そして、ひどく後味が悪い。
しかし、当ブログがこの問題を避けて通るわけにはいかない。
この件については、朝日新聞が2019年8月4日付の1面トップで報じるなど、すでに大きく取り扱われている。
また、美術出版社の美術手帖ウェブ版が非常に迅速にこの問題を追っていて、注目に値する。後ろの方に「
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」展示中止にまつわる出来事のまとめ(時系列順)( https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/20294 )」をコピペさせていただいた。
さまざまなツイートがツイッターにはあふれかえったが、筆者には、次の「kaedeさん」のつぶやきがいちばん納得できた。というか、これでほとんどが言い尽くされているような気がする。
「けしからん撤去しろ」という声によって撤去された作品を集めてみました、みなさんはどう思いますか?という趣旨の展示に対して「けしからん撤去しろ」って騒いでる人達は、何か根本的にわかってない気がするぞ。
とはいえ、世の人々に「メタ的な構造」を理解してもらうのは難しいのだろうか。
筆者自身はこの展示を見ていない。
だから、あまり決定的なことはいえない。」
一般論だが、展覧会なり芸術祭なりが始まったばかりのタイミングというのは、「準備が間に合いませんでした」という場合があるので、筆者はあまり足を運ばない。一般的な展覧会は、初日午後から1週間がいちばんすいているので、鑑賞には最適のタイミングなのだが、芸術祭は始まった直後は関係者で混雑しているようでもあるし。
芸術監督を務める津田大介さんは、6月末に札幌で行われたトークで、この「表現の不自由展・その後」について「まだオフレコ」と言いつつ、説明していた。
「話題になると思います」
というようなことを言っていたが、正直、話題になりすぎ、というか、「話題になる」というような生やさしいものではなくなっている。
札幌で聞いたとき
「よく愛知県はこの企画を通したなあ~」
と感嘆したのは、いまでも記憶に残っている。
もともと「表現の不自由展」は、2015年に東京・江古田の小さなギャラリーで行われた展覧会が元になっている。
このときは、やり玉にあがった少女の像も展示されていたが、それほど話題にはならなかったという(リンク先は、膨大な展示を見ていることで知られる「はむぞう」さんのツイート)。
今度の企画は、同展が開かれてから現在までの4年間に、撤去させられた事案も含めて再構成したものということだ。
トリエンナーレや国際芸術祭については読者の方はご存じだろうが、芸術監督は、何から何までを決定するわけではもちろんない。配下のキュレーターからあがってきた企画にゴーサインを出すとともに、行政やスポンサーとの調整など、大まかなところを差配するのが仕事だろう。
だいたい、津田さんはアート業界関係者ではない。現代アートの作家についてはほとんど知識がないだろう。この「表現の不自由展・その後」も、自らが主導したというよりは、キュレーターの企画を通したということではないか。
ちなみに、津田さんのツイートによれば、この企画自体の予算は420万円ほどで、しかも民間からの寄附によってまかなわれることになっていたという。
「表現の不自由展・その後」で集中砲火を浴びているのが「平和の少女像」なので、この作品についてちょっとだけ書いておく。
この像が、従軍慰安婦問題をきっかけに作られたことは間違いないが、趣旨としては、女性がひどい目に遭わされた時代を未来に繰り返さないようにというものであり、現代日本を糾弾するのが主目的ではない(少なくとも、大日本帝国は糾弾されているかもしれないが、いまの日本をあげつらうものではないだろう)。
また、従軍慰安婦なんていなかった、作り話だ! などという人がときどきいるのだが、これについては、中曽根康弘元首相や水木しげるさんをはじめ、膨大な戦争体験者が体験記に記しているので、無理な主張としかいいようがない。
この問題をめぐって、「吉田証言」というデタラメにマスコミが振り回されて、朝日新聞が誤報・訂正を出したということがあるが、吉田証言を取り上げたのは朝日新聞だけでなく産経を含む多くの新聞だし、吉田証言がウソだからといって慰安婦問題すべてが否定されるわけでもないのだ。
議論の余地になるとすれば、人数がどれぐらいだったか、そのうち強制的に連れてこられた割合は-といったあたりだろうが、何十万人が拉致されたという主張と同様、全員が自発的に応募してきたという主張も、あまり現実性がないと思われる。
あと、従軍慰安婦が朝鮮・韓国人だけでないのはもちろんで、日本人女性も大勢いた。
兵士たちと同様に、戦場で命を落とした従軍慰安婦もいる。
つまり
「韓国人の従軍慰安婦だけがかわいそう」
なんてことは誰も言っていないのであって、戦場で死んだ兵士も、空襲に逃げ惑った市民も、船が撃墜されて水死した人たちも、ひとしくひどい目に遭ったのがあの戦争だったのだ。
だから
「いやあ、戦争はもうこりごりだね。二度とやりません」
といえば済む話だし(まあ、韓国にも、それで納得しない強硬な反日主義者も少数いるのかもしれないが、そんなのは無視)、実際これまで多くの日本人はそうしてきたはずなのに、どうして近年になって一部の人が、あの少女像にあれほどの反応をするのか、よくわからない。
「世界から慰安婦像を撤去させる」
などと息巻いている人もいるが、かえって日本の対外イメージを悪化させて、逆効果のような気がする。
いずれにしても
「気に入らないから批判する」
と
「気に入らないから撤去させる」
というのは、まったく異なる行為である。
まして、市長のような権力者が
「気に入らないから撤去させる」
というのは、全く非文明国的なやり方である(これは、作品の内容が左だとか右だとかは関係ない)。とうてい賛成できない。
さらにいえば
「気に入らないから、ガソリンを持っていく」
というのは、明確に犯罪なので、取り締まってくれないと困る。
抗議の電話の相手をするのは神経がすり減るものである。
「最後までやり通すべきだ」
というのは、筋としてはそうかもしれないが、現場で非常識な電話の相手をしたり、安全が脅かされている現状としては、そんなことを言っているわけにもいかない。
津田さんには、そのあたりの配慮をお願いしたいと切に願う。
この問題を理解するのに良いと思った記事を挙げておこう。
「言論・表現の自由」については、むろん例外もあるが、それは歴史的に厳密に決まってきているもので、名古屋市長が簡単に決められるものではないーとしっかり指摘している。
あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」をめぐって起きたこと――事実関係と論点の整理 (明戸隆浩 | 社会学者)
次に引用するのは、美術手帖ウェブ版の記事である。
7月31日
朝日新聞、《平和の少女像》が「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」に出品されることを報道。
報道内覧会開催。
8月1日
《平和の少女像》の展示について、松井一郎大阪市長が「にわかに信じがたい!河村市長に確かめてみよう。」とツイート。
8月2日
河村たかし名古屋市長が「表現の不自由展・その後」を視察。大村知事に対し、《平和の少女像》の展示中止と撤去を要請。「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」と発言。
菅官房長官、記者会見で「『あいちトリエンナーレ』は文化庁の補助事業として採択されている。審査の時点では、具体的な展示内容の記載はなかったことから、補助金の交付決定では事実関係を確認、精査したうえで適切に対応していきたい」と発言。
芸術監督・津田大介、記者会見で「行政が展覧会の内容について隅から隅まで口を出し、行政が認められない表現は展示できないということが仕組み化されるのであれば、それは憲法21条で禁止された『検閲』に当たる」と主張。いっぽうで展示変更の可能性についても言及。
8月3日
大村知事および津田が記者会見で、「表現の不自由展・その後」展示中止を発表。
「『表現の不自由展』及び《平和の碑》展示中止反対ご署名の呼びかけ」がスタート。
一般社団法人日本ペンクラブが声明文を発表。「いま行政がやるべきは、作品を通じて創作者と鑑賞者が意思を疎通する機会を確保し、公共の場として育てていくことである」と主張。
「表現の不自由展・その後」実行委員会が展示中止に抗議する声明文を発表。
ハッシュタグ「#あいちトリエンナーレを支持します」がTwitterに登場。
8月4日
「表現の不自由展・その後」展示中止後、初の開場。栄では展示中止に対する抗議デモが開催。
8月5日
河村市長、記者会見で「最低限の制限は必要」と発言。
菅義偉官房長官、記者会見で「一般論として、暴力や脅迫はあってはならない」と発言。
松井一郎大阪市長、記者会見で「税金投入してやるべき展示会ではなかった。表現の自由とはいえ、たんなる誹謗中傷的な作品展示はふさわしくない。慰安婦はデマ」と発言。
あいちトリエンナーレ2019出展作家であるイム・ミヌクとパク・チャンキョンが自身の作品の展示中止を申し出る。
津田大介、ラジオ「JAM THE WORLD」に出演。「検閲というよりは、文化・芸術に対するテロの問題です」と発言。
8月6日
参加作家72組がステートメントを発表。「芸術祭の回復と継続、自由闊達な議論の場」求める。
朝日新聞が8月6日付の社説でこの問題を取り上げた。
社説というのは、往々にして解説と両論併記で終わってしまうことがあるが、今回については論旨がきわめてはっきりしている。
6日現在、ネットで全文が読めるが、ここでも引用しておく。
人々が意見をぶつけ合い、社会をより良いものにしていく。その営みを根底で支える「表現の自由」が大きく傷つけられた。深刻な事態である。
国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019の企画展「表現の不自由展・その後」が、開幕直後に中止に追い込まれた。
過去に公的施設などで展示が許されなかった作品を集め、表現行為について考えを深めようという展示だった。芸術祭として個々の作品への賛意を示すものではなかったが、慰安婦に着想を得た少女像や、昭和天皇を含む肖像群が燃える映像に抗議が殺到した。放火の予告まであったという。もはや犯罪だ。警察は問題の重大さを認識し、捜査を尽くさねばならない。
気に入らない言論や作品に対し、表現者にとどまらず周囲にまで攻撃の矛先を向け、封殺しようとする動きが近年相次ぐ。今回はさらに、政治家による露骨な介入が加わった。
芸術祭実行委の会長代行を務める河村たかし名古屋市長が、「日本国民の心を踏みにじる」などと展示の中止を求め、関係者に謝罪を迫ったのだ。
市長が独自の考えに基づいて作品の是非を判断し、圧力を加える。それは権力の乱用に他ならない。憲法が表現の自由を保障している趣旨を理解しない行いで、到底正当化できない。
菅官房長官や柴山昌彦文部科学相も、芸術祭への助成の見直しを示唆する発言をした。共通するのは「公的施設を使い、公金を受け取るのであれば、行政の意に沿わぬ表現をするべきではない」という発想である。
明らかな間違いだ。税金は今の政治や社会のあり方に疑問を抱いている人も納める。そうした層も含む様々なニーズをくみ取り、社会の土台を整備・運営するために使われるものだ。
まして問題とされたのは、多数決で当否を論じることのできない表現活動である。行政には、選任した芸術監督の裁量に判断を委ね、多様性を保障することに最大限の配慮をすることが求められる。その逆をゆく市長らの言動は、萎縮を招き、社会の活力を失わせるだけだ。
主催者側にも顧みるべき点があるだろう。予想される抗議活動への備えは十分だったか。中止に至るまでの経緯や関係者への説明に不備はなかったか。丁寧に検証して、今後への教訓とすることが欠かせない。
一連の事態は、社会がまさに「不自由」で息苦しい状態になってきていることを、目に見える形で突きつけた。病理に向き合い、表現の自由を抑圧するような動きには異を唱え続ける。そうすることで同様の事態を繰り返させない力としたい。
「表現の自由」は、憲法の「公共の福祉」によって、制限を受けることは、大方の意見が一致しているものの、それでは「公共の福祉」とは、具体的に何かについては議論が収れんする様子がない。規範としての憲法解釈が揺れていることが、今回の騒動の一因ではないだろうか。
日本が1979年に批准した国連の自由権規約の第19条では「表現の自由」とその制限要件を具体的に述べているが、規約を監督する国連規約人権委員会が、日本国憲法の「公共の福祉」概念が規約違反につながる危険性があり、このため、数次にわたり、是正勧告を行ったが、日本政府はこれに積極対応してこなかった経緯がある。
同人権委員会は、憲法の「公共の福祉」条項が規約の制限要件に定義されない限り、表現の自由などの権利にいかなる制約も課すことを差し控えるよう強く求めると警告してしている。
マスメディアは、この国連動向をどの程度、報道してきただろうか。これを機会に、自由権規約における表現の自由と日本国憲法について、改めて、見直す必要があるのではないだろうか。そして、必要あれば、改憲論議も必要ではないか。
ご指摘の国連規約人権委員会の件についてはわたしも不勉強で、全く知りませんでした。
ただし、表現・言論の自由がどういう場面で制約を受けるのかは、北方ジャーナル事件の名誉毀損訴訟など判例の積み重ねはある程度できていると思います。そういうところをぜんぶすっ飛ばして
「気に入らないから撤回だ!」
という脊髄反射が噴出しているところが、今回の怖さだと考えています。