第2260号 27.03.06(金)
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大禹は聖人なり。乃(すなわ)ち、寸陰を惜しめり。衆人は当(まさ)に分陰を惜しむべし。『十八史略』
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禹帝は聖人でありながら一寸の光陰を惜しんだ。だから、われわれ凡人は一分の光陰をも惜しむべきだ。(陶侃のことば)610
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【コメント】舜帝は一寸の光陰も惜しんで政務にとりくんだから、聖人と言われたのであろうと思います。
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出来るものなら我々凡人も、一寸の光陰を惜しんで事に臨みたいものです。かく申す私も、それに似たようにしているのですが、元々浅学菲才の身ゆえ、大した成果は見えてきません。
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昨夜は第二道場での御稽古でした。円心会のヒーローたちが荘内南洲会の先生方をお迎えした時同様、空手道と『南洲翁遺訓』の学修に精一杯取り組んでくださいました。
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3歳児・かなこちゃん、宗一郎くん、礼弥くんらに、『南洲翁遺訓』の勉強を一所懸命にして、やがて『南洲翁遺訓』をテーマにした講演活動をしてくださいとお話しました。子供たち自身が『南洲翁遺訓』を骨格にした道徳論、教育論に言及したら世の中よくなると思うのですが、如何でしょう。
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先日、荘内南洲会の先生方を迎えての交流会にメディアに取材依頼をしたのですが、『南洲翁遺訓』が難解であるため、今日どのように教材として活かすことが出来るか、その展開する方法等がわからなかったのかな、と思うことでした。
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『大学味講』(第97回)
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しかしこういう解釈だけでは一片の観念論に終るのでありまして、こういう風格を備えた実在する人物を眼前において「ああ、こういう人がらを、瑟たりとか、たりというのかなあ」と、生きた人物を以て、生きた会得(理解)をすることであります。鍛えぬいた高僧を思わせるものがあるではありませんか。
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以上は人格の静的顕現の一面でありますが、本当に練った人間には、そういう静かに深い一面だけではなく、また一面には、強くたくましく、露堂堂と「誠」の威力を現わす動的の一面もあるのでありまして、それが「赫たり、喧たり」であります。
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『論語』(第197)
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子曰はく、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見(あらわ)れ、道なければ則ち隠る。邦道あるに貧しく且つ賤しきは恥なり。邦なきに富み且つ貴きは恥なり。
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孔子が言うには、『道を信ずること固く、学を好んで道を求め、学び得たる正しき道は命にかけても守り通さねばならぬ。これが人の身の立て方である。
乱れるようなきざしのある国には入らず、そして既に乱れきった国には居らず、天下に道義が行われている場合には出向いて働き、天下に道義が行われぬ場合には隠れて出でぬ。これが人の世の処しかたである。したがって道ある国にありながら用いられずして貧賤なのは恥ずべきことであり、又道なき国に用いられて富貴なのも恥ずべきことである。
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『農士道』(第79回)
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出ようと、蔵れようと、其人の実力其のものには本質的変化増減は無い筈のものである。----恰も十円の金は、之を財布の中に深く蔵して置くも、人の前に見せびらかして歩くも、其の十円の金額其のものには増減が無いと同様に然るべきものであるのに、人間の世俗的なる慾念は、有位有名の「行」をのみ之を望んで、光をつつみ香をかくして無位無名の「蔵」に安立することが出来難く、遂に性命の衰弱を来すに至るものであるが、殊に農道生活に於ては最も然りとする。
由来、農道生活は深く山澤の間に在って、人間よりも物言わぬ自然を相手にすることの多い生活である。
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百人一首
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夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづくに 月宿るらむ 【清原深養父】36
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大禹は聖人なり。乃(すなわ)ち、寸陰を惜しめり。衆人は当(まさ)に分陰を惜しむべし。『十八史略』
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禹帝は聖人でありながら一寸の光陰を惜しんだ。だから、われわれ凡人は一分の光陰をも惜しむべきだ。(陶侃のことば)610
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【コメント】舜帝は一寸の光陰も惜しんで政務にとりくんだから、聖人と言われたのであろうと思います。
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出来るものなら我々凡人も、一寸の光陰を惜しんで事に臨みたいものです。かく申す私も、それに似たようにしているのですが、元々浅学菲才の身ゆえ、大した成果は見えてきません。
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昨夜は第二道場での御稽古でした。円心会のヒーローたちが荘内南洲会の先生方をお迎えした時同様、空手道と『南洲翁遺訓』の学修に精一杯取り組んでくださいました。
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3歳児・かなこちゃん、宗一郎くん、礼弥くんらに、『南洲翁遺訓』の勉強を一所懸命にして、やがて『南洲翁遺訓』をテーマにした講演活動をしてくださいとお話しました。子供たち自身が『南洲翁遺訓』を骨格にした道徳論、教育論に言及したら世の中よくなると思うのですが、如何でしょう。
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先日、荘内南洲会の先生方を迎えての交流会にメディアに取材依頼をしたのですが、『南洲翁遺訓』が難解であるため、今日どのように教材として活かすことが出来るか、その展開する方法等がわからなかったのかな、と思うことでした。
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『大学味講』(第97回)
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しかしこういう解釈だけでは一片の観念論に終るのでありまして、こういう風格を備えた実在する人物を眼前において「ああ、こういう人がらを、瑟たりとか、たりというのかなあ」と、生きた人物を以て、生きた会得(理解)をすることであります。鍛えぬいた高僧を思わせるものがあるではありませんか。
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以上は人格の静的顕現の一面でありますが、本当に練った人間には、そういう静かに深い一面だけではなく、また一面には、強くたくましく、露堂堂と「誠」の威力を現わす動的の一面もあるのでありまして、それが「赫たり、喧たり」であります。
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『論語』(第197)
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子曰はく、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見(あらわ)れ、道なければ則ち隠る。邦道あるに貧しく且つ賤しきは恥なり。邦なきに富み且つ貴きは恥なり。
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孔子が言うには、『道を信ずること固く、学を好んで道を求め、学び得たる正しき道は命にかけても守り通さねばならぬ。これが人の身の立て方である。
乱れるようなきざしのある国には入らず、そして既に乱れきった国には居らず、天下に道義が行われている場合には出向いて働き、天下に道義が行われぬ場合には隠れて出でぬ。これが人の世の処しかたである。したがって道ある国にありながら用いられずして貧賤なのは恥ずべきことであり、又道なき国に用いられて富貴なのも恥ずべきことである。
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『農士道』(第79回)
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出ようと、蔵れようと、其人の実力其のものには本質的変化増減は無い筈のものである。----恰も十円の金は、之を財布の中に深く蔵して置くも、人の前に見せびらかして歩くも、其の十円の金額其のものには増減が無いと同様に然るべきものであるのに、人間の世俗的なる慾念は、有位有名の「行」をのみ之を望んで、光をつつみ香をかくして無位無名の「蔵」に安立することが出来難く、遂に性命の衰弱を来すに至るものであるが、殊に農道生活に於ては最も然りとする。
由来、農道生活は深く山澤の間に在って、人間よりも物言わぬ自然を相手にすることの多い生活である。
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百人一首
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夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを
雲のいづくに 月宿るらむ 【清原深養父】36