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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『南洲翁遺訓』「か」 我をとおすという滑稽な論理。

2010-01-19 16:14:02 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「か」我をとおすという滑稽な論理。第356号 22.1.19(火)

『講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、「意なし、必なし、固なし、我なし。」と云えり。』

 この言葉は、南洲翁遺訓第二十一章の冒頭に出て参ります。意訳は、「学道講究の道は敬天愛人を目指すことである。即ち敬天愛人こそは人間の道である。これを完全に遂行することを目標にするのが学道の本筋である。そして自らを修めるためには克己を以て終始しなければならない。己に克つ為に大切なことは意なし、必なし、固なし、我なしと論語の中で孔子が申されている。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 南洲翁遺訓と出会って凡そ三十年。何回読んでも心に染み入る南洲翁の訓戒であります。この訓戒を見事に人々の精神に食い込ませるために、小野寺理事長のこの解説が一段と光輝いています。

 学問を目指し実践して行くと、普通の人に比べ知的にも優れてくるし、詳しくなるのは当然であります。その目指す学問は、人に見せるものではなく、己に克つためのものでなければならない、いわゆる人格の陶冶のためでなければならないという一語に尽きるでしょう。

 でも多くは、そういうことよりか自分が優先だ、と早合点し、道を外れて行く場合があるようです。

 人はどうあれ、我々南洲翁遺訓を座右の銘とするものは、一時的な事象に翻弄されることなく、南洲翁遺訓の真髄に迫って行かなければならないと思うし、他の人に先んじて、その教えを道として模範を示さなければならないと思います。

 本来ならば、政治家になる人々が、率先垂範して人々を導かなければならないのでしょうが、平成二十一年の政権交代以降、政治家という集団は、何れも同種同根だと言っても過言ではないように思えるのです。

 卑近な例が、鳩山総理の野党時代発言した言辞が、全くの詭弁であったことです。曰く、官房機密費の透明化、秘書が逮捕された時の議員の身の処し方等々、野党時代の発言は誰が言ったのかといわんばかりの態度である。

 そしてまた幾ら政権党の幹事長だからと言って、国民の象徴たるものを口先で操ることがあってはならないのです。田中、金丸親分でさえ言及しなかったことを平然と口に出し、自分のすることは至言だと言わんばかりの態度には、国民が納得する筈はないと思います。

 南洲翁遺訓は西郷隆盛が政治に携わった立場から、国政を運営するに当たり、そこに私心があってはならない、贅沢のかぎりであってはならない、国政は国民の為のものであるべきだと主張し、自らがそれを実践して見せた類希に見る政治家の訓戒であります。

 政治家は市井に生きる我々とは異なり、抜群の能力を有した人達だと思う。先に書いた「学道講究」、いわゆる学問の道を研究した人達でもある筈です。敢えてここで取り上げたいのは、「我なし」ということの「我を通さない」という問題です。

 平成二十二年七月には参議院議員選挙が予定されています。参議院選挙比例区には自民党では七十歳以上は公認しないという取決めがあったやに言われています。それを先の衆議院選挙に落選した人たちが、そういう取決めを撤廃して私を公認して欲しいということに対しての考え方の問題です。

 そういう人に対してメディアでは「意欲」があると書いているが、あれは「我欲・私欲」であって意欲ではないのです。自分達が決めたル-ルを自分の都合のいいように変更せよと平然という「我をとおす」、何と滑稽な論理であることか。

 そういう言い分を聞き、先に覚醒剤に手を染めた国民的アイドルと持て囃されたタレントの女の子と同次元だと思っている国民は少なくないでありましょう。

 議員バッジは麻薬なのだろうか、と思えてならないのです。


『南洲翁遺訓』「し」その時その場に臨んで(事事物物時に望みて)

2010-01-15 12:03:23 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「し」 その時その場(事事物物時に臨みて)第353号 22.1.15(金)

 「己れに克つに、事事物物時に臨みて克つ様にては克ち得られぬなり。兼て気象を以て克ち居れよと也。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第二十二章の言葉です。意訳は、「自分に克つためには、一つ一つその時やその場に臨んで、自分に克とうとするのでは、なかなか克てないものである。前々から堅い信念をもって己に克つことを固く鍛えておくことが大事である。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 人間には大小強弱の差はあるが誰にも自分なりの欲望がある。それが身を修する時の大きな障害となり易いので、古来より修行の中で一番大事なことは己に負けない心を持つこととされて来た。

 山中の賊は破るに易く、心中の賊は破るに難しと言われて居る通り自己心中の邪心ほど手強い相手が無いのである。克己とは、己の良心、良識を弱めておる自己に内臓されて居る邪心を押さえることである。それが修行であり、修業であった。(前掲書「克己とは」)。

 能力も学識もない一介の空手道武道家である私が、このような高邁な論に触れ、かねがね空手道場で門下生に説いているわけですが、南洲翁遺訓との出会いがあったからなのです。

 そして荘内南洲会・長谷川信夫二代理事長、小野寺時雄現三代理事長との出会いがあり、ご懇篤なる指導を賜ったからであります。そして学べ学べと私の弟からも激励されました。

 でも、最終的には本人が決断しなければならないことなのです。『南洲翁遺訓』、『菜根譚』、『言志録』、『論語』等々肌身離さず大きな鞄に入れ持ち歩いたものです。NHKの放送も数多活用しました。ギャンブルをする喜びよりも、このように学ぶ喜びの方が遥かに意義があると思うのだが、如何でしょう。

 とにかく連日ブログを書き、漢籍を読み、つづり方をすればエネルギ-が湧いて来るのです。一種の病気だと思っています。「病」は学問・修養のことであり、「気」は情熱のことです。

 私は、味園道場で学ぶ門下生に、この「病気」を感染させたいと思っています。能力向上のための教育機関は数多ありますが、荘内南洲会が説く「人間学」としての学問でないと意味がないのです。

 事事物物、その時その場でなく、日常的に己に挑戦する気概を持ちたいもりです。諦めなければ目的遂行は可能だと思うからです。


『南洲翁遺訓』「せ」正道ほど強いものはありません。

2010-01-15 11:20:31 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「せ」 正道ほどつよいものはありません。 第352号 22.1.15(金)

 「事大小と無く、正道を踏み至誠を推し、一事の詐謀を用う可からず。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第七章の冒頭に出て参ります。意訳は、「事の大小にかかわらず、正しい道を真心をもって貫き通す。一事の策略を用いてはいけない。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。

 正道とは何なのか。何が正しいのか、その判断ほどむずかしいものはない。これを間違えば成功は初めから無いことになる。その判断が出来なければ踏み行うという実行は出来ないことになる。その大事な判断は誰がやるのか、何を基準にきめるかという事になる。

 結局自分が決めなければならない。その判断力を身につけること以外にはない。その第一歩は学ぶことである。しかし完成ということはあり得ない。その為に生涯学ぶことが必要であると申し上げたいのである。(前掲書「正道を踏む」)。

 では生涯学ぶとは何を学ぶのか、ということである。私は南洲翁遺訓との出会いのお陰で、多くの古典と出会い、学んで来た。それらを自分で朗読録音し、何十回となく聞いて来た。門下生にもそれらを贈呈しても来た。

 平成22年1月10日の新年会で、各師範の学問道に立ち向かう力強い決意表明がなされました。曰く、『菜根譚』を書く、『論語』『孟子』を暗記する、『南洲翁遺訓』を書く、『言志録』を書くという具合である。

 全国に空手道場は数多あるとはいえ、そういう学問への直向な取り組みする道場があるだろうか。それは何のためなのか、ということである。

 冒頭に紹介した「正道を踏み至誠を推す」という一念の思いからなのです。事を進めるにあたり、私利に立つか、立たぬか、世の人々の手本となれるか否か、自分本位であるかどうか、ということに対する大儀名分の貫徹という崇高な思いからなのである。

 私ども円心会空手道場は、荘内南洲会の方々との20年近くの交流を重ねています。学識・能力面では迚も私共が太刀打ち出来る人々ではないのです。

 かねがね責任者の私が言っていることは「真面目さの勝負」ということです。多くの古典が訓戒する至誠・清廉・研鑽・徳義・忠恕等々の訓えを構築し、自分に、世の人々のために、如何に役立てることが出来るかということなのです。

 それを味園道場で修行する師範たちは座右に置き、自分との闘いを演じて行くのであります。まさしく荘内と薩摩の地で、南洲精神を構築し、如何に広めるかに徹する団体・組織なのです。


『南洲翁遺訓』「な」あの人が適任だ、と言われる人になろう。

2010-01-13 20:37:55 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』「な」あの人が適任だ、と言われる人になろう。第351号 22.1.13(水)

「何程制度方法を論ずるとも、その人に非ざれば行われ難し。」

 この言葉は、南洲翁遺訓第二十章前半の言葉です。意訳は、「どんなに制度や方法を議論しても、それに当る人物がいなければ運用も実行も出来ない。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)

 事業の挙がるも人に因り、国の治まるも人にあれば、宝というものは品物にあらず、人ほどの宝ものはなきものなり。故に人を観るは尤も大切に慎まずばならぬものなりと菅臥牛先生遺教の中で教えておる。まことに事業の成功も失敗もすべては人に在ることを明示されておる。(前掲書「事業も又政治と同じ」)。

 言論、表現の自由である今日も弁舌爽やかな人は多いが、そういう人が信頼に値するか否かは実績を見てみないと分からないものである。

 私が現役時代、会社で品質管理(QC)活動を良くやったものです。発表大会終了後、20名のリ-ダ-による反省会を行いました。

 反省会の責任者が20名のリ-ダ-に一人5分の範囲で意見発表をお願いします、と宣言しました。20名がそれぞれ意見発表をした後、責任者は自分だけ30分間、ベラベラ喋ったのです。

 出席していた人が、貴方は時間厳守を宣言したではないか、自分だけ何故長々と喋るのかと苦情を言ったのです。当然です。この男は、労組の役員経験者で弁舌爽やかであったが、喋りすぎるため嫌われていたのです。

 特にそういう仕事をした人は、自分だけ特別扱いする傾向にあるようです。いろいろな事象は人間社会にありますが、要はそこに、人間の誠実さがあるか否かということです。

 これを書いている今日(平成22年1月13日)、午後7時のNHK全国放送テレビで民主党の小沢幹事長の関係先に東京地検の家宅捜査が入ったと報道されました。

 小沢氏は、そのような問題が透明であり、国民の皆様に理解して戴いたから、民主党に投票し政権交代が果たせたのだ、というような事を発言したのが報道されました。それは違うと思います。

 前政権時代、官僚の天下り、特別会計の無駄遣いに怒った国民が、自浄能力のない自民党に怒ったのです。国民世論を求めると八割の国民がそのように言っているのです。

 外交防衛に国民が関心がない訳ではないが、先ずは食べていくのが先決なのです。国民が民主党に期待しているのは、取りあえず金の問題を解決してくれれば民主党は、今回の自民党同様、吹き飛ばされることは間違いないと思います。理由は別項で書きます。