第3126号 29.07.22(土)
浄几明窓、古人の書を読む。人間の幸福此れより大なるはなし。史を読むは無窮の懐あり。千古を洞観し、古今を一視す。人生の一大事なり。『東洋人物学』123
浄い机、明るい窓に倚って古人の書を読むことは、人間の幸せの中でも此れより大なるものはない。史を読むということは極まりない奥深さと歓びがある。連綿と続いてきた悠久の月日の中で、人生の一大快事といっていい味わいがある。
【コメント】漢文調の得も言えぬ味わいのある文言です。大した学歴・能力とてない私ですが、半世紀にわたり、購入し、読み感動した作品を片っ端から書き写してきました。
この所は心の栄養剤となる漢籍を繙き、読み、書き写す道楽の毎日です。お蔭さまで高齢者特有の呆けは無縁のような気が致しています。
通常云うギャンブルにうつつを抜かすよりか、歴史的に読まれ続けている文学作品をお読みになられた方が満足感一入となることでありましょう。
元政治家が自分の名声を裏から誇示したいために、天才なる者を紹介していますが、その天才君が現職の時、テレビに映ると昭和天皇はテレビのスイッチを切ったとお聞きしたものです。
世の人々のためになることならいいのですが、背景に懐こやしの一面があってはならないのです。西郷隆盛の漢詩にある、「過ちを斉しうしては之を己にかい、巧を同じうしては是を人に売れ」という精神こそ歴史的に人々から称賛されると思います。
昨日の大相撲で白鳳が高安を下しました。私が言及したハリテは目立ちませんでしたが、歴史に名を刻んだ大横綱となった訳ですから、これからはその取り口の手に、称賛の声が聴かれるよう精進して欲しいものです。
特に次期オリンピックの際、土俵入りをしたければなおさらのことです。そこに行くと、日馬富士は卑怯で姑息な手は遣わない紳士だと観察しています。
野球人で言えば、衣笠さんみたいだと思っています。二度とない人生です、清く美しく生きたいものです。
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『人としての生き方』(第80回)
つまり、天の仕事を総理というものが代って行うわけです。これは中国から伝わっているひとつの思想ですが、こうした自分の立場を失って、”俺がトップだ””自分がすべてだ”と思った時に、アドルフ・ヒトラーや、ベニート・ムッソリーニのような過ちを犯すようになる。
これは経営でも同じことだと思います。”これまで築いたのは俺の力だ””俺がいなかったら何も出来ない”というものではなく、自分の立場を踏まえ、その時々に絶えず学びながら、後進を育ててゆくことが大事だと思います。
俺がおれがの我を捨てて、お陰おかげの下に生きよ。
といいますね。「お陰様」「有り難う」という気持ちがあるからこそ、互いに尊重し合い、敬し敬せられる、そうした豊かな関係を築くことが出来るのではないでしょうか。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第71回)
明治九年六月、大久保利通が開墾場を視察し、大いに賞讃したときも、開墾士たちは大いに感激していますが、実は内情偵察でありました。同年九月に巡察した三条実美、山県有朋、伊藤博文もまた同じことでした。政府は西郷と庄内の動向をもっとも恐れていたのです。
ぐっと下って明治三十九年のことですが、大隈重信が菅と開墾をこう評しています。
「庄内には菅という知恵者がいて、戊辰戦争の戦後処理に活躍したが、その後は薩摩に傾きすぎて方針を誤った。菅は天下がもういちど大きく乱れると見、その機会(第二維新)に乗じようとしたらしい。十年の役が終ってもその迷夢が覚めなかった。我が輩が庄内にいったとき(明治十四年)開墾を見たが、あれは若い者の筋骨を練るためだった」
大隈の見方は本質を見抜いています。西郷がいない政府の圧力はじわじわと開墾士におよんで、ある者は憤激し、ある者は動揺して、志気を失っていったのでした。
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浄几明窓、古人の書を読む。人間の幸福此れより大なるはなし。史を読むは無窮の懐あり。千古を洞観し、古今を一視す。人生の一大事なり。『東洋人物学』123
浄い机、明るい窓に倚って古人の書を読むことは、人間の幸せの中でも此れより大なるものはない。史を読むということは極まりない奥深さと歓びがある。連綿と続いてきた悠久の月日の中で、人生の一大快事といっていい味わいがある。
【コメント】漢文調の得も言えぬ味わいのある文言です。大した学歴・能力とてない私ですが、半世紀にわたり、購入し、読み感動した作品を片っ端から書き写してきました。
この所は心の栄養剤となる漢籍を繙き、読み、書き写す道楽の毎日です。お蔭さまで高齢者特有の呆けは無縁のような気が致しています。
通常云うギャンブルにうつつを抜かすよりか、歴史的に読まれ続けている文学作品をお読みになられた方が満足感一入となることでありましょう。
元政治家が自分の名声を裏から誇示したいために、天才なる者を紹介していますが、その天才君が現職の時、テレビに映ると昭和天皇はテレビのスイッチを切ったとお聞きしたものです。
世の人々のためになることならいいのですが、背景に懐こやしの一面があってはならないのです。西郷隆盛の漢詩にある、「過ちを斉しうしては之を己にかい、巧を同じうしては是を人に売れ」という精神こそ歴史的に人々から称賛されると思います。
昨日の大相撲で白鳳が高安を下しました。私が言及したハリテは目立ちませんでしたが、歴史に名を刻んだ大横綱となった訳ですから、これからはその取り口の手に、称賛の声が聴かれるよう精進して欲しいものです。
特に次期オリンピックの際、土俵入りをしたければなおさらのことです。そこに行くと、日馬富士は卑怯で姑息な手は遣わない紳士だと観察しています。
野球人で言えば、衣笠さんみたいだと思っています。二度とない人生です、清く美しく生きたいものです。
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『人としての生き方』(第80回)
つまり、天の仕事を総理というものが代って行うわけです。これは中国から伝わっているひとつの思想ですが、こうした自分の立場を失って、”俺がトップだ””自分がすべてだ”と思った時に、アドルフ・ヒトラーや、ベニート・ムッソリーニのような過ちを犯すようになる。
これは経営でも同じことだと思います。”これまで築いたのは俺の力だ””俺がいなかったら何も出来ない”というものではなく、自分の立場を踏まえ、その時々に絶えず学びながら、後進を育ててゆくことが大事だと思います。
俺がおれがの我を捨てて、お陰おかげの下に生きよ。
といいますね。「お陰様」「有り難う」という気持ちがあるからこそ、互いに尊重し合い、敬し敬せられる、そうした豊かな関係を築くことが出来るのではないでしょうか。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第71回)
明治九年六月、大久保利通が開墾場を視察し、大いに賞讃したときも、開墾士たちは大いに感激していますが、実は内情偵察でありました。同年九月に巡察した三条実美、山県有朋、伊藤博文もまた同じことでした。政府は西郷と庄内の動向をもっとも恐れていたのです。
ぐっと下って明治三十九年のことですが、大隈重信が菅と開墾をこう評しています。
「庄内には菅という知恵者がいて、戊辰戦争の戦後処理に活躍したが、その後は薩摩に傾きすぎて方針を誤った。菅は天下がもういちど大きく乱れると見、その機会(第二維新)に乗じようとしたらしい。十年の役が終ってもその迷夢が覚めなかった。我が輩が庄内にいったとき(明治十四年)開墾を見たが、あれは若い者の筋骨を練るためだった」
大隈の見方は本質を見抜いています。西郷がいない政府の圧力はじわじわと開墾士におよんで、ある者は憤激し、ある者は動揺して、志気を失っていったのでした。
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