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■東山魁夷展・続き

2012年09月11日 20時36分57秒 | 展覧会の紹介-絵画、版画、イラスト
承前

 前の記事で、東山魁夷のどん底時代ともいえる1940年代にふれ、そこには「三つの死の影があるのではないか」という説を述べた。
 もう一度簡単にまとめると

・相次ぐ肉親の死
・日本という祖国の死
・自分の死の予感

である。

 自分の死の予感というのは、1945年(昭和20年)に召集令状が届き旧陸軍に入隊したことを指す。

 軍隊で東山魁夷は、熊本県の海岸で、米軍上陸を迎え撃つための穴を掘っていたという。
 その際、熊本城から見た景色に強く感動して、目を開かれた経緯は、図録の文章などにも引用されている。
 ちょっと長くなるが、ここでも引く。ここに、画家の原点があると思うからだ。

森の都と呼ばれる熊本市のかなたに肥後平野が青々と続き、近くには妙正寺山、遠くに阿蘇のすそ野と、雄大なながめであった。そのとき一種の衝撃を感じてこの風景に見入った私は、帰途、走りながら、なぜあんなに美しく輝いて見えたのだろうと思った。(中略)いわば、平凡な風景であり、平生、見過ごしていたものである。それが、今、あんなに美しく見えた。生命の輝きというものだろうか。それが私に見えた。今までは生命に対する緊迫感がなく、自然の反映の中にその輝きをとらえる心の働きが鈍かったためか。展覧会とか名声とか、そういうものが私の目から自然のほんとうの美しさを見出すのを邪魔していたのではなかったか。純な心で自然を見なかったのにちがいない。ようやくそれがわかった現在、もう長く生きのびる希望も、絵を描く望みもない。私は汗とほこりにまみれて、あえぎながら走る一団の中で、歓喜と後悔に心が締めつけられるのを感じた。
(「私の履歴書」172ページ)


 「絵を描く望みもない」というくだりに、大げさと思ってはならない。
 当時、日本は、米軍の上陸をむかえうつべく、本土決戦を叫んでいた。
 当時の日本人男性、とくに10~30代はほとんど全員が、天皇陛下のために死ぬ覚悟でいたのだ。
 「あと2カ月で終戦なのに…」
というのは、今から見ればそうかもしれないが、当時はそんなこと知る由もない。

 ここで、死刑台の手前から生還したドストエフスキーと比べるのは、大げさかもしれない。
 しかし、死の淵から帰ってきたことが、東山魁夷芸術の再出発の原点にあるのは、間違いのないことだと思う。




 ここで、さらに想像をたくましくする。

 東山魁夷の風景画には、人物がまったく登場しない。

 古今東西、風景画家は多いが、ここまで徹底して人間を描かない人は珍しいだろう。

 ふと思ったのだが、ここで描かれているのは、画家にとっての「死後の世界」「あの世」なのではないだろうか。

 静まり返ったような、澄み切った世界。
 もちろん、窓辺には花が咲き、道は続いているから、廃墟や、人類滅亡後のような、空漠とした感じはない。
 しかし、東山魁夷の風景を見ていると、夜明け方のひとけのない光景を思い出す。

 肉親をすべて失ったあとで再出発を果たした東山にとって、そこに展開している世界は、非常に透明で清澄でありながら、いや、それだからこそ、「あちら側の世界」なのではないかと思う。


 そういえば、絶筆の「夕星」について、NHK「日曜美術館」で興味深い映像が紹介されていた。

 青い夜空に星がひとつ輝き、丘に囲まれた青い池の前に、木が4本並んでいる、静かな世界だ。

 画家本人は、この絵について

これは何処の風景と云うものではない。そして誰も知らない場所で、実は私も行ったことが無い。つまり私が夢の中で見た風景である。(中略)たぶん、もう旅に出ることは無理な我が身には、ここが最後の憩いの場になるのではとの感を胸に秘めながら筆を進めている。


と書いているのだが、これとそっくりな場所があるらしい。
 ただ、手前が池ではなく、墓所になっており、東山魁夷の墓がそこにあるのだ。

 この絵に続く「冬の旅」「行く秋」といった作品を見ても、しみじみとしたさびしさとともに、それが、彼岸と此岸とを超えたところにある風景なのだと思ってしまう。
 それくらい、澄み切った境地なのだ。


(この項続く) 


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