主の晩餐式への参与
日本キリスト教団では、現在ひとりの牧師の「免職」という「戒規処分」をめぐって、東京地裁で裁判がおこなわれている。東京の元紅葉坂教会牧師の北村慈郎先生が、「聖餐式」(主の晩餐式)をオープンな形で、すなわちまだ洗礼を受けていない者もそれに参加できる仕方で執行した、ということを、教団の常議委員会が教団の「教憲教規」に違反する、と判断して、多数決でこの処分に及んだのである。
もしもそのような「主の晩餐式」の執行の仕方がいけないから免職だ、ということになれば、平尾教会の平良牧師も、松村協力牧師も、そして私も、牧師を辞めなくてはならないことになる。もちろんバプテストの群れは、教団のような「教憲教規」を持ってはいないし、また各個教会主義のもとでそれぞれの教会の決断を互いに尊重するから、そのような「処分」が権力を持った委員会によってなされるなどということはありえない。
北村牧師は「考えの違う者を無理なやり方で切り捨てて排除することは、その人の尊厳を侵している」と訴えているのだが、常議委員会側は、「裁判の本質は、未受洗者への配餐の是非に尽きる」として、「教憲教規」の規定が誤りのない聖書の教えに基づいていることを主張している。
しかし、聖書の解釈の是非を、世俗の裁判所が判断できるとでも考えているのだろうか。イエスは誰をも分け隔てすることなく、ともに食事をなさり、すべての者が無条件に神によって愛されていることを宣言してくださったのではなかったか。だからこそ私たちは、その福音を受け入れて信仰を告白し、バプテスマを受けるのではないのだろうか。それは「主の晩餐式」に与るための資格のようなものではないはずである。他教派のことではあるが、権力を持った教団執行部が、イエスの福音の根源に立ち返ってほしい、と切に願うものである。
青野師