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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『南洲翁遺訓』「ほ」組織(邦家)を崩壊させる「小人」

2010-01-09 20:25:40 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「ほ」組織(邦家)を崩壊させる「小人」 第344号 22.1.9(土)

「小人程才芸有りて用便(ようべん)なれば----重職(じゅうしょく)を授くれば、必ず邦家(ほうか)を覆(くつがえ)すものゆえ、決して上には立てられぬものぞ。」と也。

 この言葉は、南洲翁遺訓第六章の後半に出て参ります。意訳は、「小人程才能と技芸が有って便利なものであるが、-----だからといって長官のような重職に据えると、必ず国をつぶすような事になるから、決して上には立ててはならないものだ」と。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 「君子と小人」について、古くから人間についていろいろ区分して表す方法が存在し用いられて来た。先ず「聖人」という表現もある。人間として持つ才能とか人間らしい生き方として持たなければならない徳性の全てを持つ者を聖人と称した。

 それと対象的に、才と徳の両方とも無い者は「愚人」と言われた。そして徳が才に勝る者を「君子」と言い、才が徳に勝る者を小人と言った。従って徳だけでも駄目だし、才だけでも駄目だと言うことで、学問、知識、技能等を相当程度持っても徳の少ない者は小人であるとされた。このような解釈がされた時代では、みな君子になろうとして努力をされたのである。(前掲書「君子と小人」)。

 藤田東湖は水戸藩士で文化三年(一八〇六)生まれ、水戸九代藩主、徳川斉昭(烈公)に仕え片腕として活躍された大学者。東湖先生は、小人は才気の徳は備えないが、一芸に達し一部の才能の豊かな者も少なくない。だからその長所を採って適材適所の職につけ、その才能を発揮させるがよい。小人の才能は適当に用いなければならないものだが、才能の限界を見損なって高官にしたり、重職に任じたりすると必ず私利私欲のとりことなり、汚職や派閥争いで国家を覆す等をする心配がある。よく注意しなければならない、と教えられている。(前掲書「藤田東湖先生」)。

 ある町内会にしまり屋の会計係りがいました。会費が手元に集まり握ったら、先ず放さないしっかり屋です。だが、会費というのは費目毎に予算を計上し、権威ある総会で慎重審議し承認の上、一年間運営・執行するというのが通常のやり方なのです。高齢化社会と言われる今日、町内には長年組織を支えて来た老人の方々がいます。過去の労苦に報いるためと、いざというときのために豊富な経験から来る知恵を戴こうと老人会の方々にも組織化してもらい、町内会に団体登録してもらっています。

 それには費用が要るため、恒例により交付金として若干の予算が計上されています。ところが、しっかり屋の会計係りは、計画書を提出しろ、単なる遊びではないか等々難癖をつけて渡さないのです。過去も総会で承認され、円満に運営・活動してきたのですが、一人の会計係りの短絡的・個人的思考のために老人会は永年の歴史を閉じ、解散を余儀なくされました。誠に理不尽な仕打ちというべき事例でありました。

 冒頭紹介した言葉は、一世紀前に西郷南洲翁と藤田東湖が対談したときの高度な国家論ですが、平成の今日にも通用する組織論でもあります。会計係りが金銭の出し入れを几帳面にするということは、一種の「礼」に適う行為ではあります。しかし、社会は多くの人々で構成されています。

 真の礼を基調とした役目を遂行しようと思うならば、組織としての生命を存続発展させる調和ある度量・精神性が要求されます。併せて、骨力としての包容力・忍耐力・調和力・思考力もです。高度な論理を引用しましたが、次元を小型化した事例です。老い先短いと言ったら失礼になりますが、大きな気持ちで互助の精神でやりたいものです。


『南洲翁遺訓』「ま」自分の意思を曲げ人のいいなりになるのはよくない。

2010-01-08 18:41:05 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「ま」自分の意思を曲げ人のいいなりになるのはよくない。第343号22.1.8(金)

 「曲げて彼(か)の意に順從(じゅんじゅう)する時は、軽侮(けいぶ)を招き、好親(こうしん)却って破れ、終(つい)に彼の制を受るに至らん。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第十七章の後半の言葉です。意訳は、「相手の意思に従い自分の意思を曲げる時は、かえって軽蔑されることになり、新しい交わりは破れて最後には相手の意のままに制御される結果になるのである。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 先ず思い当たるのはつい一年前まで、日中と日韓の間にいつも繰り返された教科書問題と靖国神社問題があった。何時も日本は悪者扱いの感があった。

 はたして日本には正道と言えるものがあったのであろうか。若しあったとしても、正道を信念をもって、生命をかけて堂々と展開する人物が居ったのであろうか。

 過去の歴史の批判に萎縮して、ただ円満に、事なかれ主義となり、一時しのぎを繰り返しただけではなかったのか。其の結果として、相手から軽侮を招くのみであったようにも思われた。

 しかし日本外交の当事者が全部おかしいとは言えない。それにしても、これからの外交は、まさに正道を踏み命をかけて国と共に斃れる精神の人が現れることを祈念するのみである。(前掲書「現今の外交にもあてはまる道」)。

 国と国との議論が衝突した場合、軍事による解決を選択するのではなく、堂々と亘り合う気概は欲しいものであります。

 私ごときがこのような事を書くのは忸怩たる思いであるが、国家間については為政者が、その任を全うすべきが筋というものであります。

 この項の活用についての卑近な例が、押し売りについての対応です。手を変え品を変え玄関先での押し売りについては、問答無用、不要な時ははっきりと言うべきです。

 こちらが堂々と出れば、相手は退散する筈であります。グズグズするから隙をつかれ、買わなくてもいいものを買わされる破目になるのです。

 そして振り込め詐欺についても同様です。私が腑に落ちないのは警察に依頼するということです。これが不思議でならないのです。

 一端(いっぱし)の大人が、電話で騙されたとはいえ、自分の意思で振り込むのは、当人の責任以外の何物でもないと思います。

 どのような手口でこようが毅然とした態度で臨み確認すれば、振込詐欺などには遭わない筈です。そういう時、他人に順從され、軽蔑されていることを知るべきです。

 


『南洲翁遺訓』「せ」筋道がとおり、心清く恥を知る人になろう。

2010-01-07 17:55:00 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「せ」筋道がとおり、心清く恥を知る人になろう。第342号 22.1.7(木)

 「節義廉恥を失いて、国を維持するの道決してあらず。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第十六章の最初の言葉です。意訳は、「国民が節義(せつぎ)と廉恥(れんち)の心を失ったら、国を維持する方法は決してありえない。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 節義というのは、人間が考えること、行うことが正しくすじ道がかなっていることであり、廉恥というのは、心清くして恥を知ることである。それは天地の公道でもあり一時の人為などで動かない不動の人間の道である。(前掲書)。

 これは高度な人間論でありますが、私共では身の回りに置き換えて考えることにしています。

 青少年に、「あなたが人を傷つけたりまたは泥棒をしたりすると、人から信用されなくなります。ということは、健全な自分を維持出来なくなるということです、と。

 そのような人が、何か事を興(おこ)そうとした場合、人に協力をお願いしても、悪いことをする人には誰も相手にしてくれません。

 だから、かねがね考えることが自分本位であってはならず、行うことも正しくすじ道が通っていなければならない、ということを西郷南洲翁は教えているのです」と。

 人間の歴史は闘争の歴史でもあり、人々は日々の闘いの中に生きています。世界の出来事が瞬時に伝わって来る今日、人々が求めているものは、そこに人間の美しさがあるか、忍耐力があるか、協調性があるか、というような事ではないかと思います。

 ややもすると自分だけはいい思いをしたい、楽をしたい、幸せになりたいという願望が優先しがちです。そのため自己中心の利欲を欲しいままにし、他人のことを省みなくなります。

 そういうことは良くないということで、西郷南洲翁も訓戒しているように、「行うことが正しく筋道にかなっており、心清くして恥を知る」心が大切であるわけです。

 その大切な事を日々実践するためには、己に克つ、いわゆる克己心を培うことが賢明であると言えましょう。それを基調に生きていければ、これ程強いものはないと思います。

 時代が早いテンポで進んでいるため、忙しさのためにという理由で、いい加減に処理してはならないと思います。

 今こそ日本の国に根付いてきた「礼と節」という精神文化を見直し、お互い生活しやすい日常にしたいものです。先ずは自分を堂々と維持して行くために、確固たる精神でもって日々を生き抜きたいものです。 


『南洲翁遺訓』「お」己れ(自分)を慎み、行いを正しくしよう。

2010-01-06 16:59:49 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「お」己れ(自分)を慎み、行いを正しくしよう。第341号 22.1.06(水)

「萬民の上に位する者、己を慎み、品行を正しくし、-----」

 この言葉は、南洲翁遺訓第四章の最初の言葉です。意訳は、「国民の上に立って政治を行う者は、先ず以って己を常に省みて、自分の行いを正しくしよう。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 議員の資格もない私ごときが、意訳のとおり「国民の上に立って」などと書くと、お前バカか、とおもわれるでしょう。私は、小さな空手道場で子供たちに、「勤勉の大切さ」及び「品行(おこない、ふるまい。)の重要性を説いています。

 全国的に、親も子も頭が良くなれば善い、偏差値が向上すればいい、ということが強調されている昨今であります。それが大事であることは言うまでもありません。

 だが、それだけでいいのでしょうか。多くの人々で構成する社会は、それなりの規範、暗黙の約束事があると同時に必要でもあると思います。ここでは品行と併せ品性と言う言葉も一緒に考えたいと思います。

 冒頭の「己れを慎み、品行を正しくし」という言葉は、市井に生きる我々自身も肝に銘じなければならないことであろうと思います。

 人間の一生では、年若き頃は大なり小なり「己れも慎まず、品行も悪く」無分別な時もあると思います。歳を重ねるにつれて、学びも深くなり経験を積むごとに軽率な振る舞いは慎むようになります。ところが歳を重ねても「性」の改善されない人もいるのです。

 鹿児島では、宴席で酒を飲むとき、盃をやりとりする風習があります。ある男が言いました。酔って首が垂れている男に「醤油」を飲ませるから見ていなさい、と。

 そして胡坐をかいている男の膝をつついて盃を渡しました。酔った男は首は垂れたままで盃を受け取るのです。しかける男は酔ったふりをして、醤油を注ぎました。

 首の垂れていた男は、疑いもせずグッと飲み干しました。と同時にグェッと吐き出しました。しかけた男は自分でも酔ったふりをしているのです。酒癖が悪く、品行が悪く、手に負えないしかけた男の品性でした。

 そういう男が人々の上に立ち、議員をし、労働組合の委員長をし、若い人々を率いて行くとした場合、組織が、団体が、健全に発展するでしょうか。組織の責任者をし、若い人々を指導する立場の者が、己れを慎まず品行の悪さを見せつけた、宴席でのひとこまでした。

 上に立つ人は、人が見ていようといまいと、「己れを慎み、品行を正しくし」人々のお手本にならなければならないのです。


『南洲翁遺訓』「し」終始(いつも)自分に勝って身を脩するなり。

2010-01-03 14:26:09 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「し」終始(いつも)自分に勝って身を脩するなり。第340号 22.1.3(日)

「学に志す者、規模(きぼ)を宏大(こうだい)にせずばある可からず。去りとて唯ここにのみ偏倚(へんい)すれば、或いは身を脩するに疎(そ)に成り行くゆえ、終始己に克ちて身を脩する也。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第二十三章の最初に出て参ります。意訳は、「学問を志す者は、その理想を宏大にしなければならない。しかし唯このことだけに固まってしまうと、身を修めることがおろそかになるものである。常に自分の我に克つように修養することが大事である。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 日々、学問に精出す人とそうでない人とでは、相当な開きが出てくるのは当然でしょう。四十代の時のことである。毎日昼時間と就業後、会社でよく本を読んだものです。ところがある上司が、「味園さん、そんなに本を読めば、周囲の社員が馬鹿に見えるでしょうね」と言いました。

 夜間高校しか出ていない私はそのように思ったことは一回もありません。とにかく学びたい、ただ一心でした。会社から本屋さんへ月刊誌毎月十冊、単行本十冊程注文したものです。

 大宅壮一著『炎は流れる』、会田雄次著『日本人の意識構造』、R.ベネディクト著『菊と刀』等々購入しました。読めば読むほど知らないことばかりでした。とにかく本を通じて教えて貰ったのです。そして書けるようになりたい、と思ったのです。

 その後南洲翁遺訓と出会いました。学を志す者に大事な事として、小野寺理事長は、一、学問に対する志をしっかり持ち、目標は遠大であること。二、方向が片寄り身を修めることが疎雑になりがちである。三、己に克って身を修めること。四、器量を備え人を容れること、と要諦を説いています。

 ただ漁(あさ)るだけの独学であるが、人格を修めている荘内南洲会の先生方に「非礼があってはならない、南洲精神に違背することがあってはならない」という自戒のもとに、青少年共ども古典との戦いを実践しているのです。

 思うに、喫緊の課題は学歴偏重を解消し、人物を修める学問でなければならないと思料します。その為には漢籍に好きになって貰うことだと思うのです。

 学問を深め、未熟な自分に打ち克って、世の人々のお役に立つように、人生をどのようにより良く生きるかということだと思います。