午後にヒストリー各務野会の集まりがありました。
現地学習となっていて、岐阜県博物館での開催でした。現地集合で玄関前に集合、最初に本館の企画展示室に入り、企画展の説明をしてくれたのが近藤先生でした。
岐阜県博物館の玄関です。
この場所に集合となっていました。
企画展。岐阜の城館探訪 ―城が語る郷土の歴史― のチラシです。
企画展示室の入口です。
この室内の撮影はOKでした。
説明してくれた近藤先生です。
この企画展で紹介している城跡です。
それらの城跡を発掘調査していました。
美濃と飛騨の城跡を網羅しています。
郡上の東氏館の紹介です。
中国から陶磁器。肥前から石鍋が到来したとあります。
肥前なら瀬戸内海を通ってきたのだろうか。
中国からも海を渡って渡来しています。
中国の器。
何か月も時間をかけて渡来したのでしょう。
ひょっとしたら1年以上掛かっているかもしれません。
美濃源氏土岐一族と明智光秀。
マイミュージアムで開かれている「美濃源氏土岐一族と明智光秀」のチラシです。
こちらの展示を説明してくれた竹中先生です。
「美濃源氏土岐一族と明智光秀」展は美濃源氏フォ-ラムの出展でした。
土岐氏が群馬県の沼田藩土岐氏に関連する記述がありました。
今日はヒストリー 各務野会 の忘年会が有った日でした。
会場は毎年、やっている「美濃の郷各務原店」でした。
美濃の里に到着です。
お酒を呑むグループ。
呑まないグループと、テーブルが分かれました。
出て来たお料理です。
一人鍋や釜飯が出ました。
今日、ヒストリー各務野会は金城学院大学の名誉教授であり、宝暦治水史蹟保存会の会長のでもある中西達治先生による「幕末維新期の美濃・尾張 時代の流れとそこに生きた人々」と言うテーマでサブタイトルに高須藩士日比野輝寛と信州領内の勤皇ばあさん 竹村多勢子と言う講義でした。
日比野輝寛と竹村多勢子は同じ時代に生きた二人ですが、出会うことは無かったです。
講義の開始前です。
これが今日の資料です。
日比野輝寛と竹村多勢子。
日比野輝寛。
上海日記。
日比野輝寛は上海へ渡航しました。
上海日記の内容。
贅肬録と没鼻筆語。
帰国した日比野の軌跡。
成瀬正肥。
青松葉事件。
鳥羽伏見の戦い。
慶勝の勤皇誘引。
竹村多勢子(松尾)。
江戸時代、女は結婚しても旧姓ままだったのだそうだ。
左が竹村多勢子の肖像写真です。
写真を修整して厳つい顔になったそうです。
講義をする大西先生。
南信州の中の高須藩領。
多勢子の行動力。
多勢子 上京を決意。
京都における多勢子。
上京。
母親の行動をたしなめる娘の手紙に対する返事。
京都に於ける多勢子。
京都に於ける多勢子。
足利木像斬首事件。
事件の後。
伊那谷と国学。
岩倉具視との関係。
岩倉具視との関係。
多勢子。
多勢子と高須松平藩。
多勢子の帰郷。
結び。
日比野輝寛と竹村多勢子に着いて話を聞きました。
激しく変わる維新の時代。
伊那谷で生まれた多勢子。
まだ、鉄道が開通していない時期です。
伊那から大平街道を通り中仙道を歩いたのではなかろうか。
歴史の勉強には想像する面白さが有ります。
今日のヒストリー各務野会は治水史研究家の安井雅彦さんの講義で、テーマは「木曽川水力開発の歴史」でした。明治の時期、この地方でも電気を利用するようになりました。そして、電力の開発と言う観点から木曽川飛騨川の水力を利用するところから始まりました。しかし、川を活用するのに置いて、スンナリとは進みませんでした。既製勢力して木材の水運が有りました。色々の苦難を越えての電源開発。戦後の電力会社の再編成。
そう言った木曽川の水力開発の歴史に着いて学びました。
開講前です。
講師の安井さん。
この地域の電力利用の始まり。
明治22年に名古屋電燈により火力発電所からの送電で始まりました。
今日の資料。
木曽川水系、飛騨川水系のダム。
その多くが開発されました。
水力発電に関わる法律の整備。
時代の進捗により、法が改正されました。
木曽川、飛騨川の水力開発で、福沢桃介が大同電力として八百津発電所賤母発電所などの取組み。木曽川で材木を流していたが、その問題への解決。ダムの水の流量調整に取組んだ事などを聞きました。
今日のヒストリーは郷土史研究家でお城の跡を研究している丸井さんの講義でした。講義のタイトルが「名古屋市東方の城跡」となっていました。講師は若い頃に城跡に興味を持ち、名古屋市東部の城跡を訪ねました。
丹羽氏の歴史と城跡の記録についてお話しいただきました。
講義を始める前の講師。
岩崎丹羽氏の父系。
丹羽氏はもともとは、尾張の北部。今の愛知県丹羽郡に居たのだそうです。
それが名古屋の東部へ移ってきました。
折戸とか岩崎などを押さえました。
名古屋市東部に点在する城跡です。
昭和40年と今の写真の比較です。
講師が城郭を調査した時のモノです。
名古屋東部と各務原の比較です。
同じ縮尺でどれ程の距離か想像できます。
今日は第二金曜日でヒストリー各務野会がある日でした。今日は小牧城の現地見学で小牧市役所へ現地集合となっていました。
小牧市役所の玄関に集合しました。
これから向う小牧城です。
小牧山の案内図です。
市役所に集まり、これから山へ向かいます。
本日の講師。
愛知文教大学の唐松先生です。
階段を登って行きます。
お稲荷さんの所で説明です。
小牧城の下に来ました。
この城。
歴史資料館となっています。
先生が解説している時、下で発掘が始まりました。
今まで休んでいて、私たちが来た時に作業を開始した。
そんなタイミングでした。
多くの人が発掘調査に携わっています。
トレンチを発掘する女性。
説明する唐松先生。
唐松先生を見つけて、女性が上がってきました。
発掘調査を担当している女性。
女性は小野さんと言うのだそうでしたが、唐松先生と言葉を交わしていました。
城の中に入りました。
そして、最上階に上がりました。
南の眺望です。
名古屋駅前の高層ビル群です。
山から下りてきました。
新しい施設。
「れきしるこまき」小牧山城史跡情報館に入ります。
館の内部。
織田信長や秀吉に付いて解説しています。
城址の模型。
岩に佐久間と墨書されたものが発見されました。
その解説です。
信長の関係図。
主従関係や敵、みかたを現しています。
ヒストリー各務野会では、年1回バス旅行に出かけています。
昨年は春に実施しましたが、今年は例年のように秋にと言う事で、秋の実施となり9月の実施でした。
向った所は奈良市の柳生の里です。
かつて大河ドラマの舞台として脚光を浴びた場所ですが、今では訪れる人も無く、ひっそりとしていました。
柳生の里へ向うバスの中です。
今日の参加者は19名でした。
名阪上野ドライブイン
着いた所ですが、ネオンサインは名阪上野ドライブインとなっています。
ここで昼食をとります。
2階へ案内されました。
大食堂には既に先客が昼食中でした。
私たちは窓際の席を指定されました。
既に食事が準備され、並んでいます。
すき焼き風牛肉の一人鍋定食です。
この場所。忍者色、一色の場所です。
名阪上野ドライブインだと思ったら、こちらは名阪上野忍者ドライブインとなっていました。
もともとは名阪上野ドライブインだったのでしょう。
この場所は伊賀市で、伊賀市は忍者の街と言うイメージを売り出しています。
それに乗って名阪上野忍者ドライブインと改名したのでしよう。
干し肉の幟。
忍者が描かれています。
清涼飲料水の自販機。
これにも忍者が描かれています。
こちらはトイレ。
男女の忍者。
と言うことは女子トイレはくの一です。
柳生の里 散策まっぷ
柳生の里のチラシ。
柳生の里へ着きました。
これから柳生の里を散策します。
アノ石垣に白い塀の建物。
アソコへ向かいます。
立派な坂道です。
格調の高さを感じます。
旧柳生藩家老屋敷
長屋門が有ります。
ここを通って屋敷に進みます。
アノ建物が家老屋敷です。
額が一杯掲げてある部屋です。
右側が玄関となっていて、使者などを迎え入れるようになっています。
こちらはお庭です。
ガラスケースの中に春の坂道(一)(二)が並んでいます。
この小説。
作者は山岡荘八でした。
まだ、萬屋錦之助に改名する前で中村錦之助の名になっています。
春の坂道の台本です。
サブタイトルに柳生宗矩の生涯と有ります。
昭和46年の放映。
今から50年近くも前のことになります。
作家・NHKドラマ『春の坂道』の作者とは山岡荘八のことなのでしょう。
「武士の帯刀は抜かぬが理想」「殺人剣は邪道、活人剣こそ武士のたしなみ」--こうした柳生新陰の新しい考えと有ります。殺人剣は(せつにんけん)と読みます。活人剣は(かつにんけん)と読みます。
禅語:弟子が自ら悟りに至れるよう導く知恵の動き 禅語における「活人剣」 禅宗でいう修行者の指導方法の一つ。剣法の真剣に伝えたものであり、相手を受け入れて進ませるのを活人剣という。逆に厳しく突き飛ばすのを殺人剣という。
家老屋敷を後にします。
立派な石垣です。
この石垣はまだ、新しいと思います。
右へ行けば柳生陣屋跡です。
直進すればモミジ橋、そして芳徳寺です。
もみじ橋
打滝川に架かるかえで橋を渡ります。
石畳の道。
少しキツい登り坂の道です。
芳徳寺
芳徳寺へ来ました。
ハギが綺麗です。
芳徳寺の中へ入りました。
入った所が資料館みたいになっています。
柳生家の墓所
杉が繁る道です。
芳徳寺から柳生家の墓所へ向かいます。
歴代藩主の墓が並んでいます。
正木坂剣禅道場。
柳生正木坂剣禅道場の看板が下がっています。
今日、見かけた花たち。
①キンモクセイ。馥郁とした香りを放っていました。
②龍が口を開いたような型知の花。アキギリです。
③真っ赤なヒガンバナ。
④アカハギ。
⑤シロハギ。
⑥キキョウ。
⑦尾花。ススキ。
⑧ムラサキシキブだと思います。
⑨ツリガネニンジン。
感想
柳生の里を訪ねました。
昭和46年のテレビ放映で賑わっただろう、この地です。
今は訪れる人も無く、ひっそりとしていました。
歴代藩主は江戸屋敷にいて柳生に行くことは殆ど無かったようです。ウィッキぺディアには練馬の廣徳寺に墓があると書かれています。この柳生の地の芳徳寺にも墓所が有りました。長年、江戸にいたのだから江戸で葬られ、柳生は遺髪が収まっているのではなかろうか。
歴史を勉強できた日帰り旅行でした。
今日のヒストリーは富加町教育委員会の山内さんの講義でした。タイトルは永禄8年(1565)猿啄城の工房を考える ~歴史PRマンガ『夕雲の城外伝 猿啄の春』より~ です。
信長の東美濃攻略にまつわる話で、『夕雲の城外伝 猿啄の春』と言う標題の歴史PRマンガが美濃加茂市富加町坂祝町が共同して制作されました。
それに関する話でした。
講師の山内さん。
講師照会を受けています。
山内さんの講義が始まりました。
今日の資料。
歴史PRマンガ『夕雲の城外伝 猿啄の春』を使った資料です。
これがそのマンガ。
『夕雲の城外伝 猿啄の春』と『夕雲の城』。
木曽川を挟んで愛知県犬山市栗栖から望む猿啄城です。
地図には城山と載っていて265mの高さです。
今は骨組みだけの城が復原されています。