味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

偉人の紹介「二宮尊徳」。

2010-10-04 16:35:41 | ブログ

タイトル----偉人の紹介「二宮尊徳」。 第609号 22.10.04(月)

 相模の貧農の子。幼名金次郎。天明七年生。勤倹力行、家を興し、村を興し、報徳を説き、経済に長じていた。安政三年歿す。從四位を贈られ、二宮神社に祀らる。

 豆の字は豆にあらず。

 相馬中村の藩士富田高慶、相馬藩の窮乏を救いたいと、江戸へ出て昌平黌に学び、名家の門をたたいたが、どうも自分の心にぴったり来るものがなかった。或る日二宮尊徳の話を聞いて、我が師とすべきは此の人の外にないと、持物全部を売って旅費をととのへ、桜町の陣屋へ訪ねて来た。

 すると先生は、『儒学者に逢う用はない』と逢ってくれない。高慶は逢へる迄死んでも帰らないと決心し、隣村谷田貝村に住み、夜村民に読書を教え、それで生活して、昼は桜町の陣屋へ通って、百日ばかりもたった。尊徳先生も、『執念深い人もあるものじゃ』と初めて逢ってくれることになった。 

 高慶が恐る恐る訪ねて行くと、尊徳先生は、『貴下は学者ということじゃが、豆という字をご存じか』これが最初の挨拶でした。高慶心を押鎮めて、

『はい存じております』

『ではそこへ豆という字を書いてください』と家人に命じて紙と筆とをもって来させた。高慶謹んで筆をとり、肉太に豆の一字、我ながら良く出来たと思うように書いた。尊徳は更に僕を呼んで、厩から馬を縁側に引かせ、蓑に豆を盛ってこさせた。そして豆の字を書いた紙と一と握りの豆を馬の鼻づらに突きつけて、

『どうじゃ、何方も豆じゃが、貴下の書いた豆と拙者の作った豆と、何方を馬が食うだろう』

馬は尊徳の出した豆を、鼻を鳴らして食った。『どうじゃ、よくは書いてあるが、この豆は馬が食わぬぞ、拙者の作った豆は粗末ながら、馬が食うぞ』

高慶は一語を発することが出来なかった。

『豆ありて豆の字が出来たか、豆の字あって豆が出来たか』

千古の確言、高慶豁然として開眼した。