聖書か、伝統か・・
ある事柄について、聖書には、どのように語られているのだろうか。ルターが始めた宗教改革でたどりついたことは、聖書のみということだった。そして、それまでのカトリックの伝統を破棄したのが、プロテスタントだったのではないか。
つまり、私たちは、迷うときには聖書にはどのように書かれているのか、ということを問題にする。よその教会の礼拝や集会に出席して、違和感を感ずる光景を目の当たりにすることがある。例えば、讃美のときに、片手や両手を挙げたり、それも、その手を左右に振ったり、なかには頭まで振ったりして讃美している方がいる。それは、恍惚状態に見えるときもあって、キリスト教も宗教の枠に入るのだから、そのような行為もあろうと思ってきた。
ところが、手を挙げて讃美することの方が、聖書的だということになったら、私たちはどうするか。礼拝前には、静寂の中で、心を整えることを当然のように考えてきたが、そのようなことは聖書のどこにも書いていないということになったらどうか。イエス・キリストの福音が、十字架と復活に閉じられないことは、青野先生の指摘されるところだ。
自明のこととして行っているけれども、聖書に根拠を置こうとしたら、結構、私たちは目から鱗ということがあるのかもしれない。しかし、伝統というものもまた、そこには、長い年月に耐えうる豊かな内容や知恵が含まれている場合もあり、一概に切り捨てることも危険な行為ではある。
平良師