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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『中村天風哲学と南洲翁遺訓』

2009-09-01 15:30:15 | 南洲翁遺訓

タイトル----『中村天風哲学と南洲翁遺訓』--2 第128号 21.09.01(火) 第124号に続きます。

 かつて、ギリシャの哲学者、プラトンはいった。「憤激なき国民は亡びる」と。二十一世紀を迎えた今日、日本人が、その誇りを失い、虚偽や、背信や、忘恩や、不義や、恥知らずや、不親切や、罪悪や、暴力、非道徳に対して無神経、無関心となって、「憤激」を失ってしまう時、その未来に希望はもち得ないであろう。『時代』

 右は、伊藤淳二氏の著書からの引用だが、平成21年8月30日執行の総選挙で大敗した、政権与党であった自民党の政治姿勢に似ている部分が少なくないようである。

 それは、半世紀以上に亘り政権を担ってきた訳だが、政権与党は、長年「権力のうまみ」を欲しいままにした関係上、どうしても野党に渡したくなかったのであるが、虐げられている国民はたまったものではない。政治とは、一部権力者や特定の人のためにするということではなく、国民のために執行するという基本的な部分が欠落しているように思えてならなかった。だが、総選挙では、民主党が圧勝し、自公政権はものの見事に大敗したのである。政治を執行するのは政治家・官僚である。その政治家を育てるのは選挙民である、という崇高な理念のもとに、大衆が、選挙民が日々安住することなく、研鑽しなければならないのである。今回の事象で敗北した議員諸氏も振るえ上がったに違いない。それが本来の素直な心である。

 筆者は拙著『礼節のすすめ』で〈大衆の沈黙、声無き声をしかと受け止め-----(謙虚さがないと)民意の鉄槌でお仕置きをされる〉と書いたが、不幸にして予言どおりとなった。

 人間の一生は、ドラマでもあるという。「事実は小説よりも奇なり」というが、天風師と南洲翁の実体験から得た生きる術は、まさしく金言であると言える。それは筆舌に尽くし難い体験から学び得た「人の道」の訓えであることから、人々の思考を遥かに凌駕し、我々に生きる道しるべを力強く指し示しているのだと言っていい。

 それぞれの人生ドラマが展開される中で多くの人々は、より価値のあるものを求め、日々の営みを展開しているのだが、世は、目まぐるしく、しかも急速度で進展している。そういう社会背景の中で人々は、知恵の限りを尽してはいるものの、そこには現象社会に安住し、若干の甘えもないとは言えないと思う。

 そういう悶々としている自分の人生に、活路と生き甲斐を感じて欲しいと思い、二人の英雄・哲人の生き方を紹介する次第である。二人に共通する偉大さは、自らを責め他を怨むような人でなかったということである。その徹底ぶりは想像を絶するほどである。

 ご紹介する内容を、真剣に、かつ厳粛に捉え、自身の人生に活用しようと心掛け実践すれば、その恩恵多大なるものがあると思料する次第である。

 共に学びたいものである。そして辿りたいものである、英雄・哲人の足跡を----。

                                     博の庵にて  味園博之


『中村天風哲学と南洲翁遺訓』

2009-08-31 11:23:11 | 南洲翁遺訓

タイトル----『中村天風哲学と南洲翁遺訓』--1   第124号 21.08.31(月)

 はじめに

 中村天風(中村天風または天風師と書く)と西郷隆盛(西郷隆盛または南洲翁と書く)、この英雄・哲人の二人の内、どちらが、世の人々に知られているであろうか。

 歴史的な人物伝等作家諸氏が書いたのを見聞すれば、西郷隆盛が圧倒的に多いと言う。それは西郷隆盛が活躍した時代が古いということもあり、さらに、日本の国が黎明期を迎えた明治の一時期、それぞれの勢力が力学的衝突を繰り返した、いわゆる群雄割拠した時代であったということも、一因であろうと思う。

 西郷隆盛は我々凡人が、およそ想像も出来ない程の筆舌に尽くし難い、艱難辛苦を経験し、人生を踏破したといってもいいであろう。筆者は、三十年の長きにわたり、西郷隆盛の文献を読み漁り、かつ南洲翁の遺訓とされる『南洲翁遺訓』を常時携行すると共に、独特の勉強法で学んで来た。

 西郷隆盛の人物像を学びはじめてから経過すること凡そ十年、ある月刊誌に中村天風の一代記を紹介する書籍のことが掲載されていた。それを購入し、読んで行く内、こんな人が世の中に本当にいるのだろうかと強い衝撃を受けると同時に、関心を持ち書籍で学んで来た。中村天風も波乱万丈の数奇な運命に翻弄され、身体を酷使した時期があった。そのような無理をしたため、当時では難病とされた粟粒結核を患い、その病を治すため名医を訪ねアメリカはじめ外国をさまよい歩いた。だが、名医と言われる方々と面会したにも関わらず、適切なアドバイスも貰えず、病が治癒しないため絶望感を抱き日本へ帰国する途中、インドの聖者・カリアッパ師との運命的な出会いをした。その後、ヒマラヤの山地で聖者カリアッパ師からヨガ哲学を学び、宇宙の哲理を学んで行くうち絶望感に打ちひしがれた病気も快復していった。天風師は、会得したヨガ哲学を基調とした人生の哲学的教えを、今度は天風師自らが不幸な人々を救うという、偉大な事業へと昇華させて行くのである。

 人間の一生には人それぞれ幸不幸ある訳だが、西郷隆盛と中村天風二人の人生体験は、普通の人々の難儀苦労とは比較にならない程の艱難辛苦と言っていいだろう。

 この書で紹介する二人の英雄・哲人に共通する思想と行動様式は、天理を会得し、過酷な人生経験から学び得た、人世(ひとよ)に生きる人間として、何が大事で、何を修得し、それをどう人生に活かして行かねばならないかを、懇切丁寧に教え諭し、人々に精神的肉体的に安らぎを与えてくれたという点で極めて酷似していることである。

 平成二十一年の今日、新聞テレビ報道によれば、一部政治家が、官僚が、企業の経営者が、良識をかなぐり捨て、栄華を貪るという非常識ともとれるような、人々に対する背信行為が日々紹介されている。事件性としては終了した感があるが、公益財団法人「日本漢字能力検定協会」の「公益法人」の範疇を逸脱していた当事者の運営方法にも、多大な疑義が発見され、理事長親子が退任を余儀なくされたのも象徴的な事件であった。その時、その事象について、漢字一文字で表すとすればどういう文字になりますか、という記者の質問に、理事長はすぐ思いつかないと首を傾げた。が、筆者は、「濁」という文字を贈呈したいと思ったのである。因みに、「濁るとは、物事が純粋・潔白でなくなる。清らかさ・正しさが失われる。」(『広辞苑』第六版)と解説している。------続きます。


いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒心の意弛み--『南洲翁遺訓』

2009-08-22 13:48:13 | 南洲翁遺訓

タイトル----いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒心の意弛み----『南洲翁遺訓』 第104号 21.08.22(土)

 事業を創起する人其の事大抵十に七八迄は能く成し得れども、残り二つを終り迄成し得る人の希れなるは、始は能く己れを慎み、事をも敬する故、功も立ち名も顕わるるなり。功立ち名顕るるに随い、いつしか自ら愛する心起り、恐懼戒心の意弛み、驕衿の気漸く長じ、其の成し得たる事業を屓み、苟も我が事を仕遂んとてまずき仕事に陥いり、終に敗るるものにて、皆な自ら招く也。故に己に克ちて、睹ず聞かざる所に戒心するもの也。(『南洲翁遺訓』第二十一章・後半部分)

通訳「事業をはじめる人が、その事業の七、八割までは無難に進むものであるが、残りの二、三割を終わりまで成し遂げる人の少ないのは、それは始のうちは、己を慎み、事をも慎重にするから成功もし、名も認められることになる。ところが有名になるにつれて、何時の間にか自分を愛する欲心に負け、そして抑制がきかなくなり、恐れ慎む心が緩み驕る心と自信過剰とが重なり、仕事もまずい結果となり、遂に失敗に至るのである。これらのことはみな自らが招いたものである。それ故に常に己に克って、人が見ていない所、聞いていない時でも、自ら慎む心をもってあたらなければならない。

 誠にもって当たり前のことである。ところが当たり前のことが出来ないのが人間なのである。それは何故か。そこに「私心」が介在するからである。

 大企業の倒産、中小企業の倒産は枚挙に暇がない。これは通常の事を論じているのである。上は社長の横暴・驕りに始まり、下は労働組合の合法的ではあっても、一般論として不当要求とも取れる事象もあるからだ。そこを調和よく出来ないか、ということが潤滑油の適正な挿し方でもあろう。

 国家的には、平成二十一年八月三十日執行の総選挙に向けて、各党入り乱れて、我が党にと、呼び込みが喧(かまびす)しい。今回は政権交代をテ-マに自民党対民主党の一騎打ちの感さえある。題して、官僚主導による政治と国民主体の政治の何れを選択するかと言う歴史的選挙であると私は解釈している。

 政権を握っている麻生総理は、逃げて逃げて逃げまくって、やっと解散した、というのが常識的な見方であろう。これほど国民の意見を無視した総理はいまい。それは忍耐強い、という面から見たら評価に値する。あと一週間後に向けて「責任力」を声高に吹聴している。その度胸たるや、大したものである。図体は大きいが小心な森元総理とは雲泥の差でもある。8月27日発行週刊文春によると、森事務所に来た朝日新聞の記者に、腹たち紛れに「熱い湯」をぶっかけた由、思わずふきだしてしまった。森元総理に対して国民も「熱い湯をぶっかけたい」と思っているであろうに、と。

 今日は電話世論調査が二件あった。自民党か民主党かと。先の週刊文春によると民主291議席で、「自民は来年参議院で消滅」とある。これを読み、溜飲が下がった。当たり前のことである。

 過去、半世紀以上、国民に知らせず、国民を欺き、国民の税金を公益法人へ垂れ流し、かつ860兆円の借金を作っていて、民主党がバラマキだ、と麻生総理は絶叫している。頭はホントか、と疑いたくなる。民主党が絶対良いなどと国民は思っていないのだ。膨大な金をしたい放題垂れ流して、いまだに謝罪もしないことへの怒りだと私は思う。友人・知人は自民党ひいきが多い。その方々でさえ同様の見解なのである。これまで国民を愚弄していて、まだよろしくお願いします、とはどういう精神の持ち主なのであろうか。

 昨日の読売新聞では、「日本の安全」を見定めて一票を投じたい」と呼びかけている。読売の思想的座標軸を基点とすれば、当然のことである。これも渡辺氏の意向もあるのだろう。外交・防衛が大事であることは、国民は先刻承知なのである。その意味において民主党がいいなどと思っている国民は極く少数の筈だ。その民主党が国民の意向に反することをすれば、たちまち民主党も吹き飛ばされる筈である。先ずは無駄遣いと、天下りと、世襲議員の廃止をしてからでないと国民は自民党の意見に与しないであろう。

 驕る平家は久しからず、そして『南洲翁遺訓』が訓戒するように「驕衿の気」をなくし、国民無視でない、国民の意向に沿った政治をしなければならない、と西郷南洲翁も訓えているのである。
 

 


講学の道は敬天愛人を目的とす(『南洲翁遺訓』)

2009-07-27 11:37:33 | 南洲翁遺訓

タイトル---講学の道は敬天愛人を目的とす  処世の金言 4  21.7.27月 第43号

 道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。『南洲翁遺訓』

 人間の進む道というものは、天地自然のおのずからなる道理であるから、学問を究めるには道理をつつしみ守り、仁の心でもって人々を愛するという敬天愛人を目指すことが涵養である。そして自らを修養するためには、己れに克つということを目標としなければならない。己れに克つという真の目標は、『論語』にある「あて推量をしない、無理押しをしない、固執しない、我を通さない」ということである。

 上は、『南洲翁遺訓』第二十一章の言葉である。『南洲翁遺訓』は、西郷隆盛が生前、荘内の有志に、人生論を吐露したものを記録保存し、年月をかけ練りに練って醗酵させてきた。

 その南洲翁の精神を、荘内藩家老・菅実秀翁を中心とする英邁な先達の方々の荘内魂が受精し、かつ叡智を結集し、人間の知的文化として結実させたものである。まさしく処世の要諦としての歴史的遺産でもある。

 その内容は、あるいは人倫を説き、あるいは学問の進むべき道を示し、あるいは政治のあるべき姿を明快率直に教えている。

 「敬天愛人」は南洲翁の信条とされる。南洲翁を学べば敬天愛人が理解できる。愈愈学べば東洋思想が理解でき、そして儒教にも、仏教にも、キリスト教にも相通じることがわかる。この天地自然の道とは、人間が長い間に天地自然から学んだもので、まさに天地の道理そのものであり、人間の本性に根ざした人の道である。

 自分さえ良ければ、自分の国さえよければという小市民的な思想が蔓延した場合、宇宙船地球号は取り返しのつかない事態に追い込まれ、修復不能となる危険性大である。

 多くの人々は能力を競い、偏差値向上のみを追い求めているように見受けられるが、競うことはよしとしても、そこに共存共栄の豊かな思想がなければ、折角の努力も水泡に帰すような気がしてならない。

 南洲翁は至誠一筋の達観、透徹の士と言われる。外国の制度は取り入れても日本精神は変えてはならない、という士道精神が骨髄にある。そして人類の進みいく先を洞察し、一息入れた節がある。

 一方、破壊や建設という対極の領域である仕事を導入すると同時に、西洋文明に見られる目を見張る技術文明の導入を性急に図り、国家の発展至上主義一徹に奔走した大久保とは、そこが違う。

 『南洲翁遺訓』を学び思うことは、永久に磐石たりうる人世を模索し、実践への道程としなければならない、と南洲翁が語りかけているような気がするのである。


『南洲翁遺訓』とは何か。紹介します。

2009-07-11 15:50:08 | 南洲翁遺訓

 『南洲翁遺訓』は明治末期に活躍した西郷隆盛の遺訓とされています。それは西郷南洲翁が生前語られた言葉や教訓を蒐録したものであるということです。

 本文、追加合わせて53章という短いものですが、その内容は、あるいは人倫を説き、あるいは学問の進むべき道を示し、あるいは政治のあるべき姿を明快率直に教えています。しかも南洲翁の言葉は今なお脈々と生きていて、われわれの処世の道に大きな示唆を与えているのです。

 この遺訓は、実に東北旧荘内藩(今の山形県鶴岡市、酒田市付近)の藩士たちが南洲翁が語った教訓を集め、刊行したのですが、それではなぜ荘内から出版されたのか、ということです。

 明治維新の前夜、戊辰の戦は日を追うて熾烈を加え、他藩は皆壊滅、または降伏帰順した中で荘内藩のみは官軍の心胆を脅かし続けました。由来、荘内藩は徳川譜代の親藩であって、徳川家と存亡を共にする義に基づいたものでもあったでしょう。明治元年九月に至ってようやく降伏し城を明け渡しました。この時の荘内藩に対する終戦処理はきわめて寛大でした。

 即ち、藩主・酒井忠篤公は軍門に降るというのは名のみで、面縛の恥辱も受けず、家臣も他に移されず、自宅で謹慎せしめる程度でした。後日、その命令が西郷南洲翁の指図によることを知った荘内では、藩主以下諸将、南洲翁の人徳の偉大なるに感動し、かつ心服しました。(『西郷南洲先生遺芳』)

 世には「荘内は賊軍となり、ついに官軍に無条件降伏した。その際、寛大な処置を下したのが南洲翁であり、荘内では感激して、永くその恩恵を忘れなかったのは当然であろう」と、南洲翁と荘内の関係を説く人も多い。なるほどそういったことも確かにあったであろうし、又その事実か゜、その後の深交の動機の重要な一つになったと考えられます。

 南洲翁と荘内の場合、それは「心交」であり、「道交」でした。従って当然「人」あっての問題であり、根底を成すものは「道義」只一つであったことに、私共は深く思いをいたさねばなりません。(『庄内と大西郷』)

 何時の時代でも人々は、利権を巡って争いごとを繰り返しています。今の政治もそうです。そのような時、弱者の我々が、如何に意義あるべく人生に生きるかという命題を訓えているのです。

 要は、人々が眼を開き、心眼を開き、どういう処世をすべきか真剣に考えなければならないのです。地道ではあるが、幼い子供たちに何が正しいかを教えていかねばならないということで、空手道場で文武両道の「文」に『南洲翁遺訓』をとりいれているのです。