第2983号 329.03.01(水)
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我が蒸民(じょうみん)を立つ。爾の極に匪(あら)ざるは莫(な)し。『詩経』
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「極」は中正至極。聖天子がわれわれ庶民の生活を安全に立ててくれる。しかも世の中に立って、中正の道を行ないうるようにしてくれる。190
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【コメント】出来れば何事も有難いと感じ、その幸福感を人様へも提供してあげる心豊かな人間になりたいものです。そういう中で、人格の勝負をしたいものですね。
昨夜は中澤今日子先生がお電話を下さり、旅での思い出のヒトコマをお話してくださいました。高木先生も早々とお葉書を下さいました。誠にありがとうございました。
昨日は確定申告の手続きに行き、税理士の先生に親切に指導して戴きました。この半年間、次々と行事が飛び込み大忙しでした。
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床についてから中島先生から電話がありました。小学生でお悩みのあるお子さんがおられるので、木曜日の空手道稽古のときにつれてくるということでした。
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その後、中島瑠果様からもすぐ電話があり、イギリスに2週間学びの旅に行かれるということをお聞きしました。空手道衣を持参して得意の空手の舞を披露してきてくださいと激励しました。
おおよそ5年間の修行なのですけど、その倍の修行をしてきたと思える技術の習得をされたと評価しています。
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地 -----至誠の人 西郷隆盛」(第23回)
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今人に在らず 古人在り
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徳之島幽囚はひどいものだったようです。格子をめぐらせただけの、吹きさらしの二坪の牢獄で、豚小屋といったほうが良かったといいます。西郷はそのなかで水一杯要求せず、ただ端坐黙想していて、数カ月経ったときには、人に接する穏やかな態度は前と変わらなかったのですが、すっかり憔悴してしまったといいます。
そのときのことを追憶して、孤島幽囚の楽しみ、といっているのです。今の世の中の毀誉褒貶に煩わされず、古典を読んで古人の心と親しんでいれば良かったと懐かしんでいるのです。常人と桁の違う達人の心境です。
いちばん人口に膾炙しているのは次の詩です。
幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し
丈夫は玉砕し 甎全を愧ず
我が家の遺事 人知るや否や
児孫のために美田を買はず
もちろん韻をふんだ立派な詩ですが、詩の巧拙など論じる人はいません。真情そのものが、そのまま文字となり詩となっています。/font>
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『臥牛菅実秀』(第515回)
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ただ記録には、明治二十三年に西田川郡議会、二十四年に飽海郡農会、二十五年に本間光美、二十六年に東田川郡農会が、それぞれ福岡から農業教師を招いて乾田馬耕の普及につとめたと、しるされているだけであるが、石川秀助談話にもとづけば、実秀が明治二十一年ころに確信を得て、伊佐教師の身分も、新らしい農法の普及も、すべて本間光美に一任したのであった。光美は実秀を本間家の最高顧問として指導を仰いでおる人であり、実秀にとって光美は、実秀の抱いている農業発展の抱負の大きな協力者だったので、この画期的な農法の普及の一切を托したものであろう。
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我が蒸民(じょうみん)を立つ。爾の極に匪(あら)ざるは莫(な)し。『詩経』
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「極」は中正至極。聖天子がわれわれ庶民の生活を安全に立ててくれる。しかも世の中に立って、中正の道を行ないうるようにしてくれる。190
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【コメント】出来れば何事も有難いと感じ、その幸福感を人様へも提供してあげる心豊かな人間になりたいものです。そういう中で、人格の勝負をしたいものですね。
昨夜は中澤今日子先生がお電話を下さり、旅での思い出のヒトコマをお話してくださいました。高木先生も早々とお葉書を下さいました。誠にありがとうございました。
昨日は確定申告の手続きに行き、税理士の先生に親切に指導して戴きました。この半年間、次々と行事が飛び込み大忙しでした。
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床についてから中島先生から電話がありました。小学生でお悩みのあるお子さんがおられるので、木曜日の空手道稽古のときにつれてくるということでした。
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その後、中島瑠果様からもすぐ電話があり、イギリスに2週間学びの旅に行かれるということをお聞きしました。空手道衣を持参して得意の空手の舞を披露してきてくださいと激励しました。
おおよそ5年間の修行なのですけど、その倍の修行をしてきたと思える技術の習得をされたと評価しています。
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地 -----至誠の人 西郷隆盛」(第23回)
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今人に在らず 古人在り
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徳之島幽囚はひどいものだったようです。格子をめぐらせただけの、吹きさらしの二坪の牢獄で、豚小屋といったほうが良かったといいます。西郷はそのなかで水一杯要求せず、ただ端坐黙想していて、数カ月経ったときには、人に接する穏やかな態度は前と変わらなかったのですが、すっかり憔悴してしまったといいます。
そのときのことを追憶して、孤島幽囚の楽しみ、といっているのです。今の世の中の毀誉褒貶に煩わされず、古典を読んで古人の心と親しんでいれば良かったと懐かしんでいるのです。常人と桁の違う達人の心境です。
いちばん人口に膾炙しているのは次の詩です。
幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し
丈夫は玉砕し 甎全を愧ず
我が家の遺事 人知るや否や
児孫のために美田を買はず
もちろん韻をふんだ立派な詩ですが、詩の巧拙など論じる人はいません。真情そのものが、そのまま文字となり詩となっています。/font>
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『臥牛菅実秀』(第515回)
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ただ記録には、明治二十三年に西田川郡議会、二十四年に飽海郡農会、二十五年に本間光美、二十六年に東田川郡農会が、それぞれ福岡から農業教師を招いて乾田馬耕の普及につとめたと、しるされているだけであるが、石川秀助談話にもとづけば、実秀が明治二十一年ころに確信を得て、伊佐教師の身分も、新らしい農法の普及も、すべて本間光美に一任したのであった。光美は実秀を本間家の最高顧問として指導を仰いでおる人であり、実秀にとって光美は、実秀の抱いている農業発展の抱負の大きな協力者だったので、この画期的な農法の普及の一切を托したものであろう。
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