第2391号 27.07.16(木)
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鏡は清を執りて事なし。『韓非子』
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鏡というものは、自分の表面をきれいにとり守って、外物をいかに映そうかと意を用いることはしない。美しいものも醜いものもありのままに映す。
人間もそのように、心を虚しくして外物に接すべきだ。407
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【コメント】人間自然体が一番よろしいかと思います。そして西郷南洲翁みたいに私心がなく、清貧であっても堂々として生きたいものです。
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『大学味講』(第228回)
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(五) 一体「本末」というのは、前述のように本来は一体なのでありますが、とちらが先かといえば、「本」が先であり、「末」の枝葉の方は後に出てくるのであります。しかしだからといって、本だけが大事で、末の葉や花や、そしてそれから生ずる実までを、どうでもよいものだなどとして軽んずるのがあるならば、それはとんでもないことでありましょう。むしろ私ども人間にとって直接大事なものは、葉であり、花であり、実であって、それを得るために根本を培養するのだともいえるでありましょう。ですから、軽重の面からいうならば、本も末もどっちも重い(大切な)ので、どっちが重くて、どっちが軽いなどということはいわれぬものであります。
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『論語』(第328)
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子曰はく、君子は事へ易くして説ばしめ難し。之を説ばしむるに道を以てせざれば説ばず。其の人を使ふに及んでや之を器にす。小人は事へ難くして説ばしめ易し。之を説ばしむるに道を以てせずと雖も説ぶ。其の人を使ふに及んでや備はらんことを求む。
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孔子が言うには、上に立つ人が君子という立派な人なら、その部下として事えることはやさしいが、御機嫌をとって悦ばせることは難しい。なぜ喜ばせにくいかといえば、喜ばせるには正しいことをしなくては君子は喜ばないからである。君子に事えやすいというのは、君子は人を使うのに、使われる人の器量に応じてこれを使うからである。
これに反して、小人物には仕えにくいが、その人を喜ばすことはやさしい。小人物の上役を喜ばすには、正しいことをしなくても、へつらいとか利益を以てすれば、喜ぶからである。しかし、小人物の上役が、部下を使う場合には、その使われる人に対して、すべての才能が具わっていることを要求するから、甚だ仕えにくいことになるのである。
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『農士道』(第207回)
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よく「農村の指導も従来のやうに技術や経済のみではならぬ。もっと農民の精神的修養を重んぜねばならぬといふ。農民精神の涵養、農道精神の鍛練----それは勿論尤もなことだ。然し農民精神とか、農道精神とかは一体如何なるものか。之に対して一部の人はいう----黙って働けば自らにわかって来るものだと。かくて要するに従来の農民指導の不足不備を痛感して、もっと精神修養をなせという。然しそれが、従来の技術的、経済的指導に比して、精神的指導という新なる分野の開拓に対して、果たして何れ程の素養と資料とを有するや。それは恰も今までの耕地面積ではどうしても足りないから新しい耕地を拓かねばならぬ。新耕地を拓け!新耕地を拓け!としきりにすすめつつ、然かも、何處に行って、如何して開墾して、如何して耕作して行くべきかという具体的の何ものをも示さぬようなものではあるまいか。それも指導者自身は已に詣って居て而も安価にそれを示さぬというならばまだしも、指導者自身にも未だ其の境を究めずして、徒らに゛精神修養の天地に行け行けと叱咤鞭撻するのみでは、決して親切なる所以ではあるまいと思う。
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鏡は清を執りて事なし。『韓非子』
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鏡というものは、自分の表面をきれいにとり守って、外物をいかに映そうかと意を用いることはしない。美しいものも醜いものもありのままに映す。
人間もそのように、心を虚しくして外物に接すべきだ。407
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【コメント】人間自然体が一番よろしいかと思います。そして西郷南洲翁みたいに私心がなく、清貧であっても堂々として生きたいものです。
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『大学味講』(第228回)
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(五) 一体「本末」というのは、前述のように本来は一体なのでありますが、とちらが先かといえば、「本」が先であり、「末」の枝葉の方は後に出てくるのであります。しかしだからといって、本だけが大事で、末の葉や花や、そしてそれから生ずる実までを、どうでもよいものだなどとして軽んずるのがあるならば、それはとんでもないことでありましょう。むしろ私ども人間にとって直接大事なものは、葉であり、花であり、実であって、それを得るために根本を培養するのだともいえるでありましょう。ですから、軽重の面からいうならば、本も末もどっちも重い(大切な)ので、どっちが重くて、どっちが軽いなどということはいわれぬものであります。
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『論語』(第328)
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子曰はく、君子は事へ易くして説ばしめ難し。之を説ばしむるに道を以てせざれば説ばず。其の人を使ふに及んでや之を器にす。小人は事へ難くして説ばしめ易し。之を説ばしむるに道を以てせずと雖も説ぶ。其の人を使ふに及んでや備はらんことを求む。
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孔子が言うには、上に立つ人が君子という立派な人なら、その部下として事えることはやさしいが、御機嫌をとって悦ばせることは難しい。なぜ喜ばせにくいかといえば、喜ばせるには正しいことをしなくては君子は喜ばないからである。君子に事えやすいというのは、君子は人を使うのに、使われる人の器量に応じてこれを使うからである。
これに反して、小人物には仕えにくいが、その人を喜ばすことはやさしい。小人物の上役を喜ばすには、正しいことをしなくても、へつらいとか利益を以てすれば、喜ぶからである。しかし、小人物の上役が、部下を使う場合には、その使われる人に対して、すべての才能が具わっていることを要求するから、甚だ仕えにくいことになるのである。
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『農士道』(第207回)
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よく「農村の指導も従来のやうに技術や経済のみではならぬ。もっと農民の精神的修養を重んぜねばならぬといふ。農民精神の涵養、農道精神の鍛練----それは勿論尤もなことだ。然し農民精神とか、農道精神とかは一体如何なるものか。之に対して一部の人はいう----黙って働けば自らにわかって来るものだと。かくて要するに従来の農民指導の不足不備を痛感して、もっと精神修養をなせという。然しそれが、従来の技術的、経済的指導に比して、精神的指導という新なる分野の開拓に対して、果たして何れ程の素養と資料とを有するや。それは恰も今までの耕地面積ではどうしても足りないから新しい耕地を拓かねばならぬ。新耕地を拓け!新耕地を拓け!としきりにすすめつつ、然かも、何處に行って、如何して開墾して、如何して耕作して行くべきかという具体的の何ものをも示さぬようなものではあるまいか。それも指導者自身は已に詣って居て而も安価にそれを示さぬというならばまだしも、指導者自身にも未だ其の境を究めずして、徒らに゛精神修養の天地に行け行けと叱咤鞭撻するのみでは、決して親切なる所以ではあるまいと思う。
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