タイトル----『南洲翁遺訓』「ほ」組織(邦家)を崩壊させる「小人」 第344号 22.1.9(土)
「小人程才芸有りて用便(ようべん)なれば----重職(じゅうしょく)を授くれば、必ず邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すものゆえ、決して上には立てられぬものぞ。」と也。
この言葉は、南洲翁遺訓第六章の後半に出て参ります。意訳は、「小人程才能と技芸が有って便利なものであるが、-----だからといって長官のような重職に据えると、必ず国をつぶすような事になるから、決して上には立ててはならないものだ」と。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。
「君子と小人」について、古くから人間についていろいろ区分して表す方法が存在し用いられて来た。先ず「聖人」という表現もある。人間として持つ才能とか人間らしい生き方として持たなければならない徳性の全てを持つ者を聖人と称した。
それと対象的に、才と徳の両方とも無い者は「愚人」と言われた。そして徳が才に勝る者を「君子」と言い、才が徳に勝る者を小人と言った。従って徳だけでも駄目だし、才だけでも駄目だと言うことで、学問、知識、技能等を相当程度持っても徳の少ない者は小人であるとされた。このような解釈がされた時代では、みな君子になろうとして努力をされたのである。(前掲書「君子と小人」)。
藤田東湖は水戸藩士で文化三年(一八〇六)生まれ、水戸九代藩主、徳川斉昭(烈公)に仕え片腕として活躍された大学者。東湖先生は、小人は才気の徳は備えないが、一芸に達し一部の才能の豊かな者も少なくない。だからその長所を採って適材適所の職につけ、その才能を発揮させるがよい。小人の才能は適当に用いなければならないものだが、才能の限界を見損なって高官にしたり、重職に任じたりすると必ず私利私欲のとりことなり、汚職や派閥争いで国家を覆す等をする心配がある。よく注意しなければならない、と教えられている。(前掲書「藤田東湖先生」)。
ある町内会にしまり屋の会計係りがいました。会費が手元に集まり握ったら、先ず放さないしっかり屋です。だが、会費というのは費目毎に予算を計上し、権威ある総会で慎重審議し承認の上、一年間運営・執行するというのが通常のやり方なのです。高齢化社会と言われる今日、町内には長年組織を支えて来た老人の方々がいます。過去の労苦に報いるためと、いざというときのために豊富な経験から来る知恵を戴こうと老人会の方々にも組織化してもらい、町内会に団体登録してもらっています。
それには費用が要るため、恒例により交付金として若干の予算が計上されています。ところが、しっかり屋の会計係りは、計画書を提出しろ、単なる遊びではないか等々難癖をつけて渡さないのです。過去も総会で承認され、円満に運営・活動してきたのですが、一人の会計係りの短絡的・個人的思考のために老人会は永年の歴史を閉じ、解散を余儀なくされました。誠に理不尽な仕打ちというべき事例でありました。
冒頭紹介した言葉は、一世紀前に西郷南洲翁と藤田東湖が対談したときの高度な国家論ですが、平成の今日にも通用する組織論でもあります。会計係りが金銭の出し入れを几帳面にするということは、一種の「礼」に適う行為ではあります。しかし、社会は多くの人々で構成されています。
真の礼を基調とした役目を遂行しようと思うならば、組織としての生命を存続発展させる調和ある度量・精神性が要求されます。併せて、骨力としての包容力・忍耐力・調和力・思考力もです。高度な論理を引用しましたが、次元を小型化した事例です。老い先短いと言ったら失礼になりますが、大きな気持ちで互助の精神でやりたいものです。