5年早く退職したのでした。私にたてついた連中は、今の私同様に元気を維持しているでしょうか。それは天が許さないと思います。天風が言うように「前向きで、絶対積極」でないからです。

 本当の喜び、しあわせは、どん底の苦労を味わってきた人にして、はじめてわかるのです。


生々の道『言志録』

2011-10-20 12:26:55 | ブログ

タイトル---生々の道『言志録』。第1025号 23.10.20(木)

 『言志録』 16 生々の道

〈栽(う)うる者は之れを培う。雨露固より生生なり。傾く者は之れを覆す。霜雪も亦生生なり〉

〔訳文〕 植えた植物は、之れを培養してやるべきで、雨や霧はいきいきとして、植物の生長を助ける。また根の傾いている植物は、倒されてしまう。倒すことを助けるのは霜や雪であるが、これらもまたいきいきとしているものである。

〔付記〕 植物が生長することも、枯れてしまうことも、その物の運命で、天は固より、偏りがなく、その物の性質をそれぞれに発揮させるだけである。

 同様に、天は人に対しても偏りがなく、人はその持って生まれた素質によって、天より受けるところに厚薄があるものである。

 つまり、植物も人間も、栄枯盛衰の理は同じであるというのである。易経、繋辞上篇に「生々之を易と云う」とあるから、本文の趣旨は易の思想であろう。

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〔コメント〕 「植物も人間も、栄枯盛衰の理は同じ」であるというが、理が違うのがないでしょうか。ギリシャでは大変な抗議ストと暴動が発生しています。それは為政者が、官僚らが、真剣に論議してこなかった面もないでしょうか。

 翻って我が日本も、ギリシャの二の舞にならないと断言できるでしょうか。政治家は給料は貰いたい放題、官僚は特別会計の節減なしで行った場合、10年後、必ず暴動が起こると私は思うのです。その時は老人の私はいないかもしれませんが。

 だから『南洲翁遺訓』を青少年の体に染み込む位教えているのです。これは西郷隆盛の思想であると同時に荘内の思想でもあると私は見ています。『南洲翁遺訓』を改竄するのだという馬鹿げたことをする人間もいますが、それよりか、現存する『南洲翁遺訓』の思想をこそ、普及させるべきなのです。


修辞と立誠『言志録』

2011-10-19 12:34:47 | ブログ

タイトル---修辞と立誠『言志録』。第1024号 23.10.19(水)

 『言志録』 15 修辞と立誠

〈辞(ことば)を修めて其の誠を立て、誠を立てて其の辞を修む。其の理一なり〉

〔訳文〕 経書などの言葉の意味をよく修得して、誠の道を立てること(つまり精神修養に努めること)と、誠の道を立てるために言葉を修得することは、いずれも道理は同じである。

〔付記〕 易経に「修辞立誠」とある。

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〔コメント〕 漢籍を繙く功徳はまさに、精神の奥底に染み入る用語・言葉を知ることであると思います。特に漢字が難解だとして学校教育等では数が限られています。

 私の空手道場では4.5歳の幼児が、難解な漢字にむしろ興味を示すのです。子供は興味が旺盛だから、『南洲翁遺訓』にある難解な漢字を書いてきてくれるのです。それも面白そうに楽しそうに書いてくるのです。

 そういうことで、難解な漢字であっても心に食い入る精神修養の糧となる言葉を一つでも増やしてほしいものです。

 つい最近、アップルとかいう新商品が売り出されましたが、それらを活用する子供・青年たちと、私の空手道場で難解な漢字を書く子供たちと将来的にどちらが、精神の健康に資し、長生きをすると思いますか。単なる興味本位では子供たちの頭脳を含めた身体の骨格にはよりよい効果は生み出さないと私は思うのですが。それは単なる知識は、精神を奮起させる原動力にはならないと思うからです。

 円心会の師範をはじめご父兄の皆様の、ご意見を戴ければと存じます。