第2984号 29.03.02.(木)
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賢者は其の昭昭を以て、人をして昭昭たらしむ。『孟子』
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賢者は自分の明らかな徳をもって民を善導し、民を徳の明らかな人々とする。
『大学』のいわゆる「明徳を天下に明らかにす」と同意。140
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【コメント】早いもので3月になりました。桜が遠近にチラホラ見えると、桜並木を歩きたくなります。
今日は第二道場に新人が見える予定です。空手道と『南洲翁遺訓』を通じて人助けが出来ればと思っています。
どんな子供さんであっても、名誉を与え乍ら導けば、素晴らしく成長すると確信しています。
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地----至誠の人 西郷隆盛」(第24回)
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「天を敬し、人を愛する」こころ
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西郷は若い頃から仲間のなかで尊敬されていました。そして薩摩に西郷あり、と天下に知られるようになりました。そのためには、当時は学問と武術が人にすぐれていることが絶対必要条件でした。人間のスケールが大きいといっても、若いときにそれだけで尊敬されるのは無理でしょう。西郷は幼い頃な肱を痛めて剣道はあまりやっていませんから、勝海舟や坂本竜馬のようにそれで尊敬されていたわけではありません。やはり漢学で人に抜きん出ていたとしか考えられません。それは当時のこととしては、あまりに当たり前のことで書くまでもないことだったのでしょう。
明治七年鹿児島に隠退て私学校を開くにあたって、西郷は佐藤一斎の『言志四録』のなかから百一章を選んで、自らそれを主抄し、生徒に授けました。
それを見るだけでも、幕末最高の大儒佐藤一斎の後をも継げる学識があったことが窺われます。
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岡崎様の書き方の何と丁寧であることでしょう。人々が仰ぎ見るに西郷南洲翁と同じくらいであると思います。
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『臥牛菅実秀』(第516回)
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この乾田馬耕法は、湿田を人力で鋤き起していた従来の農法ではできなかった深耕を可能にした。
そして馬耕によって耕土が深くなったことは多量の肥料を有効に使うことを可能にし、それは同時に良質の堆肥作りに大きな関心を促し、増産の重要な基盤となった。
さらに湿田の乾田化は、灌排水施設の整備や、畦畔の除去改良などを内容とする耕地整理の動きを呼び起していった。
このように乾田馬耕の導入は連鎖反応的に荘内の稲作を飛躍的に発展させたのである。
本間光美は、貴重品のように丁寧に包んだ一握りの堆肥を持って、ときどき実秀をたづねてきたということである。座敷に持ち込まれた母なる大地の活力素、堆肥を前にして、実秀と光美は、米の国荘内の豊穣について大いに語りあったのであろう。
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賢者は其の昭昭を以て、人をして昭昭たらしむ。『孟子』
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賢者は自分の明らかな徳をもって民を善導し、民を徳の明らかな人々とする。
『大学』のいわゆる「明徳を天下に明らかにす」と同意。140
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【コメント】早いもので3月になりました。桜が遠近にチラホラ見えると、桜並木を歩きたくなります。
今日は第二道場に新人が見える予定です。空手道と『南洲翁遺訓』を通じて人助けが出来ればと思っています。
どんな子供さんであっても、名誉を与え乍ら導けば、素晴らしく成長すると確信しています。
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『教養のすすめ』「無我の中で達する境地----至誠の人 西郷隆盛」(第24回)
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「天を敬し、人を愛する」こころ
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西郷は若い頃から仲間のなかで尊敬されていました。そして薩摩に西郷あり、と天下に知られるようになりました。そのためには、当時は学問と武術が人にすぐれていることが絶対必要条件でした。人間のスケールが大きいといっても、若いときにそれだけで尊敬されるのは無理でしょう。西郷は幼い頃な肱を痛めて剣道はあまりやっていませんから、勝海舟や坂本竜馬のようにそれで尊敬されていたわけではありません。やはり漢学で人に抜きん出ていたとしか考えられません。それは当時のこととしては、あまりに当たり前のことで書くまでもないことだったのでしょう。
明治七年鹿児島に隠退て私学校を開くにあたって、西郷は佐藤一斎の『言志四録』のなかから百一章を選んで、自らそれを主抄し、生徒に授けました。
それを見るだけでも、幕末最高の大儒佐藤一斎の後をも継げる学識があったことが窺われます。
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岡崎様の書き方の何と丁寧であることでしょう。人々が仰ぎ見るに西郷南洲翁と同じくらいであると思います。
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『臥牛菅実秀』(第516回)
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この乾田馬耕法は、湿田を人力で鋤き起していた従来の農法ではできなかった深耕を可能にした。
そして馬耕によって耕土が深くなったことは多量の肥料を有効に使うことを可能にし、それは同時に良質の堆肥作りに大きな関心を促し、増産の重要な基盤となった。
さらに湿田の乾田化は、灌排水施設の整備や、畦畔の除去改良などを内容とする耕地整理の動きを呼び起していった。
このように乾田馬耕の導入は連鎖反応的に荘内の稲作を飛躍的に発展させたのである。
本間光美は、貴重品のように丁寧に包んだ一握りの堆肥を持って、ときどき実秀をたづねてきたということである。座敷に持ち込まれた母なる大地の活力素、堆肥を前にして、実秀と光美は、米の国荘内の豊穣について大いに語りあったのであろう。
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