枠に収まらないこと
イエス様は、当時のユダヤ社会の枠内で生きることをされなかった。それで、社会秩序を形成していた権力を持つ人々から嫌がられた。当時の枠とは律法であった。律法を忠実に守っている人々は○、そうでない人々は×で救いから漏れていると考えられた。
先日テレビを見ていたら、カラオケマシーンの評価によって、プロの歌手たちとアマチュアが、優劣を競っていた。まず、正しい音程で歌っているかが評価され、それから、しゃくり、こぶしやビブラートが加点となるというシステムだった。それまでは、人間の審査員が評価していた。そこには、当然、客観的な評価基準があるが、感動というものもかなりのウエイトを占めていたはずだ。
ところが、評価するのは機械である。人が感動をおぼえるところに、機械は反応できるのかどうか、そこを測定できるのかどうか、が問題である。対象曲が自分の持ち歌で何十年も歌ってきたプロの歌手が、アマチュアの子どもに負けるケースもかなりあった。
しかし、感動をおぼえたのはどちらかということになると、長年歌いこなし、ちょっと自分なりのアレンジを加え、音程は楽譜通りではないけれども、歌詞の意味などもかみしめながら歌っている、やはり、プロの歌手である。カラオケマシーンのはじき出す点数は、アマチュアの方が高くても、感動を呼び起こすという点では、プロには適わないと思った。楽譜に命を吹き込む、それがプロだろう。聖書を読む時はどうか。
平良師