(承前)
東山魁夷は戦前、画家がパリを目指すのが主流だった時代に、あえてドイツを留学先に選んだ。
これは、彼が、日本画家であり、絵を学ぶのではなく、「西洋を見ておきたい」「西洋美術史をしっかり学んでおきたい」という動機であったためだろう。
ひとつ追記しておくと、哲学でも医学でも経済学でも、およそ最新の学問を習得しようとする者はだいたい米国を目指すのが不通だと思われるが、それはあくまで20世紀後半以降の話であって、20世紀前半までは、学問の国といえばドイツであった。
学問と知の覇権が大戦を境にドイツから米国へと移ったことの要因のひとつに、ナチスによる学問、言論の自由への弾圧と、学者の大量の亡命がある。多少なりとも名の通った学者や芸術家はほとんどドイツ国内に残らなかったのではないかと思われるくらいであった。
ドイツから米国に亡命した小説家にトーマス・マンがいる。
彼はノーベル文学賞を受けたほどの大作家だが、もともと芸術至上主義的なところがあり、政治的な話題は敬遠していた。
しかし、第2次世界大戦中は、反ナチのために筆を執り、宣伝放送で語り続けた。
彼の生地リューベックを描いた絵が、道立近代美術館での東山魁夷展に出品されていた。
「霧の町」という、冬の古都を俯瞰気味の角度で描いた作品だ。
トーマス・マンが故郷リューベックを舞台に描いた初期の名作「トニオ・クレーゲル」を、東山魁夷はきっと読んでいたことと思う。
芸術家の道を歩むか、市民として生きるか、という命題がこの作品のテーマであると同時に、画家にあこがれながらも、「母を悲しませないため」普通の市民として生きようとしていた少年時代の魁夷にも大きくかかわってくる問題だからだ。
「やまとしうるわし」と題して1975年に行なった講演から引いた。
結局、画家への情熱は捨てがたく、中学(旧制)の先生の後押しもあって、東京美術学校(現東京藝大)への進学が実現するわけであるが。
しかし、東山魁夷は、もともとまっとうな社会人への志向が強かったこともあってか、勉学にマジメに励み、美術学校でも成績は良かったらしい。
逆に「自分にデモーニッシュなものが欠落しているのではないか」と悩むほどであったという。
たしかに、彼の画風からも、静けさを追い求める人柄はしのばれる。ボヘミアン的な、芸術家気取りといった性質からはもっとも遠いような感がある。毎晩パーティーに明け暮れていたようなパリに彼が留学しても、おそらくなじめなかったであろう。
ただ、そこが、東山魁夷が国民的画家として人気を得た要因のひとつではないかと思うのだ。
戦後の日本人はまじめであった。
戦争中の精神力をそのまま経済復興に振り向け、がむしゃらに働いた。
たぶん、絵画でも、才能だけで描いて塗り残しがあるようなものは受け付けず、きっちりと仕上げた作品が好まれたのではないかと思う。
朝から深夜までずーっと絵筆を執り続けていた東山のまじめさが、たぶん日本人に共鳴したんだろう。そう思う。
困ったな、
東山魁夷については、まだまだ書き足りない気分だぞ。
東山魁夷は戦前、画家がパリを目指すのが主流だった時代に、あえてドイツを留学先に選んだ。
これは、彼が、日本画家であり、絵を学ぶのではなく、「西洋を見ておきたい」「西洋美術史をしっかり学んでおきたい」という動機であったためだろう。
ひとつ追記しておくと、哲学でも医学でも経済学でも、およそ最新の学問を習得しようとする者はだいたい米国を目指すのが不通だと思われるが、それはあくまで20世紀後半以降の話であって、20世紀前半までは、学問の国といえばドイツであった。
学問と知の覇権が大戦を境にドイツから米国へと移ったことの要因のひとつに、ナチスによる学問、言論の自由への弾圧と、学者の大量の亡命がある。多少なりとも名の通った学者や芸術家はほとんどドイツ国内に残らなかったのではないかと思われるくらいであった。
ドイツから米国に亡命した小説家にトーマス・マンがいる。
彼はノーベル文学賞を受けたほどの大作家だが、もともと芸術至上主義的なところがあり、政治的な話題は敬遠していた。
しかし、第2次世界大戦中は、反ナチのために筆を執り、宣伝放送で語り続けた。
彼の生地リューベックを描いた絵が、道立近代美術館での東山魁夷展に出品されていた。
「霧の町」という、冬の古都を俯瞰気味の角度で描いた作品だ。
トーマス・マンが故郷リューベックを舞台に描いた初期の名作「トニオ・クレーゲル」を、東山魁夷はきっと読んでいたことと思う。
芸術家の道を歩むか、市民として生きるか、という命題がこの作品のテーマであると同時に、画家にあこがれながらも、「母を悲しませないため」普通の市民として生きようとしていた少年時代の魁夷にも大きくかかわってくる問題だからだ。
その当時は、いまとはひどくちがって、私たちが住んでいた環境では、絵描きになるなどといったら、親のほうが気絶するくらいの時代だったわけです。なにしろ、絵描きは市民生活の異端者と思われていて、貧乏絵描きということばが通称になっていたくらいです。
そんなわけで私は、「画家にはならない。自分が貧乏するのは平気だけども、おふくろが悲観するだろうから」と先生にいったのです。
「やまとしうるわし」と題して1975年に行なった講演から引いた。
結局、画家への情熱は捨てがたく、中学(旧制)の先生の後押しもあって、東京美術学校(現東京藝大)への進学が実現するわけであるが。
しかし、東山魁夷は、もともとまっとうな社会人への志向が強かったこともあってか、勉学にマジメに励み、美術学校でも成績は良かったらしい。
逆に「自分にデモーニッシュなものが欠落しているのではないか」と悩むほどであったという。
たしかに、彼の画風からも、静けさを追い求める人柄はしのばれる。ボヘミアン的な、芸術家気取りといった性質からはもっとも遠いような感がある。毎晩パーティーに明け暮れていたようなパリに彼が留学しても、おそらくなじめなかったであろう。
ただ、そこが、東山魁夷が国民的画家として人気を得た要因のひとつではないかと思うのだ。
戦後の日本人はまじめであった。
戦争中の精神力をそのまま経済復興に振り向け、がむしゃらに働いた。
たぶん、絵画でも、才能だけで描いて塗り残しがあるようなものは受け付けず、きっちりと仕上げた作品が好まれたのではないかと思う。
朝から深夜までずーっと絵筆を執り続けていた東山のまじめさが、たぶん日本人に共鳴したんだろう。そう思う。
困ったな、
東山魁夷については、まだまだ書き足りない気分だぞ。
心待ちにしていた東山魁夷展、3回観て満足しました。
終わってから、3連続の記事を読ませていただき、また、違った視点で画家が作品に込めたものを眺めることができました。
トーマス・マン著書「トニオ・クレーゲル」を読もうと思います。
小生が挙げる本をいつも読むのは大変だと思いますが、「トニオ・クレーゲル」は薄いので、それほど時間はかからないでしょう。
小生は北杜夫氏の本から「トニオ・クレーゲル」を知りました。
まず、リューベックといえば、トーマス・マンが聯想されると思います。
フーズムなどと並んで、旅してみたい土地です。