タイトル----言志後録の紹介、2-84. 第618号 22.10.12(火)
言志後録・川上正光訳2-84を紹介します。
学 と 問
学は諸(こ)れを古訓に稽(かんが)え、問いは諸れを師友に質(ただ)すことは、人皆之れを知る。学は必ず諸れを躬(み)に学び、問いは必ず諸れを心に問うものは、其れ幾人あるか。 『言志後録』
学問の「学」は古人の注釈を今に比べ合わせ、「問」の方は師なり友なりに質すことは人皆知っている。しかし「学」は必ずこれをわが身に実行し、また「問」は自分の心に問うて反省自修するという一番大切なことを行っている者は果して何人いるだろうか。
次に二宮尊徳のことばを引用しておこう。
「書を読んで身に行わない者は、丁度鍬を買って、耕さないと同じであって、耕さなければ、どうして鍬を買う必要があろうか。行わなければ、どうして書を読む必要があろうか。」
さらにいう。
「書を読む者は、是非とも人を済(すく)う心がなければならない。書は人を済う道を書きのせたものであるので、これを読んでその心を存しなければ、なんの益があろう。」
つまり学問は活きていなければいけないということである。
……
二十数年前に購入した言志四録を何回読んだことでしょう。要は、読みっぱなしにしないで、その人なりの解釈・理解でもって活用しなさい、するべきだ、という二宮尊徳の教えでありましょう。
解釈・活用することは何人と云えども自由ではあるが、歴史的に定着した事項を幾らペンを運べるからといって、物議を醸すことは賢明な人ならぱしないであろう。そういう御仁は、やがて天の成敗を受けるであろう。