タイトル---節義廉恥の道とは。第1250号 24.05.21(月)
節義というのは、人間が考えること、行うことが正しくすじ道にかなっておることであり、廉恥というのは、心清くして恥を知ることである。それは天地の公道であり、一時の人為などで動かない不動の人間の道である。
よく儒教でいう五倫の道即ち親子の道、君臣の道、夫婦の道、兄弟の道、朋友の道などのことと、五常の道即ち仁と義と礼と知と信の五つの徳目の総称であるのである。これはむずかしいもののように思いがちであるが、決してそうではなく、誰でも毎日踏み歩んでおる道のことである。
人間には又一面、その人間の道を見失うこともあり、弱くなることもある。これに克つのが克己ともいわれて、身を修める為に一番大事なことであると思われる。国を維持するのも同じく、この正しい道を国民が失えば国は遠からず亡乱に至ることになるのである。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)
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〔コメント〕 『南洲翁遺訓』は数多ありますが、小野寺理事長の『南洲翁遺訓』に勝るものはないでありましょう。まさしく『南洲翁遺訓』本場の書ということです。こういう訓戒を一番順守しなければならないのが、国政を預かる人々でしょう。そして物書き、評論家の方々でしょう。
ところがこの偉い先生方、右へ行ったり左へ行ったりと、それはそれはお見事のようであります。とにかく自分に都合のよういように解釈しているようであります。
このことを森信三先生は『修身教授録』の中で見事に解説しています。曰く、本人が知らないだけで、天はしかと見ぬいており、いつかその咎めがあるようなふうに解説しています。私ごとき気の小さい人間にはとても出来ないことなのですが。
拙い歌をひとつ。
空手道場で、凄い目つきで睨まれました。将来が楽しみです。これは文武の道を説く意味を解しているかの如き、顔の相でありました。奢侈を戒め贅沢をせず、廉潔な人物像を求めてやまない幼児の、未来を見据えた姿でありました。こういうのは、ただスポーツの競争社会だけでは生まれてこないのです。漢籍等々の文言を少しずつ咀嚼させていかなければならないのです。円心会の幼児たちは『南洲翁遺訓』を暗記すること、これ偏に精進しているのです。本当の意味が分からなくても、方向性は認知しているのです。
本来ならば、そういう道を説くお話をこそ保護者が聴かなければならないのですが、全く無頓着、これでは子供は伸びないのです。今朝の学問館「小学教師の理想」にも書いていまたが、今時そういう先生方はおられないようです。大変悲しいことです。
幼子の眼光鋭き深奥は
男児の魂鳳の雛