タイトル----『南洲翁遺訓』「か」我をとおすという滑稽な論理。第356号 22.1.19(火)
『講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ。己に克つの極功は、「意なし、必なし、固なし、我なし。」と云えり。』
この言葉は、南洲翁遺訓第二十一章の冒頭に出て参ります。意訳は、「学道講究の道は敬天愛人を目指すことである。即ち敬天愛人こそは人間の道である。これを完全に遂行することを目標にするのが学道の本筋である。そして自らを修めるためには克己を以て終始しなければならない。己に克つ為に大切なことは意なし、必なし、固なし、我なしと論語の中で孔子が申されている。」(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)。
南洲翁遺訓と出会って凡そ三十年。何回読んでも心に染み入る南洲翁の訓戒であります。この訓戒を見事に人々の精神に食い込ませるために、小野寺理事長のこの解説が一段と光輝いています。
学問を目指し実践して行くと、普通の人に比べ知的にも優れてくるし、詳しくなるのは当然であります。その目指す学問は、人に見せるものではなく、己に克つためのものでなければならない、いわゆる人格の陶冶のためでなければならないという一語に尽きるでしょう。
でも多くは、そういうことよりか自分が優先だ、と早合点し、道を外れて行く場合があるようです。
人はどうあれ、我々南洲翁遺訓を座右の銘とするものは、一時的な事象に翻弄されることなく、南洲翁遺訓の真髄に迫って行かなければならないと思うし、他の人に先んじて、その教えを道として模範を示さなければならないと思います。
本来ならば、政治家になる人々が、率先垂範して人々を導かなければならないのでしょうが、平成二十一年の政権交代以降、政治家という集団は、何れも同種同根だと言っても過言ではないように思えるのです。
卑近な例が、鳩山総理の野党時代発言した言辞が、全くの詭弁であったことです。曰く、官房機密費の透明化、秘書が逮捕された時の議員の身の処し方等々、野党時代の発言は誰が言ったのかといわんばかりの態度である。
そしてまた幾ら政権党の幹事長だからと言って、国民の象徴たるものを口先で操ることがあってはならないのです。田中、金丸親分でさえ言及しなかったことを平然と口に出し、自分のすることは至言だと言わんばかりの態度には、国民が納得する筈はないと思います。
南洲翁遺訓は西郷隆盛が政治に携わった立場から、国政を運営するに当たり、そこに私心があってはならない、贅沢のかぎりであってはならない、国政は国民の為のものであるべきだと主張し、自らがそれを実践して見せた類希に見る政治家の訓戒であります。
政治家は市井に生きる我々とは異なり、抜群の能力を有した人達だと思う。先に書いた「学道講究」、いわゆる学問の道を研究した人達でもある筈です。敢えてここで取り上げたいのは、「我なし」ということの「我を通さない」という問題です。
平成二十二年七月には参議院議員選挙が予定されています。参議院選挙比例区には自民党では七十歳以上は公認しないという取決めがあったやに言われています。それを先の衆議院選挙に落選した人たちが、そういう取決めを撤廃して私を公認して欲しいということに対しての考え方の問題です。
そういう人に対してメディアでは「意欲」があると書いているが、あれは「我欲・私欲」であって意欲ではないのです。自分達が決めたル-ルを自分の都合のいいように変更せよと平然という「我をとおす」、何と滑稽な論理であることか。
そういう言い分を聞き、先に覚醒剤に手を染めた国民的アイドルと持て囃されたタレントの女の子と同次元だと思っている国民は少なくないでありましょう。
議員バッジは麻薬なのだろうか、と思えてならないのです。