味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天下は財なきを患えずして、人の以て之れを分かつなきを患う。

2015-05-14 10:22:30 | ブログ
第2328号 27.05.14(木)
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天下は財なきを患えずして、人の以て之れを分かつなきを患う。『管子』
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 国家に財産が足りないということは、さほど心配すべきことではない。現在ある財物をいかに公平に分かつかということに心を配るべきだ。
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 『論語』にも「寡きを患えずして均しからざるを患う」とあります。397

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 【コメント】今の日本の国では、ある程度調和よく政策として施行しているように思います。ただ若い人々の処遇も考慮しておかないと暴動が起こらないものでもありません。仕事はあるけど汚れる仕事、3Kといわれる仕事は嫌われる傾向にあるのは残念に思います。私の場合、泥まみれになって働いてきたことが回想されます。
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『大学味講』(第165回)
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 (十) 以上、五つの項目をあげて、家を斉えるには、家人に対してこれらの態度に辟しないようにすることが、家を斉えるものの身を修めるゆえんであることを教えているのであります。しかしそれはあくまでも、「辟しない」ということであって、親愛してはならぬとか、賤悪してはならぬとか、畏敬してはならぬとか、哀矜してはならぬとか、傲惰してはならぬとか、というのではありません。
 このことは、前章の「正心」における忿懥、恐懼、好楽、憂患の情と、正しい状態に在る心---即ち「正心」---との関係と通ずるものがあり、参照されたいと存じます。ただ正心章においては、心中の事として説いているのですが、この修身章においては、事上の対人関係に即して、そこに現われる私どもの「態度」として説いているのでありますから、私どもはこれを単なる文句としてでなく、日常の生活に活用し、いわゆる「事上錬磨」してまいりたいと存じます。

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『論語』(第265)
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 閔子側(びんしかたわ)らに侍す。(ぎんぎん)如たり。子路行行如たり。冉有・子貢侃々如たり。子楽しむ。由が如きは其の死を得ず。然り。
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 閔子騫が孔子の側に立っていた。その様子は和らぎ悦んでいる。子路も側にいた。その様子は剛強である。冉有と子貢も側にいた。その様子は剛直である。孔子はこれを見て楽しんだ。英才を得てこれを教育することができたからである。子路の剛強なところは禍いを受ける恐れがあるから、孔子はこれを戒めて、「由のような人は畳の上で死ぬことは出来ないかもしれない」と曰われた。
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『農士道』(第144回)
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 正に「野」そのものの義仲の性格が躍如としてゐるではないか。然し義仲には瀆武と称さるべき處があった。彼には憾むらくは、破壊はあったけれども建設が無かった。雑草に火をつけて焼き払ひはしたが、愈々開墾した後に蒔くべき新しい種子と、之を培ふべき肥料とが無かった。而して彼の破壊の後に新しい武家政治の基を建設したものこそ誰あろう。或は伊豆に、或は平泉に幾年かの忍苦の生活を嘗め尽くした流人頼朝義経の兄弟の率ゆる関東東北の「野武士」「東夷」ではなかったか。
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